第35話 創造主の凱旋と黄金のナポレオン・パイ
「助けてください! 示談です、示談にしましょう九条院先生!」
「この通りです! 僕が……一条グループが悪かったです! 訴えを取り下げて、あの仮処分を解除してください!」
帝都の一等地、『九条院法律事務所』の応接室。
かつて「次世代の覇者」とまで持ち上げられた一条グループの御曹司、一条蓮が、今は見る影もなく床に膝をつき、額を絨毯に擦り付けていた。
その隣では、自称・天才デザイナーの如月美夜が、自慢の美貌を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、私のスカートの裾に縋りつこうとしている。
「お姉様にも謝ります! 何でもします! だから、わたくしのSNSのアカウントを復活させて……! 盗作なんてデマを流さないでぇぇっ!」
「デマ、ですか。失礼ですね。私は司法という名の客観的な『真実』を突きつけただけですよ」
私は、二人の絶望的な懇願をBGMに、デスクに置かれた巨大な木箱を開けた。
中から現れたのは、縦二十センチ、横三十センチという、もはや建築物の風格を湛えた特製『黄金のナポレオン・パイ』だ。
最高級のバターを練り込み、数千層にも及ぶ折り込みを繰り返した極薄のパイ生地。
その間には、バニラビーンズが贅沢に香る濃厚なカスタードクリームと、一粒一千円は下らない大粒の苺が、整然と、しかし圧倒的な質量で敷き詰められている。
仕上げには、二十四金の純金箔が天面に散らされ、窓から差し込む朝陽を反射して神々しく輝いていた。
「……素晴らしい。この、サクサクという軽やかな音と共に崩れ去る、虚飾の層。そして、その後に残る本物の素材の重厚感」
私は、銀色のナイフでパイを垂直に断ち切り、その巨大な一切れを優雅にフォークで持ち上げた。
口に運べば、パイの香ばしさが弾けると同時に、クリームの甘美な暴力が舌を支配し、苺の酸味がすべてを華やかにまとめ上げる。
「所長! 一条グループが株主代表訴訟で首が回らなくなって、御曹司が文字通り『詰み』の状態なのに、なんで一人でエジプトのピラミッドみたいなケーキを建設現場(お皿)の上で解体してるんですか!」
「こっちは一条家の顧問弁護士団から届いた『白旗(和解勧告)』のメールを、一通ずつシュレッダーにかけてるんですよ! 僕の指が腱鞘炎で死滅しそうです!」
パラリーガルの木戸くんが、三台のモニターを同時に監視しながら、血走った目で絶叫した。
「失礼ですね、木戸くん。このナポレオン・パイの積層構造は、一度崩れた名声という名の『パイ生地』は、二度と同じ形には戻らないという無常の心理を解読するための、重要なインスピレーション源ですよ」
私はナポレオン・パイの二口目をパクリと食べ、カスタードのコクを楽しみながら、足元で震える二人に冷徹な視線を向けた。
「一条さん。和解なら、すでに彩也様との間で成立していますよ。……ただし、貴方が提示したような端金ではなく、私の作成した『完全勝利条項』によって、ね」
「か、完全勝利条項……?」
「ええ。一条グループが過去五年間、彩也様のデザインで得た利益の全額返還。美夜さんの全公式アカウントでの『盗作の事実』の公表と謝罪。そして……」
私は黒縁メガネを中指でクイッと押し上げ、魔王の笑みを深めた。
「如月美夜さん。貴女は今後一切、ファッション業界に関わることを禁じます。もしペンを一本でも握れば、違約金としてさらに十億円を徴収させていただきますわ」
「そ、そんな……! わたくしからオシャレを取ったら、何が残るっていうのよぉぉっ!」
「……何でしょうね。まあ、他人のデザインを盗むための『小細工』以外の特技を見つけることをお勧めしますよ」
私がナポレオン・パイの苺を噛み砕くと、麗華様がバサァッ!と扇子を広げ、高らかに笑い声を上げた。
「オホホホッ! 美夜さん、ご安心くださいませ! わたくしのお茶会ネットワークで、貴女にふさわしいお仕事を見つけておきましたわよ!」
麗華様は、スマートフォンの画面を美夜の顔面に突きつけた。
「北極圏の観測基地での、ひたすら雪を溶かす作業員! あるいは、砂漠でのサボテンのトゲ抜き! そこなら、貴女の卑しい自尊心を刺激する誘惑もありませんわ!」
「ひ、ひえぇぇっ! そんなの嫌ぁぁっ!」
