第1話 コルシカの少年
時は流れて1778年。
コルシカ島、アジャクシオ。
地中海の冬は穏やかだった。
海は青く、風は冷たく、空は高い。だが、この島の人々の心は穏やかではなかったように思う。
ほんの十年ほど前まで、コルシカは独立のために戦っていた。
ジェノヴァ共和国から事実上切り離され、パスカル・パオリという男のもとで一時は国家の形すら整えた。だが、その夢は長く続かなかった。ジェノヴァは島をフランスへ譲り渡し、フランス軍が上陸し、戦争は終わった。
勝者はフランス。
敗者はコルシカ。
そして敗者たちは、静かに生き方を変えていった。
ブオナパルテ家もその一つだった。
「ナポレオーネ!」
家の外から声が飛ぶ。
石造りの家の二階の窓辺に座っていた少年は、本から顔を上げた。
黒い髪。
濃い目。
年齢の割に、少し険しい顔。
ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ。九歳。
もっとも、この頃はまだ、自分が後に「ナポレオン」と呼ばれるなど知る由もない。
彼は膝の上に置いた本を閉じた。
イタリア語で書かれた、古代ローマ史についての本だった。
難しい内容だったが、意味が完全に分からなくても読むこと自体が好きだった。
小さな窓を開け、路地を見下ろす。
弟妹たちが庭を走り回っていた。
兄ジョゼフがこちらを見上げている。
「海へ行こう」
「行かない」
「また本か」
「兄さんは遊んでいればいい」
ジョゼフは肩をすくめた。
「じゃあ母上に言うよ」
その一言で、ナポレオーネは立ち上がった。
レティツィア・ブオナパルテ。
母は怒鳴ることは少なかった。
だが、怒鳴らないから怖くないということではなかった。
むしろ逆だった。
静かな人だった。
静かな人間ほど、決めたことを曲げない。どうにも、この人には頭が上がらなかった。
そそくさと階段を駆け下り、無造作に扉を開けて表へ出た。
「あれ?兄さんは?」
ふと立ち止まって周りを見渡すが、ジョセフの姿は見当たらない。
「わ!」
「ぎゃあ!」
してやられた。
振り向くと、ジョセフが立っている。
「やっぱりお前はどこか抜けているなあ」
ジョセフはそう言ってけらけらと笑う。それを見て、ナポレオーネはむっとした。
何も言わず、ナポレオーネは港めがけて走り出す。
「あっ、ちょっと待てよぉ!」
ジョセフは呆れたような表情を浮かべながら、ナポレオーネの後を追った。
アジャクシオの港。
決して大きい港ではない。しかし、島の子供たちは港と言えばここしか知らないのだから、その先に広がる新世界の入り口のように見えた。
いや、そんな希望にあふれたものではない。
むしろ、一度出れば帰ってこられないような、何とも言えない悍ましさがあった。
そこでは、小さな船が並び、人々が荷を運び、話し込み、時に怒鳴り合っていた。
子どもたちは走る。
男たちは政治を語る。
ここでは、政治は遠い都の話ではなかった。
島が誰のものかという問題は、生活そのものだった。
ジョゼフが桟橋に腰を下ろす。
「父上、また本土へ行くらしい」
ナポレオーネは返事をしなかった。
知っていたことだからだ。
最近、父カルロはよくフランス役人と話している。
昔は違った。
昔の父はパオリ将軍の側だった。
独立のために戦った。
だが戦争は終わった。
父は生き残った。
そして、生き残るために立場を変えた。
だから、ブオナパルテ家は貴族の一端として、裕福とは言えないが、生き残っている。
「お前も行くんだろ」
ジョゼフが言った。
「どこに」
「フランスに」
ナポレオーネは眉をひそめた。
「俺は行かない」
「行くらしいよ」
「嫌だ」
少し沈黙。
波の音が聞こえる。
「なんでだ」
ジョゼフは困ったように笑った。
「本土に行けばお前の好きなものがいっぱい勉強できる」
「ここでもできる」
