【あなたのせい】
もうすぐお昼休憩の時間だな。パソコンの作業はいったんきりのいいところで保存。あとはチャイムが鳴るまで軽くメールのチェックでも……と、思ったところで、バタバタと。隣の席の鷲見さんが段ボール箱を抱えて戻ってきた。
デスクにどさりと置いた箱の中には、紙の資料が詰まったファイルが並んでいる。
「田中さん、すみません、手伝って……!」
「え? いいけど」
メールチェックは午後でもいい。何を手伝えば、と私が問う前に、彼は荷物伝票と一枚の名刺を差し出した。
「宛名、記入してもらえたら」
「オッケー」
引き受けた私の横で、彼が段ボール箱に封をする。ビビビビビと、OPPテープが引っ張られる嫌な音があたりに遠慮なく響いたが、鷲見さんはそれどころではない様子。
「これ、相手先に送る資料で。総務に聞いたら、今日、集荷の時間がいつもより早いらしくて。午後からでもいいつもりが、午前中に荷物作っといてって言われちゃって……大急ぎでやんなくちゃ」
鷲見さんはぷりぷり怒りながらまた、OPPテープを引っ張った。
「あー、間に合わないと、週明けになるやつだ」
「そう、それじゃ困るから」
私は彼の話をふんふんと聞きながらペンを持ち、名刺の住所と会社名を伝票に記入した。差出人の欄にはあらかじめうちの住所と社名が印字されている。あと必要なのは担当者名。
「差出人、鷲見さんでいい?」
「はい。俺の名前で」
確認していざ、と、名前の欄にペンを置いて、一瞬息をのむ。
自分の名前はこれまでの人生一緒に過ごしてきたものだから、書き慣れている。まあ、田中世子という画数少な目な名前なこともあり、たぶん目をつぶってても書ける。
けど、他の人の名前はそうではないから、ちょっとドキドキする。
鷲見夏彦。
私はちょっと緊張しながら、彼の名前を伝票に書く。
それから、漢字間違えてなかったよね、とちらりと横を見る。鷲見さんが首から提げてる名札にはちゃんと「鷲見夏彦」と書いてある……よし。
ちょうど、鷲見さんも無事に荷物にテープを張り終えたところだった。
「できたよー」
伝票を渡すと、彼が私を見て目を細める。
「ありがとうございますー、よかった、間に合いそう。総務行ってきます」
「行ってらっしゃい」
鷲見さんはよいしょと言いながらまた荷物と伝票を持って、ばたばたと部屋を出て行った。その背中を見送って、私はこっそり息を吐く。
誰かの名前を書くのって、こんなにドキドキするものだっけ?
それとも、鷲見さんの名前だから……?
それから間もなくチャイムが鳴って、お昼休憩になった。私は今日は何を食べようかなと考えながら財布を持つ。あ、今日はあれだな、会社のすぐ裏のカフェ、日替わりランチがチキン南蛮の日だ。行こう。
さっさと行かないと混雑しちゃうな……と、廊下に出たところで、向かいから歩いてくる鷲見さんに手を振られた。
「田中さん、間に合ったー」
「あ、よかったね」
私は彼が無事に荷物を預けることができたんだと思ってそう答えた。
だけど彼は私の前に立つと、「よかった」と、うなずいて、
「さっきのお礼にランチおごる。田中さんお昼行く前で、間に合ってよかった」
と、言った。
そっちの間に合っただとは思ってなかったから、私は驚いて目をしばたかす。すると彼ははっとしたように言葉を足した。
「田中さん、チキン南蛮好き? すぐ行けば食べれるかな」
そのメニューに心当たりがありすぎて、私はつい、彼に尋ねる。
「裏のカフェ?」
すると鷲見さんは、目を大きく見開いて、それからふにゃりと顔を歪めて、
「そう!」
と、言った。
「私もそこ行こうと思ってた……」
私の返事に、鷲見さんが踵を返す。そして私と並んで、玄関に向かって廊下を進む。
「ちょうどよかったー」
鷲見さんは何度もよかったと言う。私の分の食事代も余計に払うことになるのに、よかったんだ?
