Link 20 side:Haruka
放課後に会ったマナミ先輩は、いつもよりもどこか明るかった。それが偽りの明るさなのか、心からのものなのか…釈然としない。けれど、どこかすっきりとした表情でいることに違いはなかった。
「ごめんね、ハルカちゃん。呼び出したりして」
昇降口のところで会ってすぐに謝られて、私は慌てて首を振る。
「こちらこそっ、あの、昨日はご心配おかけして…すみませんでした」
ペコリと頭を下げると、マナミ先輩は首を振ってニッコリ笑い返してくれた。…その笑顔に、やっぱりこの人は美人だなぁ…なんて場にそぐわない感想を抱いてしまう。
「ちょっと遠いところまで付き合わせちゃうけどいいかな」
確認されて、私は「はい」とはっきりと答える。隣の一真は何も答えない辺り…どこに行くのか知っているんだろうか?無言のまま、マナミ先輩についていくつもりらしく革靴に履き替えている。
マナミ先輩につれられるままに行く先は、電車を乗り継ぐところだった。窓の外に映るのは、見覚えがある風景。それは駅を下りても同じだった。学校から1時間以上かかるその駅…それは、以前に一度訪れたことがあった。
今年の3月3日…タクミ先輩の誕生日に、先輩の家にお邪魔した時に来た場所だった。
「ハルカちゃんに、私とタクミの話を全部聞いて欲しいの」
それまで黙っていたマナミが、駅に着いた頃にようやく口を開いた。その言葉に一瞬驚いてしまって、私は目を瞠る。隣の一真はそれを知っていたのか、無表情のまま私たちの半歩後ろをついてきていた。
「でも……」
私はもうタクミ先輩のことは好きじゃないんです、とか。言いかけたことはいくつかあったはずなのに…。それらは全て、マナミ先輩の真剣な表情に飲み込まれて消えた。
「…ごめんね」
それが分かったからか、先輩は少し悲しい微笑みを浮かべる。それを目にすると、断る言葉なんて口から出てくるわけがなかった。
この地域には一度来ただけだったけれど、タクミ先輩の家だったから道のりははっきり覚えている。前にタクミ先輩に案内されるまま着いていったのと同じ道を、マナミ先輩の後に続いた。記憶と同じ場所に、「拓巳」と書かれた表札の一軒家を見つける。マナミ先輩はそれすら通り過ぎて、更に5件ほど奥へ行ったところでようやく足を止めた。
「……」
私のこれまでの人生で、驚きの余り顎が外れそうになったのはこれが初めてだ。チラリと一真を振り返ったけれど、もちろん一真は知っていたんだろう。何食わぬ表情だった。
「ここ、私の家」
マナミ先輩が立ち止まって指し示したのは、絵に描いたようなものすごい豪邸だった。
背の高い門が、厳かに開く。長い庭を抜けた先に、そのお屋敷はあった。昔漫画やドラマで見たような…大きな家。子どもの頃憧れたような、キレイな洋館だった。
「愛海お嬢様、お帰りなさいませ」
玄関のドアを開けると品の良いおばさんが出てきて、そうマナミ先輩に声をかける。
「『お嬢様』!」
まさに漫画の中のイメージ通りの呼び方だったため、私は感心して同意を求めるように一真を見上げてしまった。それに苦笑いを返しただけで、一真は応えない。…そうだ、一真だって中学の頃はこの近くに住んでいたんだから…もちろん知っていたんだろう。
「ただいま」
マナミ先輩が、その家政婦さんらしき人に短く答える。そのままスリッパに履き替えて、先輩は玄関を上がってすぐの階段に足を伸ばした。家政婦さんは私と一真を見て、「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてくれる。
「お邪魔します」と頭を下げると、家政婦さんは階段を上り始めたマナミ先輩に声をかけた。
「今日は准一坊ちゃんはご一緒じゃないんですね」
『坊ちゃん』!衝撃に目がくらみそうになったけれど、きっとこんな豪邸では普通なことなんだろう。庶民の私が内心で感心していると、マナミ先輩がいつもより低い声で家政婦さんに言葉を返す。
「もし連絡があっても、いないって言っといて」
「……かしこまりました」
一礼をして、その家政婦さんはそのまま下がっていった。