「もっと偉くなれる」
ナポレオーネは海を見る。
向こう側。
水平線の向こうにある大陸。フランス。
嫌だった。
理由は説明できない。だが、嫌だった。
自分はコルシカ人だった。
フランス人ではない。
あの戦争は終わったのかもしれない。
だが、負けた側の記憶は、勝った側が思うより長く残る。
「そうだな。じゃあ、お前は何になりたいんだ?」
聞き方を変えてきた。
ナポレオーネは長男ではない。ゆえに考え得るものは多かった。
「……分からない」
それが、正直な思いだった。
「なら、それを見つけに行くのさ。悪くないだろ?」
兄はしつこく尋ねる。
少々苛立ち、つい言ってしまった。
「なら、兄さん一人で行けばいい」
ナポレオーネは立ち上がり、大股で家の方へ帰っていった。
残されたジョセフは、呆れたように肩をすくめる。
「強情なやつ」
そうひとり呟くと、ゆっくりと立ち上がり、弟を追って駆けていった。
__________
数日後。
父カルロが、珍しくナポレオーネを連れて郊外へ出た。
山道だった。
冬の草は枯色で背も低い。おまけに風も強かった。
ナポレオーネはいつも通り黙ってうつむきながら歩いていた。
父は、途中まで何も話さなかった。
やがて、開けた斜面に出る。
何もない。
石が転がり、色の薄い草が生える。そして、少し崩れた壁がある。
それだけの、どこにでもある風景。
「ここで戦った」
カルロが言った。
「誰と?」
「フランス軍と」
少年は黙る。
父はその様子を見て、少し笑った。
「驚いたか?」
「父上が?」
ナポレオーネは問う。
「昔の話だ」
短く切り、カルロは遠くを見つめた。
「みんな本気だった」
少し間が開く。
「あと少しで勝てそうだった……でも負けた」
刺すような木枯らしが吹き下ろす。
ナポレオーネが尋ねた。
「悔しくないの?」
カルロは考えた。
「悔しいな」
「じゃあどうして今は……」
言いかけて止まる。
「ごめんなさい」
「謝ることはない」
父は分かっていた。
「生き残るためだ。そのためにフランス側と手を結んだ」
「……」
「死ねば終わりだ。だが、生きていればチャンスは来る」
ナポレオーネは答えなかった。
理解できない。
負けたならもう一度挑めばいい。
奪われたなら奪い返せばいい。
少年はそう思っていた。
その時、父が振りかえり、少年の頭にそっと手を置く。
「ナポレオーネ、お前は賢い子だ」
「……」
「だから、本土へ行きなさい」
「行きたくない」
少年はこれまでのように反発する。
「だから行くんだ」
沈黙。
「島だけ見ていると、島しか見えなくなる。これがどれだけ危険なことか、お前なら分かるはずだ」
「分からない」
強情に言い返す。
「なら、分かるようになりなさい」
それ以上、父は何も言わなかった。ゆっくりと、懐かしむように、その坂を下りていった。
少年は慌てて、父についていく。
坂の下には、市場が見えた。
アジャクシオの商人街。島で一番賑やかな場所だ。
賑やかというより、騒がしいと言った方が適切かもしれない。
ある店の前で、客と店主の口論が聞こえる。
大方、値切りの交渉をしているのだろう。
さらに向こうでは、別の男たちが言い争っている。
その内容は、少年にはよく分からなかった。
近寄って聞こうと思い、少年は歩きながら徐々に近づき、聞き耳を立てた。
「本土の徴税官が……」
「今更逆らったところで……」
「俺たちはフランス人じゃない……」
少年は、思わず足が止まっていた。
その時父が少年の手を掴んだ。
「あ……」
父は手を握ったままずんずんと進み、市場を抜け、すぐに家にたどり着いた。
そして、ぼそっと呟いた。……ような気がした。
「もう、終わった話だ。」
父は書斎に戻り、蠟燭を灯して机に向かっていた。
何枚かの書類が置かれている。
最近の父はこういう時間が増えた。
前はもっと外にいた気がする。
