10話
師走の平日。
夕方以降になると、街中の居酒屋は忘年会で盛り上がり、陽気になる会社員たちで混み合う。
どちらかと言えばちょっと値段のはるお店。
毎年恒例の部署の忘年会は賑やかで、普段は仕事で交流のない同僚たちとも和気あいあいとお酒を飲んでる。
誰もが知っている大手の出版社に勤務する社員達の学歴はそれなりに良くて、お勉強も良くできたんだろうなと想像できる見た目で。
仕事もそつなくこなす人が多い中で、それほど仕事に向上心もない私。
そんな私には遠い存在に思える人も結構いるけれど、今日はお酒の力もあって距離も近くなってる気がする。
「紫ちゃん、結婚はまだしないの?」
「えっと……」
ほどよくまわったお酒のせいか、ぽっと赤くなってる顔で聞いてくるのは美波さん。
私よりも3歳年上で、入社当時からお世話になっている女性の先輩。
去年結婚したあともばりばりとフルタイムで仕事をこなすキャリア。
「男前の彼氏がいるんでしょ?こないだ飲み会の迎えに来たって評判の」
「評判……?……っはは、まあ、いるんですけど」
やっぱりあの日の同期会の事は知られてるんだな。
あからさまに俺のものだと威嚇しながら私を連れ帰った可偉のことは社内でもひっそりと噂になっている。
「結婚するなら相談してね、仕事との両立は難しいけどなんとかなるし」
美波さんはふふっと笑顔を見せた。
私は思わずその綺麗な表情に見とれてしまう。
結婚してから更に艶やかな雰囲気も身に纏うようになった美波さんは、手元にあったビールを一気に飲み干すと。
「結婚っていいよ。好きな人と身内になるってやっぱり違うし。
この人だって思えるなら、自分からプロポーズしてもいいし結婚しちゃえば?」
「はあ……」
にっこりと自信ありげに笑う美波さんにどう答えていいやら。
結婚を考えないわけではないけれど、まだ実感もないし。
いつかウエディングドレスを着てみたいなあくらいにしか考えてない。
もちろん、結婚するのなら可偉しかいないけど。
「どんなに仲のいい恋人同士でも、踏み込めないものってあるからね。
遠慮もしちゃうし引かなきゃなって思うところもあるけど、結婚して身内になると、そんなの一気に減っちゃうし」
多分、美波さんは幸せな結婚生活を送っているんだろうな。
美波さんの背中越しに旦那さんの優しい笑顔が見えるような気がする。
いいな。
「美波さん、旦那さんの事大好きなんですね」
「うん。大好き」
ふんわりと笑う口元はどこか穏やかで、とってもかわいい。
「旦那の身内でいられることがとっても幸せー」
酔ってる事はあきらかで、いつも見ない緩んだ目元もお酒のせいだけど。
そのせいで飛び出す本音に、ほんの少し嫉妬してしまう。
そして、たわいもない、美波さんののろけ話を散々聞かされて、いつの間にか忘年会もお開きの時間になっていた。
いつもの事だけど、話すばかりでそれほど食べない私は、お店を出た瞬間に空腹を感じてしまう。
二次会に行く同僚や上司たちと別れて、同じ部署の同期数人と向かうのは。
恒例になりつつあるラーメン屋さん。
日付が変わるまでまだ時間もあって、行列に並びながらのんびりと酔いをさましていると。
「今日は可偉のお迎えはないのか?」
同期の男…こないだ廉さんと打ち合わせをしていた友哉が声をかけてきた。
その顔はからかい気味で、くすくすと笑っている。
「……今日はこない。外せない用事があるからタクシーで帰って来いって」
そう、朝きつく言われた。
タクシー代を握らされて、絶対に一人で電車で帰るなと。
本当なら迎えに行きたいみたいだったけど、どうしても無理みたいできつくきつく言われた。
「ふうん。タクシーの一人乗りも不安だな。俺、近いし一緒に乗ってくよ」
「え?いいの?」
「いいよ。どうせ方向一緒だしな」
友哉の言葉に少しほっとする。
夜一人でタクシーに乗るのって、大丈夫だろうとは思うけどなんだか不安で。
友哉が一緒なら安心。
「友哉の彼女に悪いね」
「ん?いいんじゃね?あいつ、俺の事信じ切ってるし俺にたっぷり愛されてるし」
