第28話:漆黒の夜と、熱病の羽音
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第一部:巨石の影と、歪む目盛り
泥の小屋に夜が訪れても、熱帯の湿気は一向に衰える気配を見せなかった。むしろ、太陽が地平線の彼方へと沈んだことで、昼間は木々の隙間に潜んでいた湿った熱気が、一斉に地表へと這い出してきたかのようだった。
茅葺きの屋根からは、昼の間に吸い込まれた熱がじわりと放射され、狭い室内をサウナのような熱気で満たしている。カポックの巨木の根元からは、腐った葉や死んだ虫が放つ、特有の酸っぱい発酵臭が立ち上っていた。夜の闇とともに活動を始めた無数の蚊や地這う羽虫たちが、炉の微かな残り火の周りを不気味な羽音を立てて旋回している。
「パカル様、もう神殿へお戻りくだされ。ここには、これ以上あんたのする仕事はねえよ」
老呪医のナポトが、土間に座り込んだまま、煙草の乾いた葉を口に放り込んで言った。彼の顔は、炉の灰と自身の汗で酷く汚れており、疲れ切った目が闇の中で鈍く光っていた。
クニッチ・パカルは、ナポトの言葉にすぐには答えなかった。彼はバナナの葉の上に横たわるレクの傍らから、動くことができずにいた。昼間にしっかりと握りしめていたレクの右手は、いまや恐ろしいほどの熱を帯び、まるで燃える石灰岩の塊のようになっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
レクの荒い呼吸が、狭い部屋の中に響いていた。傷口の出血こそナポトの軟膏と蔦の糸で止まったものの、夕刻を過ぎたあたりから、レクの身体は激しい悪寒と高熱に支配され始めていた。密林の湿った泥と、石灰の塵が混ざり合った傷口から、眼に見えない「大地の毒」がその肉体へと侵入したのだ。
レクの額には、大粒の汗が絶え間なく湧き出し、それが頬を伝って土間の泥へと滴り落ちている。時折、彼の身体がビクンと大きく痙攣し、うわ言のように「縄が、縄が千切れる……」と、昼間の恐怖を繰り返していた。そのたびに、隣で見守るレクの若い妻が、赤ん坊を抱いたまま、音を立てずに涙を流して夫の身体を濡れた布で拭っていた。
クニッチはその様子を、ただじっと見つめるしかなかった。
彼の手元には、昼間に衣服を汚したレクの血が、乾いて茶褐色の染みとなって残っている。神殿の最上階にいれば、このような人間の生々しい崩壊を見ることはない。そこでは、すべての生と死は「二十」を基数とする美しい目盛りの中に収まり、星の巡りと同様に予測可能なものとして処理される。老神官マホクヌームが語る世界には、熱病の不快な羽音も、引き裂かれた家族のすすり泣きも存在しなかった。
「ナポト、この熱を下げる薬草は、写本には書かれていなかったか」
クニッチは、暗闇の中で自らの声を絞り出した。
「書かれておるさ。初代のクシ様が、水辺の苔と野生の生姜を混ぜたものを額に当てろと残している。だがな、パカル様……」
ナポトは煙草を吐き捨て、地面に唾を吐いた。
「薬が効くかどうかは、その人間の肉体が持つ『命の力』次第だ。神殿の山が大きくなってからというもの、職人たちに配られるトウモロコシの粥は薄くなる一方だ。みんな、腹の底が飢えている。肉体が弱っていれば、大地の毒には勝てんのだよ」
その言葉は、クニッチの胸に重く突き刺さった。
都市が膨張し、巨大なピラミッドを築くために、何千人もの労働力が農業から引き剥がされている。その結果、民衆の胃袋を満たすべきトウモロコシの貯蔵は底をつきかけ、配給は厳しく制限されていた。神殿を高くするために、民の肉体そのものが削り取られている――それが、この二十代目の時代に起きている、眼を背けたくなるような現実の循環だった。
クニッチは立ち上がり、棚からアマテの写本を取り出した。
薄暗い月光が窓から差し込み、漆喰の白い頁を微かに照らす。そこには、数世代にわたる写本官たちが、飢饉の周期や、疫病の発生を「数」によって予兆として捉えようとした苦闘の跡が刻まれている。しかし、どれだけ精緻に星を数えても、いま目の前で熱に浮かされているレクの苦しみを、一刻でも和らげることはできない。
「……私は、この文字で何を守っているのだ」
クニッチの呟きは、羽虫の羽音にかき消された。
そのとき、レクが突然、カッと目を見開いた。その瞳は完全に濁っており、クニッチの姿を捉えてはいなかった。彼は虚空に向かって手を伸ばし、何かを掴もうとするように指を激しく震わせた。
「お頭、まだ……まだ石が、坂を、上りきって……」
レクの口から、ヒビ割れた唇の間から、血混じりの唾液が溢れる。
「レク!もういい、石のことは忘れろ!」
妻が赤ん坊を床に置き、夫の胸に縋り付いた。赤ん坊が夜の静寂を破って、火がついたように泣き始める。その高い泣き声が、狭い小屋の中に充満し、クニッチの鼓膜を容赦なく揺さぶった。
クニッチは思わず、写本を強く抱きしめた。
このアマテの樹皮にどれほど美しい神々の神話を書き連ねようとも、この赤ん坊の飢えや、父親を失うかもしれない恐怖を消し去ることはできない。文字は「盾」であると自分はナポトに言った。だが、その盾はあまりにも高く、あまりにも遠い場所にあり、泥の底で足掻く人々には届いていないのではないか。
ナポトが冷たい水を汲んできて、レクの頭から容赦なく浴びせた。
「パカル様、神殿へ戻って、マホクヌームの老いぼれに伝えてくれ。これ以上、人々の腹をすきっ腹のまま石引きに駆り立てれば、山が完成する前に、この都市の土台が腐っちまうとな」
クニッチはナポトの言葉を胸に刻み、ゆっくりと小屋の出口へと歩いた。
外に出ると、密林の夜風が、汗まみれの身体を不気味に冷やした。見上げれば、漆黒の天蓋に、初代クシが呪われたように見つめ続けた金星が、冷徹な光を放って静かに佇んでいる。
神殿の頂へと続く長い石段を見上げながら、クニッチは、自らの足元に広がる広大な民衆の住居群から、無数の静かな息遣いと、それに混ざるかすかな病の咳込みを聞いた。巨大な石の山は、確かに天へと近づいている。しかしそれは、人間が人間としての生を泥の中に置き去りにしていく、果てしない喪失の道のりでもあるように思えてならなかった。クニッチは、重い足取りで、白い塵の消えぬ石段を、一歩ずつ上り始めた。