いや、でも、おごられるのはちょっとなあ、という気持ちもわいてくる。
「あれぐらいのことでごちそうになるのは申し訳ないよ」
私は伝票を書いただけだし。それは仕事だからだし。別に鷲見さんだから手伝ったわけじゃない。誰かが同じように困ってたら同じようにしたはずだ。
「いやいやいや、ほんとに助かったんで」
けれど鷲見さんは譲らない。きっと彼は私以外の誰かが手を貸しても、こうやって一緒にランチに向かったんだろうな。
彼は自覚ないかもだけど、けっこう皆が彼のことを気にしている。明るくて親切で、とにかく一緒にいて気持ちがいい人なのだ。だから、午前中の荷物だって……数分ぐらいなら、総務の担当の子も、お昼休みになっても待っててくれたと思うよ。鷲見さんのためならね。
あんまり遠慮しすぎても気まずくなりそうなので、私は彼の好意を受け入れることにした。
「まあ、じゃあ、ごちそうになります」
今度代わりに何か埋め合わせをすればいいか。そんなことを考えながら、一緒に店に向かった。
会社から徒歩数分のカフェの前には、待っている人がひとり。入り口に「お待ちのお客様はこちらに名前をご記入ください」のボードがあった。
「待ちますかー」
「そうだねえ」
この店はランチタイムの回転が早いから、このぐらいの順番なら余裕でお昼休憩中に食べ終えられる。
じゃあ、と。鷲見さんがボードに名前を書いてくれた。私はそれを見て、はっとする。
『田中』
鷲見さんは私の名前を書いていた。なぜ。
というか、鷲見さんは田中さんじゃないじゃん。私が田中じゃん。ていうかこういうときって男性のほうの名前を書くのがマナー……だとかネットでもし言ってる人がいたらごめん、私そういうマナー講師様の発言にはィギギーッってなりがちなんだけど、でもなんで鷲見さん……と、思いながら、待合の椅子に腰掛ける。
隣に座った鷲見さんが、照れたように笑った。どうやら私の疑問は、彼に筒抜けのようだ。
「田中さんの名前書いちゃった」
「いいけど」
「俺の名字、読みにくいから」
「なるほど」
私は簡単な姓だからなーんも困ったことがないけれど、鷲見さんは、たしかに。困るかもしれないな。私も鷲見さんが人生での初鷲見さんだし、鷲見さんが鷲見さんじゃなかったら鷲見さんの読み方もわからないままだったかもしれない。
「お店によっては、カタカナでご記入くださいとかあるよね。あれも読みやすさのためだよね」
「そうだと思う。でも、カタカナで『スミ』って書くのも、なんか、別の意味に思わない? 案内済みの『スミ』みたいな」
「えー、……言われたらこんがらがってきた」
そんなことを話してたら、先に待ってたひとりが案内される。
そして続けて、
「お待ちの田中様二名様、どうぞ」
と呼ぶ声。
椅子から立って席に向かいながら、鷲見さんが私にちょっと顔を近づけて、
「俺も田中さんになったみたい」
と、笑っていた。
案内された二人用のテーブルに、向かい合って座る。お水を出してくれた店員さんに、日替わりをふたつ注文。
私も彼もお昼は外で食べる派だから、会社近くの店で偶然居合わせたら、カウンター席で並んで食べたりしたことはある。けど、最初から一緒に食べようとか誘われたのは実は初めてだ。
意識すると緊張しそうだから、私は届いた目の前のランチに気持ちを集中することにした。
「ここのチキン南蛮はほんと、おいしい」
鷲見さんが幸せそうな声を上げ、それから言葉を続けた。
「衣はほんのり甘いのにスパイスも感じられるし、しっかりタレは酸っぱくて、タルタルのまろやかなしょっぱさが絶品」
怒涛の褒めコメントに、私もうんうん、と同意する。