「……ごちそうさま」
くくっと笑う友哉にそう言うと、満足そうに笑い返された。
「ま、紫と可偉さんも信じ合って愛し合ってる感じだけどな」
「うん。そうだよ。私の事可偉の好きにしていいよって言ってあるし」
「なんだかエロ……」
「あ、ちがっ……そうじゃなくって」
「はいはい。可偉さんの大切な大切な宝物だもんな。ちゃんと送ってやるよ」
慌てる私を無視して、友哉はくすくす笑い続けていた。
そして、そのあとすぐにお店に通された私達はおいしいラーメンを堪能した。
* * *
ちょうど日付が変わる頃にタクシーは家の前に着いた。
「じゃ、ありがとね。気を付けて帰って」
「おう。可偉にもよろしくな。もう帰ってるみたいだな」
友哉の言葉に振り返ると、部屋に明かりがついていて、可偉はもう帰ってるみたい。
「じゃ、また来週な」
タクシーが遠ざかっていくのをしばらく見ていると、玄関のドアが開いて可偉が出てきた。
「お帰り。ちゃんとタクシーで帰ってきたな。友哉も一緒だったのか?」
「あ、うん。一緒に乗ってきてくれたの。方向一緒だしね」
「そうか」
ふっと笑うと、可偉の腕が私に回ってきて抱き寄せられた。
夜の寒い空気の中、私を包みこむ温かい可偉の胸に頬ずりする。
そして、可偉の背中に腕を回して体を預けると、ようやく帰ってきたなってほっとする。
「ただいま」
「おかえり」
「へへ……あったかい」
ぐっと抱きしめて、ごろごろと、頬をすりすり。
かなり極上な気分になる。
「どうした?酔ってるのか?」
甘い可偉の声を聞くと、本当に幸せだ。
「酔ってない。甘えてるだけ」
きっと、美波さんとか友哉の幸せな様子に刺激されて、いつも以上に甘えている私。
「可偉、大好き」
「くくっ……俺も大好きだぞ。さ、続きは部屋でゆっくりしような」
そっと唇を落とされて、抱き上げられて。
可偉の首にしがみついて。
「いっぱい愛してね」
やっぱりまだ酔ってるとしか思えない言葉を言っていた。
可偉に抱き上げられたまま家に入った私は、リビングのソファに下ろされた。
ふと視界に入ったのは、テーブルに残されたコーヒーカップ。
二つ置かれていて、一つは私とお揃いで買った可偉のカップ。
一緒に住むようになって揃えたお気に入り。
で、もう一つは、来客用に用意してある5客セットのうちの1客。
あれ……?
誰か来てたのかな。
そんな事聞いてなかったけど。
首をかしげながら隣に座ってる可偉を見ると、私の疑問を察したのか複雑そうな表情をしていて。
更に疑問は大きくなる。
「誰か来てたの?」
小さく聞くと、
「あー、片付けるつもりだったのにな」
可偉は小さくため息をついて、眉を歪めた。
「……紫が悲しむような事は何もしてないから。
俺は紫を傷つけるような事はしないし、そんな事から紫を隔離して置くために生きてるんだからな」
「うん……」
強気な言葉で、私が照れる事をさらっと言う可偉には慣れたけれど、今、まさに照れてしまう事を言われたよね。
私を傷つけるなんて、絶対にないってわかってるけど、それでもこのコーヒーカップって誰が使ったの?
微かに残ってる口紅の色が、私の不安を煽るようで、落ち着かない。
「……姉貴が来てたんだよ」
はあ、という吐息と共に、言いたくなかったんだろうってわかりすぎるくらいの口調。
……未乃さん?
「もしかして、廉さんの事?」
思わず大きな声で叫ぶ私に、可偉は複雑そうに笑って
「そういうわけじゃないんだけどな……」
「じゃ、どうして未乃さん来てたの?」
普段は仕事のない休日に来る事が多い未乃さんが、平日のこんな夜遅くに来るなんてよっぽどの事があったに違いない。
身を乗り出して、かなりの勢いで可偉に問いただしてしまう。
「姉貴、職場が変わるらしいんだ。郊外の幼稚園で求人があって、移るからその相談っていうか、報告に来た」
苦笑と寂しさの入り混じった表情で話す可偉からは、ごまかしている様子は見えないけれど、本当にそれだけで訪ねてきたのかな。それも、私のいない時に?
