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プロローグ:魔法使いになれなかった男の「損切り」

悪徳商人に転生した男の生存戦略はいかに!!

 あと三時間だった。  

 三十歳の誕生日まで残り百八十分。

 そこまで清廉潔白、もとい「童貞」を貫き通せば、私は人智を超えた存在――魔法使いになれるはずだったのだ。大学の研究室で経済史の資料を枕に、私は勝利を確信しながら意識を失った……はずだった。

「……ん、げぇ。なんだ、この不快な重力設定は」

 目が覚めた瞬間、全身を襲ったのは清々しい朝ではなく、物理的な「肉の壁」の圧迫感だった。首周りにはマフラーのような脂肪、腹部には何段重ねかもわからない肉の地層。

 鼻を突くのは、安っぽいお香と、加齢臭を高級な香料で無理やり塗りつぶしたような、頭が痛くなる悪臭だ。

「……嘘だろ。私の、私の魔力はどうした」

 這いずるようにして部屋の隅にある姿見を覗き込み、私は魂の底から絶叫した。

 鏡の中にいたのは、ネズミのような小賢しい目、テカテカと光る二重顎、そして寝間着の隙間から溢れ出した脂ぎった四段腹を晒した、欲望の擬人化のような中年男。

 同時に、ドロリとした汚泥のような記憶が脳内に流れ込んでくる。

 私の名は、越後屋宗兵衛。

 役人に賄賂を贈り、競合を潰し、米を買い占めて庶民を泣かせる、勧善懲悪ものの物語なら序盤三ページで義賊に首を撥ねられるタイプの「噛ませ犬」だった。

「よりによって、こんな……ッ! 三十年間のストイックな投資(禁欲)が、この脂肪一つで一気に債務超過チャラかよ!」

 絶望している暇はなかった。経営学講師としての本能が、私の脳内でアラートを鳴らし始める

。  現在は一八五三年。ペリーが黒船でやってくる、幕末の幕開け。  そしてこの越後屋宗兵衛は、昨晩、あろうことか悪代官と「政敵を陥れる裏工作」を完了させたばかりだ。

「……詰んでる。完全に詰んでるぞ。これ、一ヶ月以内に『打ち首』か『口封じの毒殺』の二択じゃないか!」

 死ぬ。確実に死ぬ。

 魔法は使えない。使えるのは、前世で培った「経営理論」だけ。

 ならば、打つべき手は一つだ。

「利助ッ! 利助はおらんか!!」

 震える声で呼びつけると、これまた胡散臭い顔をした番頭が飛んできた。

「へい、旦那! いかがなさいました。また素敵な悪だくみでも?」

「蔵の鍵を全部持ってこい! 今すぐだ!」

「へ? 鍵を……? まさか、新しい賄賂の準備で?」

 私は、脂汗を撒き散らしながら、利助の胸ぐらを掴んで叫んだ。

「いいか、これは経営判断だ! 全財産と、あの忌々しい『裏帳簿』をまとめろ。これから奉行所に自首――いや、『全額寄付(損切り)』しに行く!」 「だ、旦那ぁ!? 正気ですか!?」

「正気だ! 私は……私は、魔法使いにはなれなかったが、死ぬのだけは御免なんだよッ!!」

 私は重い肉体を揺らし、経営学の教科書ならぬ「過去の全汚職データ」を抱えて、江戸の町へと走り出した。

 江戸の社会システム(OS)そのものを書き換え、生き残るための「史上最大の自首」が、今始まった。


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