「お肉がジューシーで、衣は基本さくさくなのに、タレでしんなりしてるところに、タルタルのピクルスの歯触りが合わさって、最高だよね」
そしてこのカフェの揚げ物は、このチキン南蛮に限らず量もほどよいし、胃もたれしなくてとても良い。
私もつい、チキン南蛮への愛を語る。気づけば、鷲見さんは目の前で、感激の表情を浮かべていた。
「田中さん、わかってくれてうれしい」
「鷲見さんもよくわかってる」
食べ物の好みが一致すると、わしっと握手したくなる気分。しないけど。
代わりに二人で向かい合って、にこにこしながらご飯を食べた。
おいしかったし、鷲見さんとならチキン南蛮以外の日替わりも一緒に食べてみたいなと思った。
ふと、鷲見さんが思い出したように尋ねる。
「そういえば来週、田中さん出張だったよね」
「そう。一泊二日なんだけど」
「営業車?」
「うん。島田係長と中島さんと、私と、女三人で。ひとりじゃないから何とかなると思う」
先輩二人が頼もしいから、私はあんまりプレッシャーもない。
「俺も行きたかったー」
「遊びに行くんじゃないけど」
「田中さんいないとさみしい」
ん、それはどういう意味だ。付け合わせのスパサラがのどにつまりそう。私はなんとか咀嚼する。
「お土産買ってくるよー」
ああ、そうだ。そうしよう。今日のランチ、おごってもらったことの代わりというか埋め合わせにちょうどいいかも。
*
*
*
次の週の出張は無事に終わった。泊まったビジネスホテルのまわりにはあんまりお土産っぽいものは見つからず。帰りに休憩で寄った、高速道路のサービスエリアでお土産を探すことにする。
けど、いろいろあるよねサービスエリアのお土産。
なんなら、またがってる上下左右の県、全部のものがそろってるよね。
ここで買ったら、行ってないところにも行ってきたって言えそうなラインナップ。なんかアリバイにも使えちゃうかも。
鷲見さんは何がいいだろう。食べ物か。一緒にチキン南蛮を食べた時のことを思い出す。甘いのも辛いのも酸っぱいのもしょっぱいのも好きそうだった。なんでもオッケーなのかな。仕事中につまんでたおやつのバリエーションも思い出す。好き嫌いなさそうなんだけど……、うーん。逆に何でもいいとなるとすごく悩むな。
だったら食べ物以外にする?
ご当地グッズとかどうなんだろう。変なキャラクターのボールペンとか、ふつーに使ってくれそうな気がするけど。ハンカチ……いや、ハンカチはなんか、お別れのアイテムみたいな迷信を聞いたことがあるからやめとこう。迷信だけど気にしてしまう。
鷲見さん。鷲見さん。鷲見さん。
彼のことばかり考えてたせいで、目の前に鷲見の文字がちらついて見える。やばい。脳の中まで鷲見さん。
疲れてるなあ、と立ち止まり目をこすってもう一度見る。だけどやはり目の前にあったのは『鷲見』だった。
『鷲見』の隣は『関』でその隣が『高田』だった。視線を斜め上に動かしたら、『青木』、『秋山』、『安藤』、『池田』……と、ずらっといろんな名字が並んでいた。
それは色んな姓が書かれたキーホルダー。ご当地キャラがにっこり笑っている。
あー、あったなあ、こういうの、昔から。私は自然と、自分の姓を探してた。田中、はこういうとき、絶対にある。
これまで他の人の名前を探したことはないけれど、鷲見、ってあるんだ。へー。
ここに全国各地すべての姓があるとは思えないから、これは厳選したいくつかなんだろう。でもその中に鷲見を見つけてしまった私は、なんだか、運命的なものを感じてしまった。
名前入りのキーホルダーとかまあ、レトロなお土産としては定番だけど、実際自分がもらったらどう? と尋ねられたら、いやー、姓のはあんまりいらない? せめて下の名前がよくない?