ナポレオーネは机を覗いた。
「何を書いてるの?」
カルロは少し驚いた顔をした。
それから書類を伏せた。
「仕事だ」
「コルシカの?」
父は答えなかった。
少しして、少年の頭を撫でながら父は言った。
「お前は何になりたい?」
突然の質問だった。
「同じ事を兄さんにも聞かれた」
「なら、その時と同じように言えばいい」
少しむっとしたが、ナポレオーネは考えた。
兵士。
船乗り。
山の猟師。
思いつくものはいくらでもあった。
だが結局、こう答えた。
「強い人」
父は一瞬だけ目を細めた。
笑ったようにも見えた。
悲しそうにも見えた。
「そうか」
ただそれだけ。
「なら、そうなりなさい」
穏やかに言うと、父は机の方に向き直った。
__________
出発の日、空は曇っていた。
風は弱かったが、海は少しだけ高かった。
港には朝早くから人が集まっていた。
魚を積む者、荷を運ぶ者、島を離れる者。
誰も特別な顔はしていない。
この島では、人は昔から船で去り、そして時々帰ってきた。
ナポレオーネは小さな荷物を抱えて岸壁に立っていた。
服はいつもより良いものを着せられている。
だが胸は重かった。
母レティツィアは下の弟妹たちを連れていた。
妹が泣いている。
弟はまだ事情が分からない。
母は泣かなかった。
代わりに服の乱れを直し、何度も同じことを言った。
「身体に気をつけなさい」
「よく学びなさい」
「父上の言うことを聞きなさい」
ジョゼフは黙って頷いていた。
ナポレオーネは何も答えなかった。
出発前、カルロは妻と少し離れた場所で話していた。
声は聞こえない。
ただ、父が珍しく視線を落としていた。
ナポレオーネは近づこうとして、やめた。
大人には子供に見せない話がある。
最近、それが少し分かるようになってきた。
やがてカルロが戻ってきた。
「行くぞ」
一言。
桟橋を歩く。
後ろから母の声がした。
「ジョゼフ!」
兄が振り返る。
「ナポレオーネ!」
振り返った。
母は笑っていた。
ちゃんと笑っていた。
それがかえって苦しかった。
船に乗る。
甲板は、あの小山のような匂いがした。
船員たちは慣れた手つきで綱をほどいていく。
鐘が鳴った。
船が動いた。
岸が少しずつ遠ざかる。
弟妹たちが小さくなる。
母も小さくなる。
最後まで立っている。
ナポレオーネは手を振らなかった。
振ったら何かが終わる気がした。
船は静かに港を離れた。
アジャクシオの街並み。
白い家。
坂道。
教会。
山。
全部そのままだった。
変わったのは自分だけだった。
ジョゼフが隣に来た。
「寂しい?」
ナポレオーネは少し考えた。
「……分からない」
兄は笑った。
「僕もだ」
しばらく二人で海を見ていた。
コルシカ島は思ったより早く小さくなった。
家が消える。
港が消える。
山だけ残る。
島は遠くから見ると驚くほど険しかった。
あんな小さな場所に、自分たちの世界は全部入っていた。
ナポレオーネは急に不思議になった。
もし島がこんなに小さいなら。
世界はどれくらい大きいのだろう。
カルロが後ろから来た。
「見えるか」
父は前方を見ていた。
何もない。
海だけだった。
だが父は言った。
「もう少しすれば見える」
何が、と聞こうとした時だった。
水平線の上に、うっすら灰色の線が浮かんだ。
雲ではない。
陸だった。
コルシカより平らで。
長くて。
終わりが見えない。
ナポレオーネは目を細めた。
知らない土地だった。
誰かも知らない人々がいて。
知らない言葉があり。
知らない未来がある。
父は静かに言った。
「フランスだ」
ナポレオーネは答えなかった。
ただ見ていた。
島はもう見えなくなっていた。
反対側にはうっすらと大陸が。
そしてその少年はまだ知らない。
いつか自分の名前が、その大陸の地図より広く知られることになるなど。
まだ、知らなかった。




