第196話 値札
私が紙の表面を指で弾いた音が消える。
初老の男が革のケースの留め金を押し込んだ。
金具が噛み合う音が鳴る。
「これで手配した品は全てです。不足があれば、再度連絡を」
男が頭を下げる。
私は書類の束から手を離し、テーブルの端に両手をついた。
「ありがとう。助かったわ」
私は部屋の出口へ向かう彼らの背中を見送る。
通信機を隠し持っていた若い男も、他の者たちに続いて扉へ歩き出す。
私は大きく息を吸い込み、普段より声帯を強く震わせて声を出した。
「ねえ、レオ。この軍務大臣の裏帳簿、全部会議場に持ち込むつもり?」
私の声が、壁と天井に反響して部屋全体に広がる。
レオニスが扉の側で立ち止まる。
彼は私を一瞥し、すぐに私の声量に合わせたトーンで答えた。
「分量が多すぎる。警備の検査を抜けるには荷物が重い。それに、会議の場に原本を晒すのは物理的な奪取のリスクが伴う」
「じゃあ、写しだけを持っていきましょう」
私はテーブルの中央に置かれた革表紙のファイルを手で叩いた。
表紙の革が重い音を立てる。
「原本は今日中に手放した方が安全よ。港に停泊している南洋の輸送船の金庫に預けるわ」
レオニスが腕を組む。
「今夜出航する便か。船長の許可は得ている」
「ええ。船が港を離れれば、この国の軍部も手を出せない。原本さえ安全な場所にあれば、大臣の首はいつでも取れるわ」
若い男の足が、扉の木枠を跨ぐ瞬間に止まった。
靴底が絨毯を擦る音が僅かに遅れる。
私は彼の方を見ないまま、彼の胸元から発せられる音に耳の神経を集中させた。
布地が擦れる微かな音の直後、カチリと硬いプラスチックのスイッチが押し込まれる音が鳴る。
電力が回路を走り、高周波のノイズが周囲の空気を震わせた。
通信機が起動し、発信状態に切り替わった音だ。
男の心拍が急激に跳ね上がり、短い呼吸音が廊下へ遠ざかっていく。
扉が閉まり、ラッチが下りた。
廊下の足音が完全に消えるのを確認し、レオニスが窓際へ歩く。
彼はカーテンの隙間から外を見下ろした。
「声の通りが良すぎる。廊下を歩く他の客にも聞こえる音量だ」
「通信機を持っていた男の耳に確実に届けるためよ」
私はテーブルから立ち上がった。
「時間の余裕がない人間は、耳に入った情報を疑って検証する手順を踏まないわ。物理的に回収へ動くことを優先するはずよ」
レオニスが窓から離れ、腰のホルスターから銃を抜く。
シリンダーを横に振り出し、弾薬の装填状態を目視で確認する。
金属部品が擦れ合う音が鳴り、シリンダーが元の位置に収まる。
「港へ向かう。輸送船の出航時刻までに、現れる人間を処理する」
彼は銃をホルスターに戻した。
私は部屋の隅にある備え付けの書き物机へ向かった。
引き出しを開け、ホテルのロゴが印刷された便箋の束を取り出す。
テーブルに戻り、本物の裏帳簿から中身の書類を抜き取った。
抜き取った本物の書類を自分のコートの内ポケットに押し込み、代わりに白紙の便箋の束を革のカバーに挟み込む。
カバーの厚みを整え、外側から革のベルトで固定した。
「偽物の束の完成よ。暗闇の中なら、表紙の質感だけで本物と思い込むわ」
私は偽の帳簿を手に持ち、重さを確かめた。
「偽情報を掴まされた手間賃は、あの男自身の口から支払ってもらうわよ。大臣の差し金だという言質を取れば、会議場での告発の材料が増えるわ」
レオニスが椅子に掛けてあった自分のコートを羽織る。
「港の倉庫街は身を隠す場所が多い。待ち伏せには都合が良いが、相手も複数で来るだろう」
彼は手袋を嵌め、指の関節を曲げて革を馴染ませる。
「馬車の手配はしない。徒歩で裏道を通る」
私は偽の帳簿を鞄に放り込み、金具を留めた。
作業服のジッパーを首元まで引き上げ、防寒用の外套をその上から羽織る。
窓の外では、雪が建物の屋根を白く覆い隠し始めていた。
私は鞄のベルトを肩に掛け、扉へ向かって歩き出すレオニスの背中を追った。