売り場のPOPには「推し活<おしかつ>に!」と楽しそうな文字が踊ってる。……ということは、自分の姓を買うわけではなく、推しの姓を買うってことか。
推し……と考えながら、『鷲見』のキーホルダーを手に取る。とりあえず買っといて、鷲見さんに渡す勇気が出なかったら、自分でこっそり持っておこう。
その時、お土産コーナーの角から、島田係長と中島さんがこちらに近づいてくるのが見えた。『鷲見』を握っているのに気づかれないように、近くにあった焼き菓子の箱をつかむ。
「田中さん、いいのあった?」
「これにしました」
と、焼き菓子で二人の興味をそらしつつ、無事、レジに支払いに向かう。
そんなこんなで、サービスエリアでの休憩を終え、会社に戻ったのが夕方、退勤時間ちょうどだった。
営業車から荷物を降ろし、定時で帰る皆さんに逆流して、自分の部署を目指す。
報告書は今日作るか迷うなあ。どうせ上司が読むのは明日だから明日でもよさそうだからなあ。残業したくないしなあ。
資料の入った紙袋と自分のお泊りセットが入ったボストンバックとお土産の入ったナイロン袋をぶら下げて、自分の部署に戻ったところで……私はいったん、出入口の陰に身を隠した。
なぜかと言うと、私のデスクの前で、鷲見さんと総務の女の子が話していたからである。
私の隣が鷲見さんの席なので、そこで会話をしているのは何ら不思議ではない。けど、今、私がそこに行くことにより、総務の子に場所の移動をお願いすることになる。それは会話中の二人を邪魔することになる……というのが、なんだか、悪いことをしている気になるから。
だから、会話が終わるまで、ちょっとその場で待つことにした。だから、のぞいたり、聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、自然と二人のやり取りを、私は知ることになる。
「これでよかった?」
総務の子が、何かを鷲見さんに渡してる。
彼はとてもうれしそうに、ありがとう、と受け取っていた。
仕事の書類? それにしてはなんだか、うれしそうすぎないか。鷲見さんはだいたいいつも機嫌がいいけど、あのにこにこっぷりはいつもよりさらに機嫌がいい。
――もしかして、あの子と話しているから?
私は勝手にそんなことを考えて、勝手に胸にこみ上げてくるもやもやしたものに驚く。
総務の女の子は、扉の陰に立つ私に気づかずに、部屋を出て行った。コートもかばんも持ってるから、もうそのまま帰るんだろう。
私は少し間をおいて、深呼吸してから部屋に入る。
ほとんどの人は定時で帰って、遠くのデスクに数人、残ってる人がいるのが見えた。
近くにいるのは鷲見さんだけだ。
無言で荷物を自分のデスクに置いたら、隣の席から鷲見さんが声をかけてくる。
「田中さん、おかえりー」
「……ただいま」
「出張おつかれさまー」
「無事に終わってよかったよ」
そんなことを言いながら、私は資料を片付ける……ふりをする。実際は頭があんまり動いてない。思った以上にさっき見た二人のやり取りに動揺しまくっている。
やだなあ。
「片付けるの、手伝おっか?」
鷲見さんが親切たっぷりの手をデスクに伸ばす。
私は思わず一歩体を引いていた。鷲見さんはちょっと驚いた顔をした。あ、私、嫌な態度だ、と。即座に思って慌てる。
勝手に出てきた嫉妬を、鷲見さんにぶつけるのはよろしくない。
私はそれをごまかすために、「あのね」と、デスクの上の荷物を探る。この妙な態度をごまかすにはもうこれしかない。渡してしまおう、今、お土産を!
「これ、お土産」
私はナイロン袋ごと、鷲見さんに渡す。サービスエリアで慌てて選んだ焼き菓子だけど、実はこちら、以前誰かにもらっておいしかった記憶があったから、味は保証済み。
「ありがとう」
これで私の気持ち的には、この間のランチおごってもらった分は、その前の仕事のお手伝いプラスこのお土産で差し引きゼロだ。
だから彼にはもうなんの借りも貸しもない。ないから。
だからこれできれいさっぱり終わりにしよう。
私の、ちょっとワクワクドキドキしてしまう、彼に対しての気持ちも終わりにしてしまおう。
そんなことを考えて、再びデスクの資料に目を向けたところで。
「わ、スミ!」
と、隣からはしゃぐ声が聞こえた。
私は、ん? と思ってそちらを見る。そちらというか鷲見さんのほうを。鷲見さんは私が渡したナイロン袋の中から取り出した焼き菓子の箱……ではなく、指にぶら下げたキーホルダーを見て笑っている。
キーホルダー……。
あ! おなまえキーホルダー!
