【テントウムシ】
学校帰りの電車、一緒に乗ってた友達が降りて、私はロングシートに座って西日に目を細める。
向かいの席に移動しようかな、とか思ってたら、さっきまで友達が座っていたところに、新しい乗客が腰を下ろした。
私は「あ」と心の中で声を上げて、ほんの少し、姿勢を正す。
座席の移動は、やっぱりやめにする。
乗ってきたのは同じ中学校だった男の子。お互い別々の高校に進学したから、卒業後は疎遠になった。
けど、ときどき、こうやって帰りの電車で「見かける」のだ。
私が気づいているように、彼も私に気づいているとは思うんだけど……、なんか声かけていいのやら、悪いのやら、毎回迷って結局黙ってる感じ。
今帰り? 学校どんな感じ? 部活入った? もしかしてちょっと背伸びた? 彼女できた?
いろいろ聞いてみたいことはあるんだけど、なあ。
中学校の時はまわりに別の友達がわいわいいたから、喋れてただけで。こうやって一対一になると、なんだかとてもムズムズする。
そんなとき、私は目の端に動くものを見つけた。
あ、テントウムシ。
ぷぷぷと飛ぶ姿はかわいらしい。けど、虫だから私は苦手。
さっきの駅で、入ってきちゃったんだろうか。それともずっといたんだろうか。
どちらにしろ、願うのは、どうか私のほうに飛んできませんように、だ。
するとテントウムシは、私の願いを聞いてくれたのか、遠くにぷぷぷと飛んでいく。
向かいの席、私のまっすぐ前には、日焼けしたいかついお兄さんとその同伴ぽいお姉さんが、隙間もなくぴったりとくっついて座ってた。
お兄さんの風貌は、人間の私だと、ちょっと道歩いてたら避けちゃう雰囲気なのに。テントウムシは気にせずそのお兄さんに接近した。
「わ」
「ぎゃ」
お兄さんは突然自分にくっついてきた虫に驚いて、それを振り払う。
お兄さんが変な声を上げたから、隣のお姉さんも叫ぶ。
その騒ぎに、ぽつぽつ席の空いた状態の車内の視線がそこへ。
騒ぎの主のテントウムシは、いかついお兄さんをしばらくからかって、きゃあきゃあ言わせたあと、お姉さんの隣にいた別の男の人に向かって飛んでいく。ピアスいっぱい線の細いホストっぽい見た目のその人も、自分にテントウムシが止まると、
「きゃあ」
と、言って、慌てていた。
その隣の彼女らしき人は、パニック状態の彼氏さんより、ずっと落ち着いた様子でテントウムシを追い払う。
「テントウムシだよ?」
なんて、呆れて言ってるのが聞こえた。
追い払われた虫はそれから、突然進行方向を変えてこちらに向かって飛んできた。
私は声にならない悲鳴を上げる。
けれど、テントウムシは私ではなく、隣の彼の膝へ。
彼はどうするんだろう。彼も「きゃ」とか言うんだろうか。
すると、彼はそっとやさしい手つきで、膝を片手で覆った。今、テントウムシは彼の膝と、手のひらの間に閉じ込められている。
「どうしよ」
彼が呟いた。
独り言かと思ったけど、ちらり、と私に視線が向けられる。
話しかけられたことと、視線が合ったことで、私の心臓は飛び跳ねた。
だけど、彼が困っているのは明らかだから、私は考えながら、ポケットの中からハンカチを出した。
「これとか、なんとか、どうにか」
広げて、彼の膝へハンカチを置く。彼は私の考えをわかってくれたみたいで、そっとテントウムシを握った手をハンカチの上へ。
私は虫が嫌いだ。嫌いだけど、このテントウムシを潰して殺しちゃうとか、そういうのはやだなと思った。
だから彼も同じように、この虫を殺さずに捕まえようとしてることがうれしかった。
彼の指の隙間から、テントウムシが這い上がって逃げようとしたのをもう一度捕まえて、そして無事、ハンカチの中にテントウムシを確保することができた。
テントウムシのいる空間には余裕を持たせ、上のほうは出口をふさぐように、巾着型にしたハンカチを彼がぎゅっと握る。
「次の駅で逃がそう」
ハンカチを持った彼にそう言われ、私はうなずいた。
テントウムシを捕まえたことで、電車内に安堵の空気が流れる。私も胸をなでおろす。
目の前の座席にいた、いかついお兄さん。かっこつけた身支度ばっちりなお兄さん。そして私の隣の、制服姿の彼。
人を比べるのはよくないことだとはわかっているけれど、私は彼が一番スマートでかっこいいと思った。
