第50話:疾走する濁流、失われし足場
第3章:密林の覇権戦争と「血の代償」
第一部:猛る戦塵と、破られた写本
カポックの巨木を飛び出して以来、二人はただひたすらに緑の深淵を突き進んでいた。激しく叩きつける雨水が視界を遮り、肺に流れ込む空気さえも湿気で重い。
戦士たちが去った緑の闇とは逆の方向へ、彼らは泥を撥ね上げながら猛然と走り続けた。天蓋を揺らす雷鳴と、イチジクの葉を千切らんばかりに叩く瀑布のような雨が、二人の足音を完全に掻き消していく。
前方を走る老神官の細い背中が、激しい雨のカーテンの向こうで不規則に揺れていた。老神官は自らの衰えゆく肉体に鞭打ち、泥を蹴立てて進んでいたが、その足取りは一歩ごとに確実に精彩を欠き、ぬかるみに深く沈み込み始めている。
カック・モウの剥き出しの足の下で、密林の底は急速にその形を変えつつあった。数分前までは硬い腐葉土と石灰岩の混ざり合った頑強な大地だった場所が、今や生き物のようにうねる泥の海へと流動化している。一歩を踏い出すたびに、足首まで粘り気のある黒泥がまとわりつき、容赦なくその体力を奪っていく。これ以上、老神官に先頭の過酷な足場を選ばせるわけにはいかなかった。
「長老、私が前へ出ます!」
カック・モウは泥を力強く踏み締め、地を這うような低い姿勢のまま、老神官の側方を一気に駆け抜けた。濡れたイチジクの板根を飛び越え、老神官の前にその逞しい身体を滑り込ませるようにして追い抜くと、背後へと鋭く叫んだ。
「私のすぐ後ろを!私の足跡を踏んで進んでください!」
彼の背中には、何世代にもわたって紡がれてきた一族の至宝「アマテの写本」が、何重もの防水の獣皮に包まれて括り付けられている。もし自分がここで倒れ、あるいは老神官を泥の底に沈めれば、文字という名の世界の盾は永遠に失われる。その圧倒的な質量と責任が、彼の双肩を物理的な重さとなって圧迫していた。
前方を走るカック・モウの視界は、激しい熱い雨水によってほとんど遮られていた。まぶたを打つ水滴を手の甲で拭いながら、彼は辛うじて巨木たちの板根の配置を見極め、少しでも地盤の固い場所を選んで足を突き立てる。しかし、天蓋の向こうで神々が怒り狂っているかのようなこの豪雨の前には、人間の経験など些末な抵抗に過ぎなかった。
マヤの精神世界において、このような突然の自然の猛威は、決して単なる気候の変動ではない。それは人間たちの流した血の臭いに狂った神々が、世界の秩序を一度白紙に戻そうとする「大いなる意志」の表出であった。いま二人の周囲で不気味に「ギ、ギ、ギ」と軋み声を上げて揺れる木々は、まるで彼らを捕らえようとする泥の神々の触手のようでもあった。
「くっ……!」
後ろを走っていた老神官の口から、短い苦悶の呻きが漏れた。
カック・モウが驚いて振り向いた瞬間、老神官の細い身体が激しくバランスを崩すのが見えた。斜面が激しい雨水によって急激にえぐり取られ、泥水が激流となって渦巻く段差に足を取られたのだ。老神官の衣服である白い麻布は、瞬く間に泥水に染まり、引き裂かれていく。
「長老!」
カック・モウは叫び、ぬかるむ泥の中に深く足を踏み込みながら前方へ飛び出した。
老神官は、濁流の渦巻く深い窪みへと滑り落ちていた。露出した細い腕や脚からは、斜面の底に隠れていた尖った石灰岩で擦りむいた赤い鮮血が、温い雨水に混じって不気味に流れ出している。その血は、激しい流動の中で一瞬にして薄まり、茶褐色の泥水の中へと溶けて消えた。
「写本は……写本を、泥に触れさせてはならぬ……!」
