第0話 始まり
1769年、8月。
その年の夏、コルシカ島の空は澄み切るほどに青かった。
青というより、何か別の色だったのかもしれない。遥か昔の記憶というものは、時に事実より色濃く塗り潰されるものだ。もしくは、記憶そのものが、後になって創作されたものなのかもしれない。
後に地図の上へ無数の国境線を書き換えることになる一人の少年は、その日、まさに産声を上げようとしていた。
2か月前、島は戦争に敗れた。
ジェノヴァ共和国から実効支配権を受け継いだフランス軍が島に上陸し、民族指導者パスカル・パオリは抵抗を続けていたが、決定的な敗北を喫した。
コルシカ人たちは山へ逃げ、海を睨み、やがて沈黙した。
敗北した民族に残る虚しさは、不思議と騒がしい。
しかしそれも、今思えばちっぽけなものだった。
アジャクシオの町。
港から少し離れた、下流貴族ブオナパルテ家の屋敷では、一人の女性が悶えるような痛みに耐えていた。
レティツィア・ラモリーノ。
二十歳に満たぬ若い母であり、すでに三人目の子を身ごもっていた。
彼女は数か月前まで、夫カルロとともに山中を転々としていた。
夫はパオリ派だった。
コルシカ独立の夢を見た男だった。
だが夢というものは、しばしば現実の前で礼儀正しく帽子を脱ぐ。
敗北した。逃げた。生き延びた。
それだけだった。
窓の外から港の鐘が鳴った。
遠く、海が光る。
レティツィアは強く歯を食いしばった。
誰かが言った。
「もう少しです」
彼女は答えなかった。
代わりに思った。
——この子は、どんな時代を生きるのだろう。
生まれてくる子供に母が願うことは単純だ。
丈夫であること。飢えないこと。家族より先に死なないこと。
王になることでも、英雄になることでもない。
子供は産声を上げた。
男の子だった。
誰かが名前を尋ねた。
父、カルロは少し考えて答えた。
「ナポレオーネ」
その名は一族の古い名だった。
誰も特別な意味を感じなかった。
歴史はいつも、後から意味を与えるからだ。
赤子は泣いていたが、それにしては静かだった。
妙に目を開いていた。
窓の外を見ているようにも見えた。
もちろん、そんなことはない。
生まれたばかりの子供に未来など見えるはずがない。
それでも人は、後から物語を作る。
あの時あの目をしていた、と。
あの時もう運命は始まっていた、と。
だが本当のところ——。
運命は始まってなどいない。
人間は後になって、自分の人生を一本の線だったと思い込みたがるだけだ。
あの日生まれた赤子も、その時点ではただの島の少年だった。
海の向こうへ行くことになるとも。フランス人になるとも。そして__皇帝になるとも。
最後には小さな島で、自分の人生を語ることになるとも。
まだ、知らなかった。




