序章6の7 怪物
飛び交う野次と怒号。
交わされるのは、話し合いでは無く、殴り合い。
渦巻くは狂気と我執。
「コレは酷い。何という醜い有り様だ。」
目の前で繰り広げられる乱闘騒ぎを、天音は只静かに冷めた目で眺めていた。
「これが、この国の最高府である帝国議会の姿かよ。」
ああ、実に下らない。
こいつらは一体何をしているのか。
場所も自分の立場も忘れ、どいつもこいつも互いの足を引くことに執心し、口汚く罵り合ってやがる。
揃いも揃って阿呆ばかりよ。
会場の熱気が増していくにつれて、それと反比例するように、血も頭も感情も、急速に下がっていくのが分かる。
「そうだ、君の見た通りだ。これが今のこの国の縮図だよ。」
天音の隣に座る男が、天音に語り掛ける。
「実に滑稽な光景だ。
馬鹿共が周囲を顧みず、恥も外聞も無く己の醜態を曝す。これを傑作と言わずして何という。」
彼もまた、眼前の愚かしい騒ぎを静かに眺めていた。
だが彼と天音は決定的に違っていた。
何故ならソレが映る天音の目には、憐憫が浮かんでいた。
「そうかい。随分とイイ性格してるみたいだな。
アレをして、そんな感想が出て来るなら、天使の喇叭もアンタは、さぞ喝采して迎えるんだろうさ。」
「ああ、俺の行き先はもう決まってるからな。」
そしてその男の目には、狂喜が浮かんでいたからだ。
天音は静かに立ち上がり、一人議場を出た。
背後の扉からは今も猶、乱痴気騒ぎと不愉快な喧騒が外に漏れ出している。
最早振り返ることすら無く、帝國議会を後にした。
ことは数時間前まで遡る。
※
昭和6年2月3日。
この日、帝国議会では衆議院の予算委員会が開かれていた。
今日行われる予算委員会にも、天音は足を運んでいた。
と言うのは、この日を入れて予算委員会は7日目に突入しており、彼は初日の委員会から足を運んでおり、それを傍聴席から眺めていたのだ。
そして、定時となり委員会の幕が開く。
前日までと同じように、与党の立憲民政党が、野党の立憲政友会から来る質疑に対して、答弁を行っていた。
とは言え、予算委員会も7日目を迎えるということで、与野党の攻防も若手の議員による細やかな案件、所謂陣笠級の案件となっていた。
それ故、傍聴している議員も少なく、加えて第一委員室の心地良い暖かさも相俟って睡魔に誘われる者も少なくなかった。
無論それは、天音も例外では無い。
だがしかし、只一人、そうではない者がいた。
天音の隣の席に座る和服姿の男。
彼は、向こうで展開される質疑応答を食い入るように、一言一句聞き逃さぬように終始、注視していた。
そして雲行きが変わったのが、開始から数時間が経過し、委員会も中盤に差し掛かろうとしていた時だった。
※
「第五十八議会において、濱口首相及び幣原外相は、倫敦条約は我が国の国防を危険に晒すものでは無いと、明言しました。
しかし先日の安保海軍大臣は、本委員会において倫敦条約をもってしては作戦の遂行上、兵力不足である、と答弁しました。
この二つの言葉の間には矛盾があるが、幣原首相代理はこれをどうお考えになっておりますか。」
1人の野党議員がそう質問を投げ掛けた。
これは、昨年に日米英間の海軍軍縮にかかる会談に関する問いだった。
この条約を巡って、昭和5年の日本国内は荒れに荒れた。
3国間の激論の末に妥協が成立し、条約の調印を成し遂げることは出来た。しかし、
『アメリカとの戦争・建艦競争は、経済面、財政面からも不可能。』
と考え、この条約に賛成する”条約派”。
『条約の兵力量を以って日本の国防を為すことは、およそ不可能。』
と考え、この条約に反対する”艦隊派”。
