第二話 懐中時計 ―時の息―
雨上がりの翌日、空は薄い雲が流れていた。
昼の熱が残らない涼しさで、路地の端に置かれたブリキのバケツが、風に揺れて小さく鳴った。
「預かっていたやつ、できたよ」
隣の修理屋の戸をくぐると、柏木さんが作業台のランプを傾け、手のひらを開いた。
白い布の上に、銀色の懐中時計が一つ。
光を吸い込むような鈍い艶があり、鎖は細く、傷は少ない。
「動きは……?」
「止まったままさ」
柏木さんは肩を竦め、目元だけで笑った。
「無理やりやれば動くかもしれない。でも、これは直すより、君のところで『聞く』のが合ってる」
私は布ごと、そっと持ち上げる。
冷たさが指の節に移る。表の蓋を開くと、乳白色の文字盤に、控えめなローマ数字が並んでいた。
十二時で止まった針の下、細い刻印が一つ――『E・K』。
「持ち主の頭文字かな」
「そうだろうな」
柏木さんは作業台に肘をつき、こちらを見た。
「長いこと動いていないようだ。不思議なことに、音だけはまだ中に残ってる気がする」
「音が残ることって、ありますよ」
私は笑ってみせた。
彼は短く頷き、再び別の時計に向き直った。
店じゅうに、小さな『時』の粒が散っている。
秒針の音が重なり合い、すぐにまた離れていく。
外に出ると、雲の切れ間から光が降りて、石畳の上に薄い影を落とした。
私は懐中時計を布に包んだまま、静庵堂へ戻る。
扉を押すと、古い蝶番が柔らかく鳴った。
店の空気は、昨夜の湯気の匂いをほんの少しだけ覚えている。
私はカウンターの上に布を広げ、時計を真ん中に置いた。
金属の冷えが木の天板に伝わって、わずかに音を鈍らせる。
灯りを一つずつつけ、奥の棚の埃を払う。
帳簿を開き、ゆっくりと日付を書いた。
――六月二十七日 懐中時計。
時計を軽く傾けると、蓋の蝶番がわずかに擦れて、『ちり』と乾いた一音がした。
それだけで、部屋の温度が半分ほど下がったように思える。
私は椅子に腰を下ろし、帳簿を用意した。
これが、今夜の仕事だ。
時計の蓋を開き、文字盤をこちらに向ける。
針は十二の上で触れ合ったまま動かない。
耳を近づける。
静けさの底で、遠い海のような気配がわずかに揺れた。
《君は、待つのが得意かい?》
金属の内側から、掠れた声がした。
私は帳簿の端に、ゆっくりと書く。
――声、あり。年配の男性。乾いた響き。
《私はね、五十年、ここで彼女を待っているんだ》
「……ここで?」
《ここで、というのは、時間の話さ。
針を動かさなければ、時間はこの場所で止まってくれる。
そう思うようになった》
乾いた『ちり』が、もう一度だけ鳴った。
私は問いを挟まず、息を整える。
聞くことは、急がないほうが良い。
《昔、港街で時計をいじる仕事をしていた。小さな店だったよ。
彼女は海が好きだった。潮の匂いがすると、よく笑った。
出港の日が決まってから、私たちは約束した。
『帰る時間に合わせて、時計を直しておいて』って》
声は、そこでいったん止まり、あたりの空気が薄くなる。
《私は、約束の時間に針を合わせ、それから触れなくなった。
動かせば、約束を破ることになると思ったからだ。
動かさなければ、あの人は『遅れているだけ』だ。
失われたわけじゃない――そう信じたかった》
私は懐中時計を手のひらに乗せる。金属の冷たさに、脈拍が少しだけ強くなる。
自分の鼓動が申し訳ないものに思え、指を緩める。
静庵堂の壁時計が時刻を告げ、すぐにその音は引いた。
残ったのは、止まった文字盤の白さだけだ。
《待つって、止まっているようでね、実は中が擦れていく。