階段の上に付けられたシャンデリアも…。手すりについた装飾品も、私の家では考えられないほどの豪華なもので。その一つ一つに感動していると、階段を上がった先の奥の部屋に通された。
恐らく、そこがマナミ先輩の部屋なんだろう。どんな部屋なんだろうと胸を高鳴らせて入ったけれど、中は意外と普通の女子高生の部屋だった。『お嬢さま』の部屋というと、フリルやレースのちりばめられた部屋を想像したけれど…。そこはやはり、『マナミ先輩』に他ならないらしい。
広さはあるけれど、シンプルに片付けられた部屋。
それが逆に先輩らしく、私は何だかそれが少し嬉しかった。豪邸に住むお嬢様、じゃ、何だか私の知らない先輩みたいだから。やっぱりマナミ先輩らしさを見ると、少し安心してしまう。
勧められるまま低いテーブルの周りに腰を下ろした頃、部屋をノックする音がした。「どうぞ」とマナミ先輩が声を返すと、遠慮がちにドアが開けられる。
「こんにちは」と挨拶しながらそこから顔を出したのは、さっきの家政婦さんではなかった。肩くらいまでの髪を緩くパーマで巻いた、上品な女性だった。年は40歳くらいだろうか…。
一真と揃って頭を下げると、その女性が私たちの前に紅茶を出しながらニッコリ笑う。「愛海ちゃんがいつもお世話になってます」と言う仕草も気品漂うものだった。
…もしかしなくても…先輩のお母さんだろうか。若々しくてものすごく美人で、豪邸の「奥様」というのがピッタリな感じだったから…。
「こちらこそ」と慌てて挨拶を返すと、お母さんはそのままマナミ先輩を振り返る。だけどその表情はどこか遠慮がちで…マナミ先輩の顔色を探るかのような目をしていたのが気になった。
「愛海ちゃん、今日はお父さんが久しぶりに帰っていらっしゃるから…夕飯は家族揃って食べましょうね」
そう声をかけたお母さんの言葉に、先輩が勢いよく振り返る。その時の表情が普段の先輩らしくなくて…私は思わず目を見開いた。それから、驚くほど大きな音をたてて机を叩く。
「お客さんが来てる時に、そんな話しないで!どこまで無神経なの!?」
「…ご、ごめんなさい…」
怒鳴るマナミ先輩の声に、驚いたのはお母さんだけでなく私もだ。一真だけは、相変わらず黙ってそれを見ていた。
「お2人も、ごめんなさいね…」
「いえ、気にしてませんから…」
小さくなって弱々しく謝ってくれるお母さんに、私は首を振ってそう答える。驚きを何とか押し込めつつ応じた私にもう一度頭を下げて、お母さんはそのまま部屋を出て行った。
「…ごめんね、ハルカちゃん。びっくりさせて…」
目の上辺りを右手で覆うようにしながら、マナミ先輩は吐息まじりにそう言う。「いいえ」と首を振ると、先輩は大きく息を吐いた。複雑な表情だけれど…お母さんに向けられる怒りは消えて、いつもの先輩に戻っている気がする。
「…うまくいってないのよ、あの人とは」
ポツリと呟くように言って、先輩も私と一真の向かい側に腰を下ろした。お母さんが置いていった紅茶とお茶菓子を私たちの方へ寄せて、呟く。
「そうね…その辺の話から聞いてもらおうかな。…私の、過去」
伏せ目がちの先輩が、そう何かを決意したように話し始めた。
******
「…あの人はね、父の後妻なの」
先輩の第一声に、私は少しだけ目を見開いた。…どうりで、似ていないと思った。お母さんも先輩も美人だけれど、質が違う気がして…。
一真はやはり知っていたんだろう。無言のままあぐらをかいて先輩の話に耳を傾けていた。
「私ね、こんな家に育ったから…昔から何不自由なく育てられた。……『愛情』以外は」
ありがちな話だけどね、と、マナミ先輩は自嘲するように笑う。
「父も本当の母も、どうしようもない人だった。父は仕事ばかりの人で、家庭を顧みようともしなかった…。元々母とは家同士が決めた結婚だったから。でも母の方は、そうじゃなかった。父のことが好きだったんでしょうね。父の気を引くために私を産んだ。…だけど、そんなことで父が母を振り向くわけがない。思い通りにいかない母親の私への態度は、悪魔のようだったわ」