海軍内部は、この二大派閥に真っ二つに割れてしまった。
また調印した条約の内容に関しても、野党政友会は激しい批判を加えた。
更には政友会は、民政党を引き摺り落とし、政権の奪取を計らんが為に禁断の魔剣に手を伸ばした。
『国防ノ大方針ヲ決定スルニ当タリ、用兵作戦ヲ司ル統帥部ヲ全ク無視シ、議会ガ独断デ其レヲ議決スルハ、此レ即チ、大日本帝国憲法第十一条ニ定メシ統帥権ヲ犯ス、重大ナル憲法違反タルコトハ明ラカナリ。』
所謂、”統帥権干犯”を、政争の具に利用したのである。
この魔語は、燎原の火の如く恐ろしい速度で広まり、政府を苦しめる凶悪な魔剣と化した。
それでも政府民政党は、帝国議会で条約を可決し、枢密院の審議を通過させ、何とか天皇による条約の批准にまで持ち込んだ。
それが昨年の、昭和5年10月2日のことだった。
それ以降、条約絡みの質疑というのは鳴りを潜めるようになり、この頃になると既に過去のものとして新鮮味も失われ、それに最早、論じる意味自体も殆ど薄れてしまっていた。
しかしその問題を、この政友会の議員、中島知久平は、再び蒸し返したのだ。
この質疑に応じたのが、首相代理である幣原喜重郎だった。
この時、首相である濱口雄幸は、昨年の11月に受けた銃撃による怪我が、まだ復調せず、議会に出席できずにいた。
その為、首相代理として幣原が予算委員会での質疑応答の矢面に立っていたのだった。
「この前の議会で、濱口首相も私も、この倫敦条約によって日本の国防が危険に晒されるものではない、という意味の答弁は致しました。
現にこの条約は批准になっています。批准になっているということで、この倫敦条約が国防を危険に晒すものでない、ということは明白であります。」
何の変哲もない、答弁であるように思われた。
現に、その答弁に対して何かしらの反応を示す野党議員は皆無だった。
だが、
「幣原! 取消せ! 取消せ!」
と、その答弁が終わるか終わらぬかの刹那、突如激しい怒号が第一委員室全体に反響した。
その声の出所は、与党側の席からでは無く、野党側の席からでも無く、傍聴席からだった。
そう叫んだのは、天音の隣に座っていたあの和服姿の男だった。
彼こそが、立憲政友会の幹事長、森恪だった。
※
「幣原! 貴様の今の答弁は、単なる失言では済まされるものでは無いぞッ!」
森は手を挙げ、指を指して怒鳴りつけていた。
それは、民政党にとって勿論、政友会にとっても完全に寝耳に水であった。
数秒の間、誰もが茫然と森の怒声を聞いていた。
だが一人の議員が、ハッと何かに気付くや否や、
「取消せ! 取消せ!」
と森の声に同調した。
その姿を見て政友会の議員達は、次第に森の雷撃の如き糾弾の意味を理解し始めた。
「恐れ多くも、天皇陛下に責任を転嫁するとは、貴様、一体どういう了見だッ!!」
「失言の域を遙かに超えている。これは天皇陛下に対する不敬罪だ!!」
「責任を取れ! 総辞職しろッ!!」
森が、政友会が喰らい付いたのは、幣原の答弁の中にあった、たった1単語。
”批准”。
この言葉だった。
条約が効力を持つためには、様々な過程を必要とするが、大まかに言えば四段階の手順となる。
4つの関門を全て突破して初めて、国家は条約に拘束される。つまり、効力が発動するのだ。
一つ目が、全権大使による調印。
二つ目が、帝国議会による承認。
三つ目が、枢密院による審議。
そして最後が、天皇陛下による批准である。
そう・・・、”天皇陛下”が批准を行うのだ。
そして幣原は、答弁の中で、
『批准となっていることで、国防を危険に晒すものではない。』
と、発言してしまった。
