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長方形の、十畳ほどの部屋。
ドアを開けてすぐ左に、三つの大きな木箱が重ねられていて。右側には三人がけの柔らかそうなソファと、一人がけのそれが小さなテーブルを挟んでいる。奥の壁に窓、そしてその下に上質そうな木材の机。
「昨日着いたばかりで・・・まだ全然、荷物開けてないの」
アルジェが申し訳なさそうにそう言ってから、ソファに座る事を勧めて、重ねられた箱の一番上から、ティーセットとお茶の缶を出して見せた。五分もしない内にどこかからお湯をもらってきて、いい香りが漂うカップを差し出される。
「あ・・・おいしー」
口に入った風味の良さに、思わずつぶやくと、アルジェがほっとした顔を見せて微笑む。
それは自分を安心させて、柔らかな気分にさせるだけ。隣に座る蒼羽が同じ様に微笑んでくれて、それでようやく緊張がとけた。
「あの・・・さっきは、ごめんなさい。緋天さんを傷付けるような言い方をしてしまって・・・もちろん蒼羽も」
「いえ。全然気にしてないですから。気にしないで下さい。って、何か変かなぁ」
自然とそんな言葉が出てきた。今はもう、本当にアルジェに対してのマイナス感情は全くなかった。むしろ、プラスの感情が生まれている。
「・・・優しいのね、緋天さんは。本当にごめんなさい。ここに来る前に嫌な事を思い出してしまって・・・何だかいらいらしてたみたい。八つ当たりだったわ。最低ね」
自虐的に笑うアルジェに一瞬目を奪われる。言い訳でもない、彼女の本心がこぼれ落ちたように見えて。どう返せばいいか分からなかった。
「俺も緋天も気にしてないから。お前は自分の事を考えろ」
蒼羽が苦い顔でそう言った。
そんな風にする彼が珍しくて、アルジェが悪い人間でないのだと妙な確信すら持てる。
「そうね・・・そう。明日から、ちゃんと働くわ。自分で無くした信用は仕事を見てもらって取り戻してみせるから。心配しないで。これでも、自分の能力には自信があるの」
明るい笑顔が浮かぶ。途端に変わった明朗な口調と。それはとても美しく見えて、同時に羨ましくも思ったけれど。先程よりも彼女をどこか遠くに感じた。蒼羽もそう感じたのだろうか。戸惑ったように口を開いた。
「そうじゃなくて、」
「大丈夫よ。あ、もちろん蒼羽も根回しの必要はないわ。あなたが一言、ここの人達に口を利けば楽になるでしょうけれど。それだと私の仕事は見てもらえないから」
蒼羽の言葉を遮って、アルジェがこちらを見てさらに続きを言う。
「緋天さん、今までのあなたに関しての資料を読んでから、これからの予定を決めようと思うの。だから、直接あなたから話を聞くのは二、三日後になると思います。それまでは今まで通りに過ごして。準備が整ったら連絡するわね」
「はい。分かりました」
そう、答えるしかなかった。
蒼羽が気遣わしげに、アルジェを見て、何かを諦めたように立ち上がる。
「緋天、帰ろう。・・・邪魔したな」
「ううん。二人とも弁解の余地を与えてくれて、ありがとう。このお礼は、緋天さんについての謎を解いて返すわ。期待してて」
「・・・ああ」
「あ、お茶。ごちそうさまでしたっ」
まるで急かすように。立ち上がった自分の手をつかんで、蒼羽が部屋を出る。
慌てて頭を下げて、蒼羽の後を追った。
「蒼羽さんっ。どうしたの?」
センターの建物から、外に出て。蒼羽がやっと足を止めた。厳しい顔で、たった今出てきたばかりの入り口を見つめている。
「あいつ・・・」
「・・・あいつ、ってアルジェさんの事? 何かあったの?」
普通でない蒼羽の横顔に、何かとんでもない事が起きているのでは、と思う。
「・・・早く何とかしてやらないと手遅れになる」
つぶやいてから、はっとした顔で蒼羽が自分に目を向けた。
「手遅れって?」
「・・・」
「蒼羽さん」
「・・・アルジェは本部だと、誰にも構ってなかった。俺と似たようなものだ」
こちらを見下ろす彼の目が、ふ、と優しくなる。
似たようなもの、と表現されたそれは、きっと、今までの蒼羽のことだ。
「でも・・・さっきは普通に優しかったよ?」
「前はそうじゃなかったんだ。勝手な推測だけど、なにか、・・・無理してそうしてるようにも見えた」
蒼羽の左手が頬を包む。
今では何の疑問も持たないけれど、そういった行為は、以前の蒼羽にはなかった。けれど、彼にとってはそれが普通だったはず。
「・・・そこが蒼羽さんとは違ってたってこと?」
「ああ。でも、今のアルジェには、大事だと思う物もないんだ。それなのに、緋天を見てあんな事を言ったり、その後は普通に笑ってただろう? 軸がないというか、ぶれているような気がするんだ」
きっぱりとそう言いきって、蒼羽がもう一度振り返った。自分には見えないものを蒼羽は確かに感じ取って、それを危惧している。それだけ分かって。けれど、どうすればいいかが分からなかった。
「今言った事はしばらく黙っておいてくれるか? 俺もどうすればいいか、分からないんだ」
「うん・・・」
自分の考えていた事を読み取ったように、蒼羽が言って。それから困ったように微笑んで。
「すぐにどうこうなる、って訳でもないと思うから。俺にとっての緋天みたいに、あいつにも誰か大事に思う奴ができればいいんだ。できるだけ、早く。しばらくは様子を見ようと思う。環境が変われば、気分転換にもなるかもしれないし」
「分かった・・・あたしもそういう心理学的な事は、良く分からないから。蒼羽さんにおまかせする」
ようやく、頭の中で整理された情報から、自分ができる事はないと判断して答えた。
「ん」
蒼羽がつないでいた手を引っ張って、腕の中に収まる。
自分が今、蒼羽を大切に思うように。アルジェにはそんな風に思う相手はいないのだろうか。
なんだか切なくて、抱きしめられたまま蒼羽の体に体重を預けた。