そして電車は次の駅へ。彼は宣言通り、電車を降りる。もしも、この電車がここで数分停車しててくれれば、テントウムシを逃がしてまた同じ電車に乗ることもできたんだろうけど――彼と、彼について私も電車を降りたところで、電車はさっさと行ってしまった。
「ごめん、ハンカチ借りたせいで」
彼は私にそう言ったけど、私は頭を横に振る。
「いいよ。次の電車すぐ来るし」
それに、テントウムシのおかげで、こうやって彼と喋れてるんだから、謝ったりしないでほしい。
「あそこに、花壇があるよ」
私は改札近くに設置されてる花壇を彼に示す。きっと季節に合わせて、植え替えが行われてるだろう花壇には、今は色とりどりのコスモスが揺れていた。
ふたりで花壇の側にしゃがむ。彼がハンカチを広げたら、中にいたテントウムシが、ひどい目にあったと言わんばかりの足取りで、コスモスに移動していた。
「よかった。生きてた」
「よかったね」
彼はハンカチをたたむと、私に返そうとして、でも、一瞬迷ったように手を止める。
「洗って返したほうがいい?」
「いいよ、そのままで」
私はつい、そう言ってハンカチを受け取ったのだけれど……、次に会う約束を作るために、洗って返してもらったほうがよかったかな、なんてあとからちょっと思った。もうちょっと大人になったら、こういう駆け引きもできるようになるのかな。
それから私たちは、ホームのベンチに腰掛けた。
次の電車が来るのをしばし待つ。
テントウムシのおかげで、私たちは昔みたいに、ふつうに話ができるようになっていた。
「たまに帰り、会うよね」
「うん。話しかけようかなーって思いつつ、タイミングなくて」
「そうだよねえ……」
お互いぐいぐい行くタイプではないから、そうなる。けど、話しかけたい気持ちはどっちにもあったんだな、とわかって、うれしかった。
私は彼に冗談交じりに言ってみる。
「あのテントウムシ、恩返しに来るかも」
「来るかな」
「あの時助けてもらったテントウムシです」
「来るかなあ」
彼は苦笑してたけど、楽しそうだった。だからもっと彼を笑わせたくて、私は調子に乗って言葉を続ける。
「すごい美少女が来るよ」
こういうとき、恩返しの生き物は、人間の心をつかむ姿でやってくると相場が決まっている。
けど、彼は一転、うーん、と、眉間にしわを寄せた。
「来られても困るよ。好きな人いるし。誤解されたくないし」
「え、いるんだ?」
「いるよ」
そっか。高校で青春してるんだなあ……。私は自分の胸がきゅっときしむのを感じていた。
今帰り? 学校どんな感じ? 部活入った? もしかしてちょっと背伸びた? 彼女できた?
彼に聞きたかった質問の、一番最後が一番知りたかったことだから。答えをもらえて、まあ、すっきりしたのかも。
だけど前を向いたら相変わらずの西日がすごくきつくて。私は思わずぎゅっと目を閉じていた。
鼻の奥がツンとするのも、きっと西日のせいなんだ。
黙った私の隣で、彼がふっと息を吐く。
「虫苦手って言ってたから、そっち、行かなくてよかった」
私は目を開く。瞼の裏に光の残像が残って、すぐに彼を見たけどちゃんと見えない。
「虫苦手なの、話したっけ」
「……話してるの、聞いた」
そんなの、たぶん、中学時代の他愛もない会話だったはず。彼がそれを覚えててくれたんだ。
なんだろう、今失恋したはずなのに、やっぱり、彼のこういうところが好きだなあ、と改めて思ってる。
ホームに次の電車がまいります、とアナウンスが流れる。
いつも電車の待ち時間なんか短ければ短いほど良いと思ってたけど、今日は遅れてくれたっていいのに、って思った。
ようやく目が慣れて、彼の顔がはっきり見える。
彼はちょっと真剣な顔で、私に尋ねた。
「次から、電車で見かけたら、話しかけていい?」
私はこくりとうなずき返す。
「よかった」
そして、向けられた彼の笑顔に、ぽ、と、自分の頬が赤くなるのを感じていた。
さっき好きな人がいるから誤解されたくないって言ったよね? 美少女のテントウムシがお礼に来ても困るって言ったよね?
でも私と話すのはオッケーなんだ? それはつまりどういうことですか。どういうことですか。
「電車来たよ。乗ろ」
彼に促され、私はベンチから立ち上がる。
まあいいか。少しずつ教えてもらおう。
車窓から、コスモスの揺れる花壇が見えた。
あのテントウムシ、新しい住処を気に入ってくれてたらいいな。
(テントウムシ/終)




