第一話 南ムーンベルの朝
朝の畑で、まめこの尻尾がぴんと立った。
葉っぱの影から顔を出した茄子を、黒猫のトロが前脚でつついている。
「それ、まだ採ったらあかんで」
まめこがしゃがむと、トロは知らん顔で隣の畝へ歩いていった。葉っぱの陰には、つやつやした茄子が一本。まめこは両手でそっと枝を持ち上げた。
「こっちは今日、採れそうやな」
「まあ。きれいな茄子ですこと」
声に振り向くと、メグが畝のそばに立っていた。肩に担いだ釣り竿が、朝日にきらりと光った。
メグはまめこの隣へしゃがみ、葉の陰をのぞいた。
「よく育ちましたわね。今朝、いただいてもよろしいかしら」
「ええで。半分こやけどな」
「ええ。もちろんですわ」
まめこは枝を押さえ、茄子を採った。両手で持ち上げると、メグがそっと受け取った。隣の株にも、食べ頃の実が下がっている。そちらも採って、朝食にすることにした。
「重たいのね」
「昨日より大きなった気がするわ」
トロが二人の間を通り抜けた。まめこも立ち上がろうとして、足元のじょうろに靴を引っ掛ける。
「あっ」
メグがすぐに腕を支えた。まめこの足が地面へ戻るまで、その手は離れなかった。
「大丈夫? じょうろがありましたわね」
「うん。茄子ばっかり見てた」
メグはじょうろを畝の脇へ寄せ、まめこの膝についた土を軽く払った。
「では、マリーにお願いしましょう」
トロはメグの足元に座り、茄子には目もくれず、魚の入った釣り籠をじっと見上げていた。
「お前はお魚やな」
まめこが笑った。
台所の窓が開き、マリーが顔を出した。
「お二人とも、朝食の支度ができましたよ」
「マリー。まめこの茄子も、焼いていただけますか」
メグが茄子を差し出す前に、まめこを見た。まめこは頷き、そのつやつやした皮を指でそっとなぞった。
「今、採ってん」
「立派ですね。朝食には間に合いますよ。先に手を洗っていらしてください」
「釣り籠には、お魚も二尾おりますの」
「はい。トロが先ほどから、ずっと見ています」
名前を呼ばれたトロは尻尾をひと振りして、誰より先に家の中へ入っていった。
台所の奥では、朝の火が起きていた。
マリーがまめこから茄子を受け取り、布で表面の土をぬぐう。メグは釣り籠を台の上へ置き、蓋を少し開けた。
「今朝の獲物ですわ」
トロが背伸びをした。籠の中には小ぶりな魚が二尾、銀色の腹を並べている。
「立派ですね。塩を振って焼きましょう」
「トロの分もある?」と、まめこ。
「ありますよ。ただし、熱いまま食べさせないでくださいね」
その言葉を聞き分けたかのように、トロは炉の前に座った。まめこが手を洗って戻るころには、メグの足に体を寄せて、魚が焼けるのを待っている。
「釣ったのはわたくしですのよ?」
「トロ、メグにも一口残したってな」
「では、わたくしの分は、まめこと分けましょうか」
まめこが笑うと、マリーも包丁を動かしながら笑った。
焼けた茄子の皮をむくのは、まめこの役になった。指先が熱くて何度も手を引っ込める。メグも隣に座り、皮の端をつまんだ。すぐに指を離し、二人で顔を見合わせる。マリーに少し冷ますよう言われてから、交代で少しずつむいた。
皿に盛られた茄子を見て、まめこは満足そうにうなずいた。
「ちゃんと半分こになったで」
「ええ。上手に分けられましたわね」
「大きいほう、メグにあげる」
窓から朝の風が入り、台所に吊るした乾燥ハーブを揺らした。まめこはパンをちぎりながら、さっき畑で口ずさんでいた節を、もう一度小さく歌った。言葉のない、短い歌だった。
マリーの手が一瞬止まる。
「その歌、どこで覚えたんですか?」
「知らん。畑におったら、なんか出てきてん」
「もう一度、聞かせていただける?」とメグが言う。
「さっきと違うかもしれへんで」
「ええ。それも聞いてみたいですわ」
トロが床で、返事をするように一声鳴いた。
食べ終えると、マリーは布に包んだパンを二つ、まめことメグに手渡した。
「街まで行くのでしょう。お昼にどうぞ」
「街?」
まめこは顔を上げた。
「昨日、話したではありませんか。糸と釣り針を買いに行きますの。あなたの畑の籠も、持ち手がほつれているでしょう?」
まめこは戸口に立てかけた籠を見た。たしかに、持ち手の片側から細い蔓が飛び出している。
「……茄子、食べきれへん分は街で売れるかな」
「お店の茄子も見て、お値段を考えましょうか」
「売れたらええなあ」
メグが籠のほつれを確かめる横で、マリーはもう一つ、小さな布包みを差し出した。
「トロのおやつです。魚の骨は取りましたよ」
トロはその包みを見上げ、先に外へ出た。
「待って、トロ。採ってから行くで」