つまりこれを言い換えると、
『天皇が自らこの条約に従う事を認めたのだから、この国が危険に陥る問題は無いのだ。』
という意味に解釈出来てしまう。
そして少なくとも森は・・・、政友会は、そう解釈した。
野党議員の罵詈雑言は、忽ちに幣原へと滝の如くに降り注ぎ、予算委員会は完全に混沌の坩堝と化した。
そして止めとばかりに、森は更に追い討ちを掛ける。
「国際協調などと言う美辞麗句を弄し、さも高尚な事由があるかのように見せかけて、これまで対支消極外交を行ってきた。
大陸に住まう在外邦人の救いを求める声を無視し続け、見殺しにし、延いては大陸における日本の国威国権を貶め、辱めた。」
詠い上げるように、森は言葉を紡ぐ。
その言葉が紡がれると共に、場内は再び静寂を取り戻していく。
誰もがその言葉に耳を傾けていた。
「更には、かの忌まわしき倫敦条約だ。
国際平和という耳障りの良い言葉を隠れ蓑に、国防を著しく弱体化せしめ、日本国の国益を危険に陥らせしめていることは、誰の目から見ても明らかだ。」
彼の演説は止まらない。
いや、止められなかった。
民政党の者も、委員会の議長でさえも、彼の言葉を抑えることは叶わない。
まるで目に見えない何らかの強制力が働いているかのように、皆は自然と自ずから黙して聞き入っていた。
「そしてあろうことか、己が招いた窮余の責任を陛下に帰し奉り、自らは袞竜の袖に隠れ、責任を回避するという厚顔無恥で身勝手な立ち振る舞い。
かような者を指して、売国奴と言わずして、一体、何人が売国奴か。
あのような国家を凌辱せしめんとする奴輩が、議会に巣食ったままでは、永劫この国に未来は無い。」
政友会の議員達は、心に沸き上がって来るモノを感じていた。
「だが諸君、此度は絶好の好機でもある。
老獪で言葉巧みに人心を惑わせ、操るあの幣原が、若く勇敢な青年の中島代議士の功績で、遂にその馬脚を露したのだ。
諸君、青年の勇気と知恵を決して無駄にはするな。
白日の下へと引き摺り出された奴儕共々、この神聖なる帝国議会から放逐せよ。」
森の言葉に、皆の精神は心地良く昂っていく。
敵は目の前にあり。
理は我々にあり。
正義は我々にあり、と。
「大日本帝国を守る為に立ち上がるのだ。
我々の、国民の未来を守る為に立ち上がるのだッ!!」
その号令を合図に、政友会の議員達は堰を切ったように立ち上がり、幣原首相代行の下へと詰め寄って行った。当然それを阻止すべく民政党も立ち上がると、両陣営は遂に衝突した。
第一委員室内では、乱闘が勃発し、修羅場の様相を呈した。
もはや予算委員会は、話し合いどころではなくなってしまった。
暴言と暴力が、会議場の至る所を飛び交っていた。
そして当の森自身は、自らが嗾けた騒ぎに加わることなく、笑みを浮かべたままソレを遠巻きから眺めているだけだった。
しかし、その異常に誰も気付かない。
誰も彼もが殴り合い、或いは収拾に耽溺し、ソレが目に映らなかったのだ。
※
そして現在へと至る。
帝国議会を後にした天音は、陸軍省の前を抜け、宮城の内堀に沿って三宅坂、半蔵門と通過し、青葉通りを北へ向かって歩く。
そして、警察講習所前の丁字路を曲がり、鍋割坂へ入って行った。
鍋割坂の奥、千鳥ヶ淵との合流地点。
そこが天音の暮らす家だった。
とは言え、そこは天音自身の住居と言う訳ではなく、あくまで彼は居候の身であった。
「ただいま戻りました。」
そう言って天音は、内堀の岸辺に佇む屋敷へと入って行った。
そこは侍従長邸。
天皇に付き従い、その身辺の世話をする宮内省侍従職の長を務める者が住まう邸宅。
そして時の侍従長は、鈴木貫太郎だった。




