第49話:鉄色の天蓋、引き裂かれた聖域
第3章:密林の覇権戦争と「血の代償」
第一部:猛る戦塵と、破られた写本
じっとりとした湿気が、肺の奥深くまで火傷のような熱を伴って染み込んでくる。
紀元300年頃、中央マヤの密林は、終わりなき戦火の煤煙と、腐敗した大気の重圧に喘いでいた。巨木から滴る水滴はもはや清冽な恵みではなく、泥にまみれた人間の脂と血を吸い上げ、濁った鉄錆の色を帯びているようにさえ思えた。頭上を覆いつくすカポックの巨木やイチジクの葉は、天からの陽光を完全に遮断し、地上に淀んだ薄緑色の監獄を作り出している。その泥濘の底を、一人の若者が這うようにして進んでいた。
若き写本官、キニチ・カック・モウ。彼の背には、先祖代々受け継がれてきた「アマテの写本」を納めたアガベ繊維の堅牢な筒が、まるで重い十字架のようにのしかかっていた。かつて、初代のクシが泥の底から立ち上げ、第20代のパカルが巨大ピラミッドの質量とともに算術の軛をもって守り抜いた一族の「盾」――それが今、彼の手の中にあった。しかし、その盾はかつてないほどの危機に瀕している。背後から迫る、巨大都市ティカルの略奪兵たちの足音が、湿った地表を不気味に揺らしていたからだ。
「――急げ、カック・モウ。奴らの鼻は、このコパルの香煙よりも鋭く血の匂いを嗅ぎつける」
前方を歩む老神官のしわがれた声が、吸血虫の羽音に混じって途切れ途切れに届く。老神官の足元はすでに泥に深く沈み込み、踏み出すたびに「ぐちゅり、ぐちゅり」と、大地の内臓が引き裂かれるような卑俗な音が響いていた。集落の聖域であった神殿は、わずか数日前にティカルの放った戦火によって崩壊した。精緻に積まれた石灰岩の基壇は、降り注いだ熱と黒煙によって黒く変色し、神々の宿るはずの浮彫は、敵の戦斧によって無残に削り取られた。何世代にもわたり紡がれてきた世界の調和は、人間の飽くなき覇権の欲求によって、あっけなく蹂躙されたのだ。
カック・モウは息を切らしながら、自らの右手に視線を落とした。漆黒の黒曜石のナイフを握り締め続けた指先は、過度の緊張のあまり白く硬直し、感覚を失いつつあった。指の隙間には、逃げ延びる途中で付着した泥と、自らのものではない誰かの乾いた血が、黒い塊となって爪の間にこびりついている。
彼らが今目指しているのは、密林のさらに奥深く、うっそうとした緑の胃袋の中に隠された臨時の洞窟――「神々の隠れ家」と呼ばれる、石灰岩の陥没穴のさらに奥にある岩棚であった。そこへ写本を隠さねば、数千年の歴史そのものが、敵の王の足元で踏みつぶされ、あるいは彼らの勝利を称えるための戦利品として燃やし尽くされてしまう。
「ハァ、ハァ……、長老、敵の気配が……星の巡りが、歪んでいるように感じられます」
カック・モウの声は、恐怖と疲労でかすれていた。彼の精神世界において、自然の猛威や戦争の災厄は、すべて神々の性質そのものであった。かつては、規則正しく天空を運行する金星のまたたきや、大地の呼吸に合わせて文字を刻めば、世界の均衡を保つことができた。しかし今、密林の四方から湧き上がる戦意は、神々の理性を狂わせ、自然そのものを「血に飢えた獣」へと変貌させているように見えた。耳の奥で、ジャガーの咆哮にも似た地鳴りが低く鳴り響いている。それは敵の足音なのか、それとも踏みにじられた大地の怒りなのか、もはや判別がつかなかった。
「ズザザザ……」と、頭上の枝葉が大きく揺れ、極彩色の羽を持つケツァールが、短い悲鳴のような鳴き声を残して飛び去っていった。
「来たぞ」
老神官が足を止め、背中を丸めて巨木の根元に身を潜めた。カック・モウもまた、その隣に滑り込むようにして平伏する。泥の冷たさと、腐った葉の強烈な酸臭が鼻腔を突き刺した。数秒の後、緑のカーテンの向こう側から、奇妙な金属音と、人間の荒い息遣いが近づいてきた。
現れたのは、ティカルの戦士たちだった。彼らの肉体は、黒と赤の戦化粧で禍々しく彩られ、胸元には生々しい人間の顎骨を編み込んだ首飾りが揺れていた。手に握られているのは、鋭利な黒曜石の刃をいくつも埋め込んだ木製の混棒。その刃の先端からは、いまだ凝固しきっていない鮮血が、ポタポタとシダの葉の上に滴り落ちている。彼らは言葉を交わさず、ただ獲物を探す猛禽類のような目で、周囲の密林を凝視していた。
