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【27】

何処からか飛んできた蝶が、テーブルにひらりと舞い降りた。イノリはさやかの手を離し、蝶に指先を伸ばす。


「イノリ様。王から招集が」


鈴のように軽やかな女性の声が響いた。さやかが辺りを見渡しても、それらしい人物を見つけられない。残る選択肢として蝶を見やれば、イノリの視線も同じように注がれていた。その選択肢が増える位には、さやかはこの世界に馴染み始めている。

渋面を浮かべたイノリが、こめかみに手を添えていた。


「分かった。何か面倒事でも起きたかな…カシミール、悪いが先に戻ってもう少し代わりを頼むよ。私もすぐ後を追う」

「御意に」


イノリが蝶を両手で覆えば、僅かな光りを残してその姿は跡形も無くかき消えた。


「さやか、どうやら予定より早くお別れの時がきてしまったようだ。送れなくて申し訳ないのだけど」

「いいえ、転移の指輪を使うので大丈夫です。楽しい時間をありがとうございました。これ良かったら手が空いた時に食べてください」

「ありがとう。まだまだ食べ足りなかったんだ」


イノリはパンの入った袋を受け取り、別れの挨拶をさやかの右手に落とす。


「荷物をまとめたら私の名前を呼んで、指輪をつけておくから。朝7時までは家にいるよ。その時にカシミール…私の契約竜も紹介しよう」

「はい」


イノリもやはりレイに指輪をもらっているのだと思うと、ツキリと胸が痛む。


…颯爽と去るイノリの姿を、さやかは焦点の合わない目で見送っていた。


   ※


「お嬢ちゃん、そのパンは売り物かい? 」

「…はい? 」


イノリと別れ、すぐ帰った方がいいと分かってはいたがどうも腰が重くて。噴水の縁に座りながら小鳥にフランスパンをちぎってあげてはただぼんやりとしていた。


そんなさやかは、突然かけられた声で現実に引き戻された。


「とても美味しそうな焼き色に思わず惹かれてしまってね。ほら、この通り腹がペッタンコなものでさ」


さやかに話し掛けてきたのは、柔和な笑顔を浮かべた老人だった。目の前にあるお腹は立派なもので、サスペンダーが食い込んでいる。


「今にも腹と背中がくっつきそうだろう? 」


老人のお腹から再び視線を上げると、何ともお茶目なウィンクをよこした。


「ふふ、そうですね。どうぞ召し上がってください」

「一ついくらだね? 上等なものだから二シリンダ位かね」

「そんな、お代は結構ですよ」


トウキに向かう前、レイから簡単な貨幣価値を教えてもらっていた。一シリンダは日本円で百円程度だと認識している。ここの屋台で売っているトルティーヤが一シリンダなのに、二シリンダは貰いすぎだろう。

さやかが慌てて両手を降れば、老人は大仰に片眉を上げてみせた。


「おやおや。良い物をタダで貰ったとなれば、儂は明日から商人を名乗れなくなってしまうよ。では、食べてみてから値段交渉してもいいかね」

「…それでしたら。お好きなものをお取りください」


本来売る予定はなく、パン屋への売り込み用に作ったものだ。実績がないのだから、お客さんに値段を決めてもらうのが一番いい。

老人は照り焼きチキンとサラダ菜を挟んだベーグルと、チェリーパイを選んだ。まずはベーグルを手に取り、様々な角度で眺めた後口に運ぶと、老人の目は大きく見開かれた。


「これは上手い! 甘辛い鶏肉と歯ざわりのいい葉野菜は相性抜群だ。この黄色いソースはなんだね? 」

「マヨネーズ、というソースです」

「ほうほう、コクがあって美味しいね。こんなにもっちりしているパンも初めて食べた。これはたまらない」


ペロリと平らげた老人は、すぐさまチェリーパイを頬張った。


「これもまた…! サクッとした食感に、さくらんぼの酸味とクリームの甘味が絶妙だね。頬が落ちてしまいそうだ」

「ありがとうございます。お口に合って良かったです」


チェリーパイもあっという間に完食するのを見て、さやかの口元に笑みが浮かぶ。日本で働いていた時はお客様が食べている姿を目にする事はなかったので、とても新鮮な気持ちだった。


老人はお腹にちょこんと乗っている鞄から財布を取り出す。


「ご馳走様。とてもいい食事が出来たよ」


そうにっこりと笑い手渡されたのは、五シリンダ貨幣。

さやかは慌ててポケットを探る。


「すみません、今お釣りを… 」

「いやいや、先ほどの言い値通りパンは一つ二シリンダ。それとお嬢さんの笑顔に一シリンダで丁度だ」

「え…? 」


きょとんと見つめるさやかの頭に、老人の節くれだった手の平がのせられる。


「可愛らしいお嬢さんは笑顔が一番似合うもんだ。笑えば不幸なんて空にとけてしまうからね。…本当は一シリンダよりもっと価値があるんだが、あまり出し過ぎるとお嬢さんをかどわかしてると勘違いされかねん」

「ふふっ 」

「そうそう、その意気だ。笑顔のお嬢さんには鳥も恋をする。儂も後十歳若かったらのぅ」


さやかの膝に乗った赤い鳥に老人は羨望の眼差しを向ける。それがあまりにも羨ましそうなので、たまらず声を上げて笑った。

そんなさやかを老人は眩そうに眺めれば、まだパンの残っているバスケットに目をとめた。


「…時に、このパンは全て売り物なのかね? 」

「もし売れるのならば、十個ほど残して売りきりたいのですが」


今までレイがいくら使ったか分からないが、少しでもいいから自分の稼いだお金を渡して出て行きたい。その為売れるのはこのパン位だ。


「よしきた。一つ私に任せなさい」


言うやいなや老人はくるりと踵を返し、その大きなお腹を逸らしたかと思えば。


「さあ寄っておいで見ておいで! パン好きにはたまらない逸品はいかがかな。商人テホの名において保証するこちらのパン、老いぼれでも出会った事のない心躍る食感、極上の味。限定品ゆえ数に限りあり。売り切れる前にさぁ買った買った」


腹の底から絞り出しされた掛け声に、一人、また一人と足を止めるものが出てきた。

その内の近場に居た青年が駆け寄ると、一拍遅れて人の波がどっと押し寄せた。

目を丸くするさやかをよそに、テホと名乗った老人はパンパンと手を打ち鳴らした。


「はいはい、一列に並んでおくれ。パンは一つ五シリンダ。可愛い売り子には手を触れない様頼むよ」













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