【26】
「はい、どうぞ」
イノリが差し出したグラスを受け取れば、ひんやりとした冷たさが手に心地よい。透明なグラスには桃色のグラデーションを描いた液体が並々と入っていた。日差しを反射してキラキラと綺麗だ。
「白桃のジュースだよ。旬の果物なんだ」
「ありがとう」
中央広場は噴水を中心に円を描いており、その円形に沿って屋台が所狭しと並んでいた。イノリの買ってくれたジュースを始めとしたドリンク類、焼串やトルティーヤのような軽食、菓子類など見ているだけでワクワクする。お祭りの屋台のようだ。
さやかとイノリがいるのは噴水を囲む様に設置されたイートインスペースで、屋根付きなのが親切だ。2人で向かい合わせに腰を下ろし、バスケットの中身を広げた。
「11時なのでお昼にはちょっと早いけど、どうぞ 」
「美味しそう」
イノリは手を合わせて一礼し、クロワッサンを手にした。一口ちぎって口に含めば、サクリと音が響いた。
「こんなに軽い食感のパンは初めて食べる。いくらでもいけちゃいそうだよ」
イノリの最大の賛辞に、さやかははにかんだ。
「良かった。早起きした甲斐がありました」
「これさやかが全部作ったの? 凄いね、私は料理が全く作れないから尊敬するよ」
それは意外な事実だ。イノリの様な美人は何でも器用にこなすイメージがある。これも立派な偏見なのだろうが。人間誰しも不得手なものはあるし。
(レイも早起きが苦手だしね)
クスリと笑い、白桃のジュースを飲む。爽やかな甘さと果肉のジューシーさがたまらない。白桃の生搾りなんて贅沢な代物だ。
グラスを離れたさやかの手がパンを取ろうとすると、目的にたどり着く前にそっと包み込まれた。
「ねぇさやか、もしよければ私と一緒に暮らさない? 」
「――え? 」
「それがレイの為にもいいと思うんだ」
一瞬何を言われたのか分からなくて、『レイの為にもいい』という言葉に、その真意も分からなくなった。
動揺で視線を彷徨わすさやかを、イノリの真摯な瞳が射抜いた。
「…一ヶ月前、とある人質事件が起きた。人質となったのは――レイ・ボウの父親だった」
ヒガシニオン王国は不可侵を貫き、侵攻を企むものだけを排除してきた。故に国境を鉄壁の守りで死守する。そんな鉄壁の守りを可能にしていたのは、僅か二人の魔導師であった。
魔導師の数は一国に一人。その理から外れて産まれたのが『レイ・ボウ』という男だった。他の魔導師と違い地・火・水全ての属性を使いこなす。未契約のまま他の魔導師を圧倒する存在は、隣国ニシフォン帝国にとって脅威以外の何者でもなかった。
三年前の国境戦争でその力を見せつけられたニシフォン帝国は、レイに数多の刺客を送るがことごとく返り討ちにされた。正攻法では勝てないと踏み――その結果、レイの父親が人質として攫われた。
「ニシフォンに赴いたレイは、父親の命と引き換えに死んだ。ヒガシニオンに帰還する際、追っ手を撒くため谷底に身を投げた。レイ・ボウという存在がなくなれば、家族が人質に取られることがなくなるからね。私みたいに天涯孤独の身と違って、レイには両親と兄弟が二人…誰よりも大切にしてきた家族が居る」
一緒にトウキへ行って欲しいとねだった時――レイは確かに笑っていたのだ。
「レイはこの世を去り、二度と家族と会えなくなってしまった」
レイは、あの時…何を思っていたのか。
「さやかは元の世界に帰るのだろう? 」
ならば、一刻も早く離れて欲しいと、言外に含まれていた。
「大切な物は、失えばその身を抉る。私は、レイにその痛みを受けて欲しくない。そんな痛みを受けるのは、私一人でいい。今ならまだ間に合う。…弱者は、弱みになる。」
そう、さやかは自分の身を守る術など持たない。
足手まといになるだけの、弱者だ。
何の力も持っていない。
だがイノリは違う。
イノリは己を守り、レイを助け、レイの力となる。
レイの信頼を得て、過去も事情も知っている。
…特別な存在だ。
イノリただ一人だけが、レイの隣に立っていいのだ。
二人が並ぶ姿を想像すれば、まるで完成された絵画のよう。
邪魔なものは何一つ入る余地などない。
いつか必ず覚める、淡い夢すら見ることは許されない。
何て浅はかだったのだろう。
言葉数の少ないレイのその一言一言に、溢れるほどの慈愛が含まれていたというのに。
さやかの憂いを懸念して、自分がもう『この世にはいない』存在だと告げずにいてくれたのだ。
さやかが不安にならない様に、自分が追われた身である事も伝えないでくれたのかもしれない。
未だ、レイ自身は追われる恐怖に囚われているというのに。
さやかは、レイの名前を呼ぶだけで守られていた。
ようやく理解できた。
レイと初めて会った時にあれだけ敵意を向けられた事も。
トルコと二人、ひっそりと暮らしていた事も。
街に行けないと微笑んだレイの真意も。
ようやく分かったから…これ以上一緒に居られない事も。
ほんの…ほんの僅かでもいい。レイを、レイの心を守りたかった。
何一つ返せないさやかに精一杯できることは、自分という憂いを取り除く事だけだった。
誰よりも優しいレイが、もう、少しも傷つかぬように。
さやかは口唇を噛み締めて、ありったけの力を込めて零れそうな想いを押し留めた。
「今日、帰ったら荷物をまとめます」
ここで泣くのだけは、自分自身が許せそうにないから。