そうだ、サービスエリアのレジで、どさくさに紛れて会計したから、お菓子と一緒にお土産袋に入れてもらってて。そして、そのまま、私は鷲見さんにお土産袋を渡してしまっていた。
もう、こうなると、それ鷲見さんへのお土産じゃないんで、と、返してもらうことはできない。
だってキーホルダー、『鷲見』って書いてるし。どう考えても鷲見さんのだよ。
私はどう弁解したら、鷲見さんに変に思われないか、一生懸命考えた。だけど、どんなに考えたって、良い言い訳なんか思いつかない。思いつかないどころか、私は自分の顔がめちゃくちゃ熱くなるのを感じていた。恥ずかしすぎる。
鷲見さんは、しみじみとキーホルダーを眺めて、呟く。
「おなまえキーホルダー、俺、ずっとあこがれてたんだよなあ……」
「へ?」
そして、部屋の隅のほうで残業してる人たちには届かない声で、私に説明してくれる。
「小学校の修学旅行の時、観光地のお土産物屋さんで、他の皆は自分の名前のやつ見つけて、買ってて。俺のはまあ、なくて。悔しくて。それからどっか行くたびに、置いてないかなって探してたんだけど、見つからなくて」
彼の話に、私は小さくうなずいた。
大量生産される商品の名前は、人数が多いものが優先して作られてるはずだ。今は推し活ブームで、もしかしたらリクエストとかがあって珍しい苗字も作られてるかもしれないけど。昔ながらのお土産物屋さんに置いてあるものだと……鷲見はやっぱり難易度が高い。
「なのにまさか、田中さんが見つけてくれるなんて」
鷲見さんはどうやら本当に、うれしいようで。ちょっと声が震えている。
まあ、でも、そんなに喜んでくれるなら、買ってきてよかったよね。
「しかも俺、この話したの、今が初めてっていうか……田中さん、なんでわかったの?」
ほっとしてたら、彼にそんなことを問われて、私の胸は再び大きく跳ねた。
なんで? なんで、って言われても。
「いや、たまたま、ぐうぜん。通りすがりの高速のサービスエリアで、目に入ったから。鷲見さん。……思わず買っちゃって」
もごもごと説明する。私がこのキーホルダーを買った理由は、それ以上でも以下でもない。そう思ってる。……思ってるけど。
鷲見さんは目を細めて、私に小さな声でさらに問う。
「俺のこと考えてくれたんだ?」
声を潜めるのは、残業してる他の人を気遣ってのこと。
だけど、この距離でささやくのは、だめだよね。
私はもう降参の意味で、こくりとうなずいてしまっていた。
鷲見さんはとても満足そうに、焼き菓子の箱とキーホルダーをお土産袋に戻して入れる。
よしよし。これでお土産の話は終わりだな。私への尋問も終わりだな。
そう思ったところで、彼のデスクからひらりと紙が一枚、落ちた。
それは……、あ、さっき、総務の子が彼に渡してたやつだ。
私は思わずそれに手を伸ばす。彼が声にならない声を上げる。
まるで私に触るなと、見るなと言わんばかりの声。
さっき私に恥ずかしい顔をさせたんだから、私も彼の制止を聞くつもりはない。
見てしまえ、と表向いた紙を拾って目を走らせる。
「なにこれ、伝票のコピー?」
なんのことはない。それは荷物伝票の送り状を、コピーしたものだった。
あんなにうれしそうに受け取ってたから、ラブレターか何かだと思ってたのに! ……いや、私が考えすぎか。
これじゃあ私が恥ずかしい目にあっただけだなあ、と思いながら彼を見たら、その頬が確実に赤い。
え、なんで? このコピーのどこにそんな、鷲見さんを恥ずかしがらせるポイントがあったんだろう。
私はあらためて、手にした用紙を見る。何度見ても荷物伝票をコピーしたやつ……、でも、その宛名と差出人に見覚えがあった。
「この間、私が手伝った荷物? なんかトラブルでもあった?」
チキン南蛮を二人で食べた日に送った荷物の伝票だ。もしかしたら、相手先に荷物が届かなかったとか? 届いたけど破損してたとか? だからそのトラブル対応でこの伝票のコピーが必要だったとか?