老神官は、自らの傷の痛みなど忘れたかのように、泥水の中で喘ぎながら叫んだ。その目は、恐怖ではなく、一族の文字が絶えることへの絶対的な畏怖に満ちていた。彼にとって、この泥の底で命を落とすことよりも、背中にある言葉の盾が腐った樹皮の塊へと還ることの方が、遥かに恐ろしい「世界の死」を意味していた。
カック・モウは板根の隙間にしがみつき、身体を沈めながら腕を伸ばした。
「私の手を掴んでください!早く!」
二人の手が泥まみれの空気の中で交錯する。老神官の濡れた指先が、カック・モウの逞しい腕に触れた。しかし、斜面を流れ落ちる泥水の勢いは想像以上に強く、老神官の身体をさらに深い窪みの奥へと引きずり込もうとする。
周囲の熱気が、雨の冷気と混ざり合い、奇妙な霧となって立ち上っていた。息を吸い込むたびに、濡れた土の匂いと腐葉土の発酵した甘腐い臭いが肺の奥を満たし、カック・モウの頭脳を狂わせそうになる。耳の奥では、自らの心臓が肋骨の内側を激しく打ち鳴らすドクドクという血流の音と、天蓋を叩く凄まじい水音の混ざり合い、輪郭を失っていく。
(文字を、この盾を、このような泥の底で絶やしてなるものか)
カック・モウは歯を食いしばり、指の骨が浮き出るほどの力で老神官の腕を掴み戻した。背中の写本の重みが、彼に人間の限界を超えた力を与えていた。泥の神々が引きずり込もうとする力に抗い、彼は渾身の力で老神官の身体を濁流の窪みから引き揚げた。
二人は激しく息を荒らげながら、イチジクの巨木の板根が作り出すわずかな隙間に身体を滑り込ませた。そこだけは天蓋の葉が重なり合い、滝のような雨が直接打ちつけるのを辛うじて防いでいたが、足元へ流れ込む泥水の勢いは止まらなかった。
「無事、ですか……」
カック・モウが絞り出した声は、雨音にかき消されそうなほどかすれていた。
老神官は激しく咳き込み、肺に入った泥水を吐き出しながらも、すぐにカック・モウの背中へ視線を走らせた。
「写本は……濡れてはおらぬな?」
「はい、獣皮の包みは持ちこたえています。中まで水は通っていません」
その言葉を聞いた瞬間、老神官の顔に安堵の影が走ったが、その表情はすぐに引き締まった。彼は泥にまみれた手で自らの胸元を押さえ、密林の奥、彼らが目指すべき古い神殿の方方角を凝視した。
「神々がこれほどの水を注ぐのは、我らの歩みを止めるためだけではない。ティカルの戦士たちもまた、この雨の中で視界を失い、足止めを喰らっているはずだ。だが、乾季の終わりに訪れるこの大雨は、すぐに大地を底から変えてしまう。急がねば、山から流れ出す水が全ての道を遮るだろう」
老神官の言う通りだった。遠くで、先ほどよりもさらに重く、地底の底から響くような鈍い音が轟いた。それは雷鳴ではない。大量の雨水を吸い込んだ山の斜面が、崩落を始めた音だった。大地そのものが均衡を失い、数の秩序を持たぬ混沌へと還ろうとしているのだ。
カック・モウは自らのマカナの混棒を握り直した。雨水に洗われた黒曜石の刃が、薄暗い緑の闇の中で鈍い光を放っている。彼らはまだ、追っ手の脅威からも、自然という名の神々の気まぐれからも逃れられてはいなかった。
「長老、歩けますか」
「歩かねば流されるだけだ。我らの一歩一歩が、写本に刻まれた法を未来へと繋ぐ唯一の道なのだから」
老神官は擦りむいた足の痛みに顔を歪めながらも、巨木の幹を支えに立ち上がった。二人は再び、呼吸を整える間もなく、激しい水音の壁が構築された緑の地獄へと足を踏み出した。




