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第一話:史上最大の損切り


「通してくれ! 自首だ、自首させてくれッ!」


北町奉行所の門前。脂ぎった四段腹を揺らし、必死の形相で叫ぶ男がいた。江戸屈指の悪徳商人、越後屋宗兵衛である。後ろには、千両箱を山積みにした大八車と、魂の抜けた番頭・利助が立ち尽くしていた。


その様子を奉行所の屋根瓦の隙間から見つめる影があった。密偵のお凛だ。彼女の涼やかな目元が、困惑に細められる。


「越後屋、貴様……正気か?」


差し出された目録を、与力が二度見した。金五万両。蔵三棟。さらには役人への贈賄を記した「裏帳簿」。


「そうだ! 一文も残さず差し出す! だから、命だけは助けてくれ!」


石畳に額を擦りつける宗兵衛。その内面は、現代の経営学講師であった。三十歳を目前に「魔法使い」になるはずが、なぜか「物語の序盤で殺されるデブ」に転生してしまったのだ。


(今は一八五三年。もうすぐ黒船が来る……。こんな『悪徳』という名の不良債権を抱えたまま、激動の幕末を生き抜けるわけがない!)


奉行・遠山左衛門尉が白洲に現れる。彼は宗兵衛の必死な目を見ると、溜息とともに小さな巾着袋を投げた。


「……見事な散り際だ。情けだ、これを持って行け。明日からはカタギとして生き直せ」


中身は、わずか「十両」。宗兵衛はそれを魔法の杖でも掴むかのように、両手で抱きしめた。


門を放り出された瞬間、現実は牙を剥く。豪華な邸宅は即座に没収。神田の場末にある九尺二間の「腐れ長屋」が新居となった。


「おい見ろよ、越後屋のドブネズミだぜ!」

「死ね! この強欲デブ!」


飛んでくる生ゴミ。洗濯水の飛沫。かつての権力は霧散した。馴染みの料亭に入ろうとすれば、入り口で塩を撒かれる始末だ。


「おめえに出す飯は江戸中どこにもねえよ! 消えなッ!」


びしょ濡れのまま辿り着いたのは、町外れの寂れた立ち食い蕎麦屋だった。屋根裏では、影のように追ってきたお凛が、抜き身の短刀を握り直して息を潜める。


「……蕎麦、一杯」


宗兵衛が震える手でなけなしの十六文を出す。出されたのは、ボソボソの麺に、薄いつゆ。一口啜り、宗兵衛は表情を失った。


「……まずいな。君、これを商品と呼ぶのか?」


店主の源蔵が鼻で笑う。

「いい材料は全部、お前らみたいな『悪徳商人』が独占してんだ。俺らにはゴミしか回ってこねえよ」


宗兵衛は箸を止めた。視線は、調理場に置かれた「包丁」と「こね鉢」へ注がれる。店はボロいが、道具だけは鏡のように磨き抜かれていた。屋根裏のお凛は、宗兵衛の瞳に宿った異様な熱量に、思わず身を乗り出した。


「……コア・コンピタンス、か。源蔵、これは投資だ」


宗兵衛は黄金色の「一両」をカウンターに叩きつけた。


「私が最高の材料を調達してやる。だから君は……この道具に恥じない『江戸で一番の蕎麦』を打て。私を、この絶望から救ってみせろ!」


源蔵の目が、驚愕に大きく開かれる。屋根裏のお凛は、その一両が放つ光に眉をひそめ、懐の筆を取り出した。


『対象、一両を投じ不審な投資を開始。極めて危険な動向なり』


夕暮れの江戸。一両の金貨が、死にかけていた職人の魂に火を灯した。

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