まめこは籠を持って畑へ戻った。葉を持ち上げると、こちらにも、向こうの株にも、艶のある実が下がっていた。家で食べる分を残し、メグと一株ずつ見て回る。籠には十本の茄子が並んだ。
メグが庭の門を開ける。ムーンベルの街へ続く道には、もう朝の光が満ちていた。
まめこは籠の底を両手で支え、胸の前に抱えて歩いた。茄子がいっぱい詰まった籠は、ずっしりと重かった。メグは釣り竿を肩に、トロは二人の少し先を、道草を食うように進んだ。
「おやつ、まだ早いで」
トロは振り向いて鳴いた。まめこが布包みを持っているのを、ちゃんと知っているらしい。
街へ近づくにつれ、往来の声が増えた。荷車の車輪が石を踏む音、店を開ける人の挨拶。その向こうから、聞き慣れない呪文の声がひとつ聞こえてくる。まめこは立ち止まりかけたが、メグに袖を引かれた。
「まずは茄子ですわ。いい場所を探しましょう」
「売るだけやのに、場所がいるん?」
「もちろん。人の通らないところで立っていても、誰も買いませんもの」
そう言ってメグが選んだのは、露店の並ぶ通りの端だった。まめこが籠を地面に置くと、通りがかりの女の人が足を止めた。
「あら、いい茄子ね。お嬢ちゃんが育てたの?」
「うん。朝、採ったばっかりやで」
「二本でいくら?」
まめこは答えられず、メグを見上げた。メグはまめこの隣へ寄った。
「二本で三枚では、いかがでしょう。まめこが毎日、お世話をしておりましたの」
女の人は茄子を手に取り、表面を眺めた。
「それなら、二本いただくわ」
まめこの手のひらに、小さな硬貨が三枚落ちた。女の人の袋へ移った茄子を見て、なんだか少し惜しくなった。
「おいしく食べてな」
「もちろんよ」
女の人が笑って歩いていく。まめこは硬貨を握りしめたまま、その背中を見送った。
次に足を止めたのは、買い物籠を提げた年配の男の人だった。まめこは今度こそ、自分で値段を言った。
「二本で三枚やで」
籠が軽くなるたび、まめこは残った茄子を前へ寄せた。最後の二本を買った人が通りの向こうへ消えると、籠の底には葉っぱが一枚だけ残っていた。
「全部、売れましたわね」
「……うん。メグ、ちゃんと値段つけられるんや」
「お店のものと、見比べておりましたから」
「朝の茄子も、売れたやろな」
メグが口元をほころばせた。
「そちらは、もうお腹の中ですわ」
まめこが笑うと、足元でトロが鳴いた。どうやら、商売が済んだならおやつの時間だと言いたいらしい。
通りの隅に腰を下ろし、まめこはマリーの包みを開いた。骨を取った魚を少しずつ渡すと、トロは夢中で食べ始める。メグはその横で、まめこの籠の持ち手を確かめた。
「先にこれを直しましょう。帰りに抜けたら大変ですわ」
「メグが持ってくれるん?」
「ええ。こちらへ貸してごらんなさい」
「ほな、メグの釣り道具入れる」
「では、持ち手を丈夫にしていただかなくてはね」
二人が立ち上がったとき、通りの向こうから弦の音が流れてきた。
まめこは足を止める。人混みの間に、楽器を抱えた人の姿がちらりと見えた。弦が鳴るたび、朝の台所で口ずさんだ節が、頭の中でそっと続きを探す。
「まめこ?」
呼ばれても、まめこはすぐには答えなかった。
「……あの音、近くで聞いてもええ?」
メグは釣り竿を肩に掛け直し、まめこの見ている先へ目を向けた。
「少しだけですわよ。釣り針を買うのも忘れないでくださいまし」
「わかってるで」
まめこは籠を抱え、音のするほうへ歩き出した。食べ終えたトロが、後を追った。
人だかりと呼ぶほどではなかった。店の軒先を借りた男が、膝に楽器を載せて弦をつま弾いている。メグが家で弾くのと同じ楽器だ。けれど男の指から出る音は、ひとつひとつが少しだけ遠くへ飛ぶように聞こえた。
まめこは人の後ろに立ち、首を伸ばした。男は二人に気づくと、演奏を続けたまま軽く会釈した。
「そんなに前に出なくても、聞こえますわよ」
「指が見えへん」
「そこですの?」
メグが笑って場所を譲る。まめこは籠を抱えたまま、男の手元を見た。弦を押さえる指が動くたびに、同じ楽器なのに音の高さが変わる。
曲が終わると、まばらな拍手が起きた。まめこも籠を片腕に掛け直して手をたたいた。
「おや、熱心なお客さんだ」と男が言った。「楽器が好きなのかい?」
「メグが弾くん、いつも聞いてるで」
「家でも、よく聞いてくれますの」
「うん。でも今の曲、メグは弾いたことない」
「それは……そうですわね」
男は笑い、楽器を膝に置き直した。
「さっきから何か歌っていたね。この曲を知っていた?」
「知らん。勝手に口から出てきただけやで」
まめこはあわてて口を押さえた。音に夢中で、自分が歌っていたことに気づかなかったのだ。