歯車が噛み合うところに、細かい粉が溜まるみたいに、心のどこかがすり減っていく》
私はうなずく。声には見えないが、うなずきは音になる。
《それでも、夜になると、私は耳を澄ませるんだ。
港のほうから、舷側を打つ波の音が聞こえてくる。
あの人の笑い声と、よく重なった。
――君は、待つ音を知っているかい?》
「……まだ、よくは」
《そうか。なら、今夜、少しだけ聞いていくといい》
沈黙が下りる。
店の外を猫が横切ったのか、鈴が一つ『ころ』と鳴った。
《あの人が乗った船は帰らなかった。
誰も、戻らなかった理由を最後まで教えてくれなかった。
私は針を合わせたまま、指を離した。
時間は止まった。私の中だけが、いつまでも出港の朝のままだった》
ガラスに私の顔が映る。
その後ろに、十二時を指したままの二本の針。
影は小さく、輪郭は薄い。
《港の噂では、遠い海で嵐があったらしい。
でもね、私は嵐を憎めなかった。
嵐がなければ、あの人は海へ行かなかっただろうから。
愛したものを憎むのは難しいだろう?》
私は返事をしない。
《ときどきね、針が動き出しそうな気がする。君が来てからだ。
怖いけれど、少しだけ、見てみたい気もする》
その言葉とほとんど同時に、
――『チッ』。
乾いた一音が、懐中に生まれた。
針は動かない。けれど、音だけが、一つ分だけ前に進んだ。
私は思わず息を止める。
部屋の空気が、音を閉じ込めるように静まった。
《あの人の笑顔を思い出せる。
待つというのは、忘れないということだと、ようやく分かった。
針が進めば、私は彼女の遅れを認めることになる。
進めなければ、私はまだ、約束の前にいられる》
声は、そこで薄くなった。
私は時計の蓋を閉じず、ただ手のひらで包む。
《君は、どう思う?》
問われても、私は答えない。
私の言葉が、針を押してしまいそうで。
《そうか。……それでいい。
君は、よく聞く人だ。待つ音を、壊さない》
最後に、懐中の奥で、ごくわずかに『息』のような間が生まれた。
声は、その間に沈み、そのまま戻ってこなかった。
私はゆっくりと蓋を閉じ、布をかける。
帳簿に一行、書き加えた。
――今夜の声、静か。止まったとき、息の音に似る。
灯りを落とすと、銀の輪郭だけが闇に浮かんだ。
冷たいものは、暗いところで輪郭が鮮やかになる。
私は椅子から立ち、窓の鍵を確かめる。
遠くで電車の音が一つ。すぐにまた、静けさ。
そのまま、夜はほどけるように更けていった。
◇◇◇
朝。障子の向こうの光は白く、曇りがかった庭の気配を連れてきていた。
私は懐中時計を布から出し、棚の上に置く。
針はやはり、十二を指したまま。動かない。
けれど、耳を近づけると、一秒ごとに何かが終わって何かが始まるような、透明な間がある。
音というには弱すぎる。
それでも、そこに『呼吸』があると、私は思った。
「動かなかったか?」
戸口で、柏木さんの声がした。
私は顔を上げ、笑った。
「ええ。針は」
「そうか」
彼は店に入ってこないまま、暖簾の向こうで頷いた。
「音は?」
「……あります。というより、間が、残っています」
「それなら、十分だ」
短いやりとりが、朝の空気に馴染んでいく。
柏木さんは『またな』とだけ言って、自分の店の秒針の音の中へ戻っていった。
私は懐中時計の蓋を閉じ、鎖をたたむ。
棚の片隅、昨日の急須のそばに置く。
二つの沈黙が並ぶと、部屋の温度はちょうど良くなる。
帳簿を開き、余白に小さく記す。
――待つとは、動かないことではない。
音があるかぎり、心は少しずつ進む。
秒針のない朝が、ゆっくりと始まった。