そこで言葉を切ったマナミ先輩は、当時のことを思い出したのか少し苦々しい表情を浮かべた。
「父が振り向かない苛立ちを、全部私にぶつけてきた。…八つ当たりね。さすがに殴られたりすることはなかったけれど…言葉の暴力は凄まじかった。『死ねばいいのに』『何で産まれて来たんだ』『あんたなんか産むんじゃなかった』『あんたなんて必要ない』…。幼稚園に上がる前の、ほんの2,3歳の子どもによ?」
そんなひどい言葉を、口にできる人間がいるなんて…。私は、怒りと悲しみで目の奥がカァッと熱くなっていくのを感じた。
「家政婦さん…さっきの、岡田さんというんだけれど…昔からよくしてくれたから、母はそれに甘えて育児放棄していた。私の世話もしない、母親らしいことなんて何もしてくれたことがない。それでも幼い私には…たった一人の母親だった」
つないでもらえない手を、それでも伸ばして渇望するのにどれほどの勇気が必要だっただろう。たった3歳の幼い女の子の苦しみは、想像を絶するものがあった。自分を見てくれなくても…先輩にとっては大好きなお母さんだったんだ。
「幼い頃から、母の顔色ばかり伺っていた気がする。こうしたら私を見てくれるかな。こうすれば喜んでくれるかな。…それは、母が父に求めたものと同じだったのかもしれないわ」
「………」
「だけど、そんな私の必死さが報われることなんてなかった。やはり母にも私にも関心を示さない父に、あの人はやがて嫌気がさすようになった。父が自分を見てくれないことを私のせいにして八つ当たりするのにも疲れたのかもしれない。あの人は…縋りつく私を突き飛ばして、この家を出て行ってしまった」
伏せ目がちの先輩を見つめる私のそれが、何かで滲んでくる。それがつまりは涙だと認識する頃には、視界が揺れるほど潤んでしまっていた。
「母が出て行った後、私はずっと家の門のところで待ち続けた。いつか帰ってくるかもしれない。いつか私を抱きしめてくれるかもしれない。…叶わない、そんなバカな夢を見ながら」
「……」
「一ヶ月ほど、朝から晩までそこに立ってたかしら。ある雨の日…、傘も差さずに立ち尽くしていた私に、一本の傘がかけられた。顔を上げたそこにいたのは…母より少し年上の、キレイな女の人だった」
『アナタ、最近ずっとここにいるわね。ここのおうちの子なの?』
『……』
『風邪引くわよ。おうちに入ったら?』
『………』
「そう言った女の人は、私と同じくらいの男の子を連れていた。それに答えずにいた私から、何か訳アリだと悟ってくれたのかもしれない。ニッコリ笑って、小さな袋を差し出してくれた」
『それじゃ、ちょっと時間ある?おばちゃん今買い物してきたんだけど買いすぎちゃってねー。荷物が重くて大変なの。家、すぐそこだから、運ぶの手伝ってくれないかなぁ?手伝ってもらえたらお礼にホットミルクご馳走しちゃうけどな』
『……おばさん、大変なの?』
『そうよー。重くて重くて』
「袋に入ってたのは、小さなお菓子が一つだった。重いはずなんてないの。でも子どもの私には、その女の人がホントに困ってるんだと思ったのよね」
手伝わなきゃ、と思ったんだと、マナミ先輩は苦笑いを浮かべる。
『マナミ、手伝う』
『ありがとうー。マナミちゃんっていうのね、よろしくね』
「優しい笑顔と、頭を撫でてくれる温かい手は、今でも忘れられないわ」
それはきっと、マナミ先輩が自分の母親に求めてやまないものだったからに違いない。
『さて、じゃあ行こうか。准一、しっかりマナミちゃんと手つなぐのよ』
『うんっ』
それがタクミ先輩と、先輩のお母さんとの出会いだったんだと…マナミ先輩は続けた。
******
「母親の育児放棄で、私は親と公園に遊びに行ったりっていう当たり前のことをしたことがなかった。だから友達もいなかった。他の家に遊びに行ったのもそれが初めてだったわ」
言葉通りホットミルクをご馳走になり、タクミ先輩と遊んで…そんな子どもなら当たり前の体験が、きっとマナミ先輩には当たり前じゃなかったんだろう。