「邪魔した?」
「いいや。もう一度聞かせてくれるかい」
まめこはメグを見上げた。メグは少し驚いた顔をしていたが、すぐにうなずく。
「歌いたいのでしたら、お歌いなさいな」
男がさっきの曲の初めを弾く。まめこは覚えているところだけ、音を追った。途中で節を見失い、声が止まる。男も手を止めた。
「あ、そこ、わからへん」
「初めて聞いたんだから、当たり前さ」
男はつまずいたところから、ゆっくり弾き直してくれた。まめこはもう一度だけ口ずさむ。今度は曲の終わりまで音がつながった。
「できた!」
まめこが笑うと、トロが足元で鳴いた。メグも、そっと手をたたいた。
「最後まで歌えましたわね」
「メグも、覚えた?」
「少しだけ。帰り道で、教えていただこうかしら」
男は声を立てて笑った。それから、まめこの籠を指さす。
「持ち手がほつれているね。向こうの籠屋に持っていくといい。店の人は手が早いよ」
礼を言って歩き出してからも、まめこは覚えた節を小さく繰り返した。一度間違えると、メグが横から正しい音を歌う。どちらも途中から怪しくなって、二人で顔を見合わせて笑った。
籠屋では、飛び出した蔓を編み直してもらった。メグの釣り針と糸も無事に買えた。店を出るころには陽が高く、マリーの包んだパンを食べるのにちょうどよい時間になっていた。
「茄子のお金、どうするんですの?」とメグ。
まめこはポケットから硬貨を取り出した。重ねようとしたが、上の一枚が滑った。
「一枚は、次に植える種に使う。あとは……まだ考え中や」
「しっかりしておりますわね」
「メグには貸さへんで」
「ええ。あなたが育てた茄子のお金ですもの。大切にお使いなさい」
トロが二人の間を抜け、家へ続く道のほうへ歩き出す。まめこは直った籠を腕にかけ、メグと並んで後を追った。
朝、畑で生まれた短い歌は、街で覚えた曲と混ざって、帰り道にも続いていた。
家に戻ると、マリーは直った籠を見て「よかったですね」と言った。まめこは茄子が売れたことを報告し、硬貨を十五枚、食卓の上に並べてみせる。
「種を買う分は、しまっておきましょうね」
マリーが小さな布袋を渡してくれた。まめこは一枚だけ袋に入れ、残りを何に使うか考えながら、また籠に腕を通した。
「今度はどちらへ?」
「畑。まだ水やってへんとこがあるねん」
メグは新しい釣り糸を試したそうにしていたが、まめこの後について庭へ出た。二人でじょうろを運び、葉の陰まで水をやる。トロは濡れない場所をよく知っていて、木の根元に座ったまま、動く水だけを目で追っていた。
夕方には、まめこの足も腕も土だらけになった。
「お風呂の支度ができましたよ」
マリーの声に、まめこは自分の袖を見た。
「……そんなに汚れてる?」
「お顔にもついています」
メグが指で自分の頬を示す。まめこが同じ場所をこすると、土はますます広がった。
「反対の頬ですわ。鏡で見てごらんなさい」
夕食の前に湯を使うことになった。まめこが着替えを抱えて浴室へ行くと、トロもついてくる。
「トロは入らへんよ」
戸口で足を止めたトロは、聞こえなかったふりをして中をのぞいた。まめこが湯に手を入れると、耳がふっとゆるむ。
「あったかいなあ」
頭を洗い、畑の土を落とす。尻尾の先にくっついていた葉っぱを見つけて、まめこはひとりで笑った。湯から上がると、トロはまだ戸口で待っていた。
「ほんまに入る気やったん?」
手を伸ばすと、トロはするりと逃げた。
「やっぱり嫌なんやな」
夕食には、昼に売った茄子の話がもう一度出た。まめこは自分で育てた野菜を誰かが食べることを嬉しく思っていた。
「また採れたら、持って行こうかな」
「そのときは、わたくしが値をつけますわ」
「今日より高くする?」
「出来を見てからですわね」
メグが真面目な顔で答えるので、まめこも真面目にうなずいた。マリーだけが、皿を片づけながら笑っていた。
夜、寝床に入っても、まめこの頭には街で聞いた曲が残っていた。小さな声で一節歌うと、足元で丸くなったトロの耳が動く。
「起こした?」
返事の代わりに、トロは目を細めた。
戸口が軽く叩かれ、メグが顔をのぞかせる。
「まだ起きていましたの?」
「今日の曲、忘れんようにしてた」
「明日、わたくしの楽器で弾いてみましょうか」
「ほんまに?」
「覚えているところまで、ですわよ」
「あたしも歌うで」
メグは「約束ですわ」と言って、戸を静かに閉めた。
まめこは明日の畑と、メグが弾く曲のことを考えた。足元のトロが体勢を変え、布団の端が少しだけ重くなる。
歌の続きを思い出すより先に、まめこは眠っていた。
初心者です。よろしくおねぎします。