ぐるぐると仕事の問題が頭の中を回ったけど、彼は「いえ」と頭を横に振る。
「無事に荷物は届いて、その後のやり取りもばっちり」
じゃあなんで? と目で問えば、彼は観念したように、すっと人差し指でコピーされた差出人を示す。
「田中さんが俺の名前書いてくれたやつ。欲しくて」
確かにそこにあるのは、私が書いた『鷲見夏彦』がいた。
「そんなもの、いる?」
「ほんとは原本がよかったけど、それは総務で保管が必要だっていうから、じゃあコピーって、頼んで」
「総務の子に?」
まさかあの子にも、私が書いたやつが欲しいとか言ったのかと驚いたけど、そこはちゃんとごまかしたらしい。
「……ちょっと連絡で必要だからとか、てきとーに言って?」
え、これって犯罪? まあでも、よくあることかもしれない。総務の子も疑問を持たずにコピーしてくれたんだろう。鷲見さんの頼みならって、にこにこと。……うう、その部分はちょっと、胸が痛い。
けど、さっきあの子に勝手に抱いてたもやもやとした黒い気持ちは、今、私の心から一切合切消えている。
「私、いくらでも書くよ? 鷲見さんの名前ぐらい」
サインしてあげる、と言おうと思ったけど、他人の名前ってサインしていいんだろうか。だめだな。
鷲見さんはへらへらしていた。私もつられてにやにやしている。
そういえば、定時も過ぎているのになんでこの人は帰ってないんだろう。
「鷲見さん、仕事あるんじゃないの?」
私が仕事の邪魔をしてたら申し訳ないな、と思って言ったら、鷲見さんはまたへらっと笑った。
「田中さんが帰ってくるの待ってたんで」
「え、なんか用事あった?」
「ないですけど。顔見て帰りたかったんで」
「じゃあもう見たから帰れるね」
「田中さんは? 残業する?」
一瞬、明日提出の報告書のことが頭をよぎって、ああもう、そんなものは明日でいい明日で、と考える。
「帰る」
「ご飯食べに行く?」
「……行く」
帰って自炊するのも出張帰りだとめんどくさい。簡単なものを買って帰ろうと思ったけど、鷲見さんが誘ってくれるなら一緒に行くよね。
荷物の片付けもそこそこに、私たちは席を立つ。
二人で向かった居酒屋の前には、数人の列ができていた。
入り口にある「お待ちのお客様はこちらにカタカナでお名前をご記入ください」のボードに、彼はまたしても『タナカ』と書いた。列の最後尾に並んで、私はちらりと彼を見る。
「もしかしていっつも私の名前使ってる?」
半分冗談のつもりだったけど、鷲見さんは悪びれず、うなずいた。
「お借りしてます」
田中というよくある名前が、そんなに気に入られてるとは思いもせず。私はふう、とため息をつく。
「そんなに好きなら鷲見さんも田中にしてあげようか?」
頭の中でお前も田中にしてやろうか!!と蝋人形の発音でセリフが流れていく。
「え」
鷲見さんが目を丸くする。そして口元に片手を当てて、照れていた。
「プロポーズ……?」
そうだね。私が自分の姓を彼にあげるには、それが一番簡単だ。でも、それだとちょっと、私は心残りみたいなのもある。
「私に鷲見をくれてもいいよ。かっこいいし。鷲見世子、ありだね……」
自分の名前に彼の名字を組み合わせたらけっこういい感じだ。姓の交換ってできるんだろうか、なんてことまで考えてたら、隣で鷲見さんがもごもごと呟いてた。
「俺が欲しいのも、あげたいのも、姓だけじゃないんだけど」
なんだかとても大事なことを言われているような気がしたけど、聞き返す前に、店の入り口から田中様二名様どうぞーと呼び出しの声。
私たちは二人同時に「はーい」と返事して、お店の中へ。
「続きの話は食べながら」
あなたの姓か、私の姓か。これからゆっくり決めようか?
(あなたのせい/終)