「私を連れて帰ってすぐ、タクミのお母さん…佳奈さんは屋敷にもちゃんと連絡を入れてくれたみたいだった。日が暮れる頃に、岡田さんが迎えに来たわ。謝る岡田さんに、佳奈さんは首を振って答えてた。『どうして謝るんですか?マナミちゃんはうちの息子の遊び相手になってくれただけですよ』って」
「……」
「それから佳奈さんは、私にも言ってくれたの。『また遊びに来てくれる?』って」
マナミ先輩の話を聞いているだけで分かる。タクミ先輩のお母さんは、とっても素敵な女性だったんだな、と…。タクミ先輩の家に一度行かせてもらった時に、仏壇に飾られた写真だけは見せてもらった。確かに、マナミ先輩が話す女性像とイメージが違わない。
「今思うと、うちの屋敷は地域でも目立ってたから…どんな家かなんて噂は皆耳にしていたんだと思う。それで、佳奈さんは私のことも気にかけてくれていたのかもしれない」
「……」
「それから、私は何度もタクミの家に遊びに行った。そこはとても居心地が良かったから…。優しくて厳しくて、子どもに愛情たっぷりのお父さんとお母さん。年の離れたしっかり者の理沙さん。そしてタクミ…。私の理想を、絵に描いたような家族だった」
父親が仕事ばかりでろくに戻らず、母親は実の娘を捨てて出て行ってしまった家よりも…。そのタクミ先輩の家族に憧れを抱いたのは、当然と言えば当然だったのかもしれない。
「本当に、私はずっと入り浸りだったわ。おかげでタクミとは兄妹のように育った。だけど、温かい家庭に包まれて育ち始めた私は…やがて自分の中に今までと違う感情が芽生え始めるのを感じた。それが、自分自身が大きくなって色んなことが分かるようになってきたからなのか、タクミの家で得られる温かさが大きすぎたせいかはわからない。だけどはっきり言えるのは、その感情というものが…父と母に対する『憎しみ』だったってこと」
「……」
「妻に家を出られても、全く気にしない父。そして、実の娘を平気で突き飛ばして捨てて行ける母。タクミの両親と比べれば比べるほど…憎しみは募っていくばかりだった」
それはきっと、タクミ先輩のお母さんがマナミ先輩に注ぐ愛情が、同情や偽りのものじゃなかったからだろう。血は繋がっていなくても本当の愛情を知った先輩は…実の親でさえ恨むしか術がなかったのかもしれない。
「そんな時、私とタクミは揃って幼稚園に入園した。そこで待っていたのは、残酷な大人たちの言葉だった。私が母親に捨てられたという事情は皆知ってる。大人の反応は様々だったけれど、どれもひどいものだった。『あの子とは関わっちゃダメ。遊んじゃダメよ』。そんなことを平気で自分の子どもに言える親がいる。逆に、『あの子は親に捨てられたかわいそうな子なんだから優しくしてあげなさい』。そんなことを言う大人もいる。多種多様だったけれど…どれも、私にとっては耳を塞ぎたい言葉だった」
一真が初めて、あぐらの上で握った拳に力を込めたのがわかった。私と同じ…行き場のない怒りを感じていたんだろう。
「それから、私は人が怖くなった。誰にも心が開けなくなった。子どもだから分からないとでも思ってたのかしら?幼い私の前で、大人は誰だって残酷だった。だから…誰も信じないし、信じられない。関わりたくないし、関わってほしくない。…そう思った。タクミの家族以外は」
「……」
「心を許せるのは、タクミの家族だけだった。私を愛してくれるのは…私が愛せるのは、あの人たちだけだった。それが…中学まで続いたわ」
「……?」
マナミ先輩の言葉に、私はふと首を傾げる。
『中学まで』…ということは…。
「中学で、何かあったんですか?」
尋ねると、先輩は緩く笑った。懐かしむような…悲しむような、複雑な微笑み。
「ある出会いがあったの。…須田先輩っていう、一人の先輩との」
一真も知っている人なのだろう。
その名前を聞いた途端に、一真が少し目を伏せたのがわかった。
「私が、大好きだった人」
遠い目をする先輩は、目の前の私ではなく過去の何かを見ているようだった。そんな先輩の一言に、私はわずかに目を瞠る。
「………」
開けていた部屋の窓から、タイミングよく私たちの間を温かい風が駆け抜けていった。