第三話 手鏡 ―映らない光―
夕暮れが街の端をゆっくりと包んでいく。
格子窓を抜ける風が、鈴のように店の奥をくぐり抜けた。
その音を聞きながら、私は古道具市で手に入れた一つの品を磨いていた。
それは、古びた手鏡だった。
銀の縁飾りはところどころ剥げ、鏡面には薄い曇りが残っている。
持ち手の裏には、小さく『小奈津』と刻まれていた。
市の店主は、渡すときに何気なく言った。
『それ、映すと少し冷えるよ』
その言葉が、なぜか耳の奥に残った。
どれほど磨いても、鏡は完全に明るくならない。
光を受けているはずなのに、どこかに吸い込んでしまうようだった。
夜。店の扉を閉めると、街の音がすぅっと遠ざかっていった。
木の床が軋み、棚の影が静かに伸びる。
その静けさの中で、私は鏡を机の上に置いた。
帳簿を開き、ゆっくりと日付を書く。
――六月二十八日 手鏡。
灯りを落とし、ろうそくの火だけを残す。
炎の光が鏡面に揺れ、銀の縁をかすかに照らした。
鏡の中に、小さな呼吸のようなゆらめきが見える。
私は鏡の前に座り、深く息を整える。
これが、今夜の仕事だ。
ろうそくの光が、鏡の奥に沈み込んでいく。
その静けさの底から、かすかな声が滲んだ。
《見える? あの頃の光が》
若い女性の声だった。
けれど、舞台の終わりに残るような、掠れた響きをしていた。
私は帳簿を開き、筆を取る。
――声、あり。女性。二十代前後。やや疲れた調子。
《私はね、いつも光を浴びていたの。
でも、誰も私の顔を覚えていないの》
鏡の奥で、白粉の粉が舞うような気配。
声の主――小奈津は、舞妓として名を上げようとした人だったらしい。
《舞台で笑っても、客はみんな光ばかり見てた。
『綺麗だ』と言うのは光のこと。
私じゃなくて、光が褒められていたの》
私は黙って聞く。
ろうそくの火がかすかに揺れ、光の筋が鏡を滑る。
そのたびに、鏡の中の影が少しだけ形を変えた。
《光を浴びるほど、顔が薄くなっていくの。
誰かに見られるたびに、私は透けていった》
私は鏡を少し傾けた。
鏡面の奥で、自分の顔がぼんやりと浮かぶ。
けれど、その輪郭の中に、知らない女性の影が重なって見えた。
胸の奥に、光の届かない影が流れた。
それが、この夜の代償だと分かった。
《最後の舞の日、鏡を見なかったの。
見たら、誰もいない気がしたのよ。だから裏返して出た。
光の下で笑って、拍手を聞いた。
でも、誰の目にも、私はいなかった》
炎がひときわ大きく揺れ、銀の縁に影が走る。
鏡面の奥で、花のような模様が一瞬浮かんだ。
《終わったあと、控えの間で鏡を見たの。
そこにいたのは知らない女だった。
笑っているのに、涙の跡が頬に残っていた。
あのとき思ったの。
――光って、人の形を借りて生きるのね》
鏡面の奥で、誰かが微笑んだ気がした。
私は息を呑む。
ろうそくの火が頬を照らし、目元だけを曖昧にした。
《あなたの顔、少し笑ってる。
でも、目が映らないのね》
私ははっとして鏡を覗く。
角度を変えても、瞳だけが映らなかった。
まるで鏡が、目を拒んでいるかのように。
《ありがとう。
あなたの瞳の奥に、私、まだ光として残れる》
その言葉を最後に、声は静かに消えた。
炎が細くなり、鏡面の光がゆるやかにしぼんでいく。
私は鏡を伏せ、ろうそくの火を吹き消した。
闇の中に、化粧の甘い香りがわずかに漂う。
誰のものとも分からない息の気配だけが、店に残った。
◇◇◇
朝。障子の向こうから、白い光が差し込んでいた。
鏡は曇りきって、もう何も映さない。
私は顔を洗い、棚の上に鏡を置く。
曇った表面に、自分の姿を探してみる。
そこには輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
怖いとは思わなかった。
消えていく形の中に、確かに何かが残っている気がした。
帳簿を開き、余白に小さく書く。
――今夜の声、淡し。光、映らずして残る。
棚の上では、急須と懐中時計が静かに並んでいる。
三つの沈黙が、店の空気を整えていた。
私は窓を開ける。
朝の光が差し込み、店の奥に細い影を落とした。
光の中に、誰かの微笑みが一瞬だけ揺らめいた。