カック・モウは背中の筒をそっと抱きかかえ、自らの心臓の鼓動を押し殺そうと、泥に額を強く押し付けた。
(見つかるな、見つかるな……)
彼の脳裏に、かつて父から教わった写本の言葉が明滅する。――「文字は、人間がただ圧殺されるのを防ぐための契約の盾なり」。だが、その盾は、目の前を通り過ぎようとしている戦士たちの圧倒的な暴力の前で、あまりにも脆く、儚い存在に思えた。もしここで自分が殺されれば、この樹皮紙に記された神々との盟約は、誰にも読まれることなく密林の養分へと還ってしまう。それは、一族の、そしてマヤの世界そのものの「完全なる死」を意味していた。
戦士の一人が、カック・モウたちが隠れているカポックの巨木の前で足を止めた。戦士の足元にある泥が、じわりと沈み込み、カック・モウの指先にその振動が伝わってくる。職人が丹念に織り上げた戦士の腰布から、男たちの汗と、恐怖を煽るためのコパルの安物の香煙の匂いが漂ってきた。戦士は、不審な足跡がないか、鋭い視線を地面に走らせている。
その時、カック・モウのすぐ脇の泥の中から、一匹の巨大な毒百足が這い出してきた。赤黒い体節を不気味にくねらせながら、それはカック・モウの剥き出しの首筋へと向かって、確実に進んでくる。百足の無数の足が皮膚に触れる微小な感触が、彼の全身の神経を逆なでした。
声を上げれば、即座に黒曜石の刃が首を刎ねるだろう。しかし、動かずにいれば、毒牙が肉を抉り、激痛のあまり身悶えすることになる。
カック・モウは、奥歯が軋むほど強く噛み締めた。口の中に、鉄の味が広がる。彼は精神を研ぎ澄まし、自らの肉体を、周囲の泥や石灰岩と同じ「物」へと変えようと試みた。パカルが算術によって計量したあの石の山のように、感情を持たぬ物質に。
戦士はしばらく周囲を警戒していたが、やがて別の方向から聞こえた鳥の羽音に気を取られたのか、舌打ちを一つ残して、再び緑の闇の中へと消え去っていった。
「……去ったか」
老神官が小さく息を吐き出した。カック・モウは、首筋まで達していた百足を、震える手でむしり取り、泥の中へと投げ捨てた。皮膚には、赤い引っ掻き傷のような痕が残り、じわじわと熱い痛みが広がり始めていたが、それに構っている余裕はなかった。
「長老、このままでは、神殿の奥に隠した『残りの写本』が……」
「もはや、あそこへ戻ることは叶わぬ。お前が背負っているものこそが、我が一族の最後の灯火だ」
老神官の言葉は、冷酷な現実を告げていた。ティカルの目的は、単なる領土の拡大ではない。彼らは、敵対する都市の「歴史」と「神々」を根絶やしにし、自らの王の権威を絶対的なものにするために、文字を守る神官たちを組織的に狩り集めているのだ。
カック・モウは、立ち上がろうとして、足の筋肉が激しく痙攣していることに気づいた。過酷な密林を何日も走り続け、水も満足に飲んでいない肉体は、すでに限界を迎えていた。しかし、背中の筒の重みだけが、彼の肉体に無理矢理の生を繋ぎ止めていた。
二人は再び歩き始めた。密林の底は、夕暮れ時でもないのに、急速に暗闇を深めていく。鉄色の雲がいよいよ低く垂れ込め、大気中の水分が飽和状態に達していた。
突然、それまでとは異なる、不気味な「ざわめき」が密林を駆け抜けた。それは風の音ではなく、何百、何千という人間の呪詛と、重い足音が地表を伝って響いてくる地鳴りだった。
「まさか……ウアシャクトゥンの軍勢も、動いたのか」
老神官が目を見開いた。ティカルの宿敵であるウアシャクトゥン。この二大都市の覇権戦争の渦中に、彼らのような小規模な写本官の一族は、巨大な碾き臼に挟まれたトウモロコシの粒のように、跡形もなく押し潰されようとしていた。
前方から、急激な熱風が吹き付けてくる。それは、近くの別の集落が焼き払われたことを示す、死の息吹だった。火の粉が、湿った大気の中でかすかに赤くまたたき、カック・モウの視界を不気味に彩る。神々との契約の地は、いまや完全に人間たちの血の乾きによって引き裂かれ、聖域としての機能を失いつつあった。
「カック・モウ、走れ!何があっても、その写本を泥に落とすな!」
老神官が叫び、枯れ木のような身体で猛烈に走り出した。カック・モウもまた、痛む足を泥から引き抜き、必死にその背を追った。背後からは、ふたたびあの戦士たちの、狂乱に満ちた勝鬨の声が、迫り来る雨雲の雷鳴のように響き渡り始めていた。