「あ、一条蓮。君の父親……会長からは、君を『勘当』し、海外の閉鎖された工場へ更生のために送り出すという連絡が入っていますよ」
木戸くんが、無表情に一通のFAXを読み上げた。
「一条グループは、今回の件でコンプライアンスを完全に刷新し、新しいパートナーとして『如月彩也ブランド』を全面支援することを決定したそうです」
「な……僕を、捨てるのか……父さん……!」
一条蓮が、抜け殻のようにその場に崩れ落ちる。
自らの野心のために天才を搾取し、偽物を担ぎ上げたツケは、自らの地位と未来をすべて失うという形で支払われた。
「……ふぅ。ナポレオン・パイの層が多すぎて、少し顎が疲れましたね」
私は最後の一切れを優雅に飲み込み、ナプキンで丁寧に口元を拭った。
「さて、彩也様。……おめでとうございます。貴女は今日から、誰の影でもない、世界で唯一の『創造主』です」
応接室の奥から、見違えるように凛とした表情で、如月彩也様が現れた。
彼女の手には、泥だらけだったあのスケッチブックではなく、新しい、真っ白なキャンバスが握られている。
「……はい。九条院先生、ありがとうございました。私、もう怖くありません」
彩也様は、床に這いつくばる美夜と蓮を一瞥し、慈悲のかけらもない声で告げた。
「美夜。私は貴女を許さないけれど、もう貴女のことも恨まないわ。……貴女に構っている時間は、私のデザインには一分も残っていないの」
その言葉は、どんな罵倒よりも残酷に、偽物の妹の存在価値を否定した。
「素晴らしい決別ですわ、彩也様! ……さあ、結お姉様! 第一章で結ばれたあの新社長様から、至急の連絡が入っておりますわよ!」
麗華様が、楽しそうにスマートフォンを掲げる。
「『私の右腕にふさわしい天才デザイナーを、今すぐ連れてきて』とのことですわ!」
「おや。彼女も相変わらず仕事が早いですね。……彩也様、行きましょう。貴女の才能が、世界をタコ殴りにするステージが待っていますよ」
私は立ち上がり、トレンチコートを翻した。
「木戸くん。一条家からの成功報酬、きっちり一円の狂いもなく回収しなさい。……私のパフェ三百年分くらいの額をね」
「ええっ、三百年分!? どんな胃袋してるんですか所長! ……まあ、今回はそれくらいの働きはしましたけどね!」
木戸くんが、山のような書類を整理しながら、ようやく少しだけ晴れやかな顔で笑った。
法の鈍器で一族の虚飾を粉砕し、真実の才能を解き放つ。
甘美なナポレオン・パイの層を一枚ずつ剥ぐように、隠蔽された真実を露呈させた魔王の戦いは、こうして一つの結末を迎えた。
だが、この帝都に不条理が蔓延る限り、九条院法律事務所の門が開かれることはない。
「――所長! 大変です、また新しい依頼人が! 今度は音大の卒業演奏会直前に、首席を争うライバルたちによって特注ドレスと家宝のバイオリンを破壊された令嬢です!」
「おや。嫉妬に狂った芸術家による、器物損壊の不協和音ですか。……面白そうです」
私は懐から、今度は最高級のピスタチオキャラメルを取り出し、一粒口に放った。
「麗華様、木戸くん。次なる解体作業の時間ですよ。……さあ、出陣です」
法の刃が、また新たな悲鳴に応えて研ぎ澄まされる。
九条院結の辞書に、不可能とダイエットという文字は、やはり存在しないようである。
第7章『著作権侵害の仮処分と天才デザイナーの覚醒編』、最後までお読みいただきありがとうございました!
偽物が本物に勝てる唯一の条件……それは本物が沈黙している時だけ。その沈黙を破った彩也様の勇気に、乾杯です。
もし、今回の事件を読んで
「著作権でのタコ殴り、インテリジェンスを感じて最高だった!」
「第1章の社長との繋がり、胸熱!」
と感じていただけましたら、ページ一番下の【☆☆☆☆☆】をポチッと押して、【★★★★★】の最高評価をいただけますと、作者はナポレオン・パイを食べた時のような至福の表情で次章を執筆できます!
次回予告:第8章、準備中!
ラストに届いた不穏な依頼。今度はなんと、
『卒業演奏会直前、ライバルによってドレスとバイオリンを破壊された音大生』!?
芸術の聖域で起きた陰湿ないじめ。魔王弁護士が「香水」と「ラメ」の科学捜査で、数千万円の損害賠償を突きつけます!
【ブックマーク】を外さずにお待ちいただければ、数日後の新章スタートを逃さずチェックできます。次なる法廷で、またお会いしましょう!