「姉貴も悩んでたみたいだけど、幼稚園の先生はやめたくないから自分に合った場所で長く働きたいらしい。郊外とはいっても車で二時間もあれば着くし、いつでも会えるさ」
いつも未乃さんにはあっさりとした態度でいる可偉だけど、やっぱりお姉さんだもん、寂しいのかな。
ほんの少し低い声は、まるで自分に言い聞かせてるように聞こえる。
「で、廉さんの事は?話してくれた?」
その事が気になって仕方がない。
未乃さんは、廉さんに会ってくれるのかどうか、それが一番気がかりだ。
私の言葉に一瞬目を揺らした可偉は、小さくため息を吐いて
「いや、廉の事は話してない。今日は遅かったし姉貴も仕事の事で悩んでたからそれどころじゃなかったからな」
「そう……」
「姉貴が引っ越す前にゆっくり話してみるから。しばらく姉貴には黙っててくれ」
「ん……わかった」
視線を合わせずに早口でそう言う可偉の様子はなんだか不自然だなと思えるけど、未乃さんが遠くに行っちゃうからやっぱりショックを受けたのかな。
そんな可偉を見ているうちに寂しくなって、自分から可偉の膝に乗っかった。
横座りで可偉の首に腕を回すと、ちょっと驚いていたけれど、優しく応えてくれて、抱き寄せてくれた。
「まだ甘えるのか?」
私の髪を梳きながら、くすくす笑う可偉の顔には普段見えない疲れも見える。
未乃さんが遠くに行く事、そんなにショックだったのかな。
たしかに、身内が遠くに行くのって寂しいもんね。
私が両親を失って、その時にはお兄ちゃんとお姉ちゃんが支えてくれたから、可偉だってお姉さんである未乃さんとのつながりは強いんだろうなって予想できる。
未乃さんも、可偉の事を大切に想ってるし。
「大丈夫だよ、私が側にいるから寂しくないし、いつでも私を可偉の好きにしていいって言ってるでしょ?」
両手で可偉の頬を挟んで、啄むだけのキスを何度か繰り返す。
私が自分からこんな事するなんて滅多にないけれど、今は可偉が愛しくて仕方ないから何でもできそうな気がする。
「紫、そんなに俺が好き?」
半分閉じたような甘い瞳で、可偉は私を見つめる。
「大好き。愛してる。それに、可偉が私を生かしてくれてる」
「くっ……ほんと、惚れてるな」
「うん。可偉だけが私の全てだから」
「全てか……」
「そ。可偉が、私と一緒にいて幸せに思ってくれる事が私の幸せ」
「……」
可偉はしばらく私の背中を撫でた後、ゆっくりと私を抱きしめて首筋にちくりと痛みを落とす。
誰にでも見える場所についたに違いない赤い花。
「それなら、俺はかなり幸せだ……。だから、紫も幸せだな」
多分、未乃さんの事を考えてるんだろう。
切ない声に含まれたため息が、私をも切なくさせる。
可偉だって、未乃さんが廉さんと会って、再びやり直してくれればいいと、願っているに違いない。
「未乃さん、廉さんと会って欲しいな」
そんな私の言葉に、可偉は何も言わないまま、ただぎゅっと力を込めて私を抱きしめた。
悲しい瞳を隠すように、可偉はずっと私を抱きしめていた。
しばらくして、吐息も声も落ち着いてきた頃、ようやく私を抱く腕を緩めて笑ってくれた。
その表情には、初めて見る苦しさが現れていて、私が踏み込んではいけない領域だと気づく。
その心をガードして、私に何も聞かないようにと無言で告げる笑顔。
『身内にならないとできない事がある』
美波さんからそう言われた今日の宴会を思い出す。
私と可偉がいくら愛しあっていても、一緒に暮らしていても、超えてはいけない一線があって、私が可偉を想っての事だとしても口出しできない現実があるってじんわりと感じてしまう。
だからといって可偉との付き合いが変わるわけではないけれど、今の私では限界がある。
可偉の人生の一部に迎えられていたとしても、それは一部であって全部じゃない。
悩みも喜びも、分け合って生きていくためには、今の私の立場は弱すぎるんだ。
私と可偉との関係の脆さを感じて、逃げる事ができない寂しさが私の心を埋めていく。




