第十話 写真立て ―光に焼かれた記憶―
昼を過ぎても、光はやむことを知らなかった。
空気の層が熱を抱え、街の輪郭が遠くで揺れている。
店の中も白く満たされ、影が淡く滲んでいた。
格子窓の向こうでは、洗濯物が陽に透けている。
風が止まり、蝉の声だけが空気を押しのけていた。
その音の向こう、棚の奥で、ひときわ強く光を返すものがあった。
取り出してみると、それは古びた真鍮の写真立てだった。
縁には繊細な模様が刻まれているが、擦れて半分は失われている。
ところどころ黒ずみ、表面には指の跡のような光沢が残っていた。
光にかざすと、ガラスの奥で白いものがちらついた。
まるで、焼けた光がまだそこに残っているようだった。
私は帳簿を開き、日付を書く。
――八月三十日 写真立て。
真鍮の枠が、陽を受けてわずかに温かい。
そのぬくもりが、皮膚の奥に静かに沈んでいく。
何も語らないのに、どこか人の息を思わせた。
夜。風は止み、窓を閉めても熱が残っている。
机の上に写真立てを置き、ろうそくの火を灯した。
炎がガラスを透かして、中に入り込む。
その瞬間、かすかな声が聞こえた。
《……笑って、って言われたの》
若い女性の声だった。
柔らかく、けれどどこか眩しい響き。
私は筆を取り、帳簿の余白に書き加える。
――声、あり。女性。若し。光の調子を帯びる。
《あのときはね、まだ戦争が始まる前だったの。
庭に布を張って、その前で写真を撮った。
夫と、五つになった子と、三人で並んで。
友人が新しいカメラを買ったから、記念にって》
炎がわずかに揺れた。
ガラスの中で白い光が跳ね、影が薄く伸びる。
《あの瞬間のことは、今でも覚えているわ。
カメラの光が弾けた瞬間、風が止まったの。
世界の音が全部、息をひそめたみたいに。
笑って、って声がして――そして、光》
写真立ての中で、淡い笑顔が一瞬だけ浮かび上がる。
私は息を止めた。
光に焼き付けられた幸福は、あまりに脆く、まるで触れただけで崩れてしまいそうだった。
《それが最後の光だったの。
それから戦争が始まって、空が赤くなって、街が燃えた。
写真も、家も、庭も、みんな……》
声が途切れた。
真鍮の枠が、きぃ、と小さく軋んだ。
炎が一度大きくなり、また沈む。
《それでもね、焼け残ったこの光があるの。
笑って、って言われたその瞬間のまま。
この中では、私たちはずっと笑っている。
だから、時々思うの。
焼き付くって、もしかしたら、生きている証になるんじゃないかって》
私は筆を止め、ガラスの奥を見つめた。
そこに映るのは笑顔ではなく、『笑おうとした』瞬間だった。
《ねえ、あなたは見たことある?
光が痛いほど美しい瞬間を。
焼き付く前の、ほんの一瞬の、あの眩しさを》
私は答えられなかった。
ただ、炎の熱が頬に触れているのを感じる。
そして気づく。
光とは、焼けるほど見つめてしまうもののことなのだと。
そのまま、ろうそくの火が細くなっていく。
影が深まり、ガラスの光だけが残る。
その光の奥で、もう一度、彼女の声がした。
《ありがとう。
見てくれる人がいるなら、光はまだ消えない》
それきり、音は止んだ。
私は背筋を伸ばし、静かに書く。
――今夜の声、眩し。光、痛みを残さず消ゆ。
書き終えたとき、炎がぱち、と鳴って消えた。
残ったのは、真鍮の輪郭が放つほのかな余熱。
それが、夜の空気の中でゆっくり冷えていった。
◇◇◇
夢を見た。
白い光の中で、私は庭に立っていた。
目の前には布を張った壁。
風はなく、空は無音のまま。
陽射しが広がり、あたり一面が白い。
誰かが言う――『笑って』。
そして、光。
世界が焼けるほどの眩しさで満ちる。
視界の中で、家族が笑っている。
その笑顔が光に呑まれ、形を失う直前、私は確かに見た。
その微笑みが、誰かを呼ぶように、揺れていたことを。
◇◇◇
朝。夢の残りが、まだ目の奥に薄く残っている。
窓から射す光は、昨夜よりも柔らかかった。
真鍮の写真立ては、表面にうっすらと白い曇りを帯びている。
触れると冷たく、けれどどこか安心する温度だった。
私は帳簿を開き、余白に一行書く。
――静けさとは、焼き残された光のあとに生まれる。
筆を置くと、光が机の上を滑っていった。
それはもう、焼き付けるような眩しさではなかった。
ただ、静かに照らしている。
その光の中で、写真立てがわずかに揺れた。
笑い声のような、きらめく音を立てて。




