(9)
事務室で僕ら三人は厳重注意を受け、一時間ほどしてから解放された。井坂は終始不貞腐れており、僕やカタクリコに対して謝罪の言葉を一切発しなかった。
憔悴した気持ちで店を出ると、尊が追いかけてきた。
「少し時間あるか」
彼はどこかバツが悪そうに、こちらの機嫌を伺いながら言った。僕がしぶしぶ頷くと店の裏口に案内された。
裏口の庇の下で待っていると、尊が缶ジュースを持ってやってきた。飲めよ、と言われてもらったものの僕は手を付けなかった。その代わり、じっと尊を見つめた。
「なんだよ」
尊はプルタブを空け、缶ジュースを一口飲んだ。炭酸が弾けて缶にぶつかる細かい音が聞こえた。
「そんなジュース一本で、恩に着せたりしねえよ」
だから飲めよ、と言われたので僕もプルタブを空けた。一口飲むと、尊も安心したように缶を煽った。 庇の下から顔を上げると、空を割るように飛行機雲が伸びていた。
「さとしと色々あったんだってな」
突然尊が感慨深く言った。尊は缶の飲み口を掴み、空を見てため息を吐いた。僕らは目を合わせず、互いに空を見ていた。
「あいつ、お前にだけじゃなくて、仲良くないやつにはいつもああだから、あんまり気にするなよ」
「言われなくても、気にしてないよ」
「そうか」
とは言いつつも、井坂に言われたことはこれから先ずっと、喉に刺さった魚の小骨のように僕を悩ませることは明白だった。あんな毒のある言葉や狂気を真っ向からぶつけられたのは生まれて初めてだ。
それからしばらくの間沈黙が降りた。僕らはその気まずさから目をそらすように、交互に缶を傾けた。 飛行機雲は尻尾の部分が崩れかけていて、もやもやとした綿のようになっていた。
「……お前も、あんな風になるんだな」
一足先に飲み終えた尊が言った。僕は何も答えなかった。
「本当、なにやってんだろうな、俺」
尊はあきれるように笑いながら、スポンジを握るように缶を握りつぶした。缶はひしゃげて、辺りに耳障りな金属音が響いた。
「――まだ、怒ってるか?」
尊はその時になって初めて僕の顔を見た。遠回りしたが、彼が言いたかったことはこの一言なんだと思った。
「分からない」
それは僕の正直な意見だった。最初は確かに尊に対して憤りがあったが、今も怒っているかと言われたらそれは分からない。
伊織と過ごした日々の中で、尊の存在はいつしか希薄になっていた。伊織に振り回されたからそこまで気が回らなかったといえばそれまでだが、多分僕と彼は、最初からその程度の関係性だったのだ。
「歩。俺を殴ってくれ」
尊は何かを覚悟したような強いまなざしで僕を見ていた。
「お前にしたこと、ずっと気になってた。でも、成功したからいいじゃん、て思う気持ちもあった。お前が今日あんなこと叫ばなかったら、これからも変わらなかったと思う」
だからそのけじめとして、殴ってほしいのだという。当然僕はそれを断った。
「なんでだよ。じゃないと、俺の気が治まらない」
駄々をこねるようなその言い分に、僕は微かにいらついた。そして最後の一口を飲み干し、尊がしたように缶を握りつぶした。尊の時よりも、大きな音が鳴った。
「君は勝手だよ。自分の気を治めるために、僕に殴らせるなんて」
隠しきれない怒気のこもった言葉に、尊は返答に窮しているようだった。しばらく考えて、ようやく僕の言った意味を理解したのか、静かに、そうだな、と呟いた。
「……じゃあ、どうやって償えばいい」
尊は握りつぶした缶を弄びながら、僕から逃げるように目をそらした。不思議とその姿が、伊織と出会う前の自分と重なった。
幾度となく、僕もこんな顔をした。人の顔色を伺って、機嫌をとってばかりいた。上下関係なんてない対等な立場なのに、僕はいつしか下手に出ることに何の抵抗もなくなっていた。だから彼の悪ふざけも断れなかったのだ。
「何もしなくていい。あえて言うなら……」
僕は満を持して尊を見た。病院で精密検査をして、結果を医師に確認する時のような緊張感を彼は放っていた。
「僕たちの生末を、最後まで見守ってほしい。それが君の義務だ」
僕は意識して、真剣な表情を維持した。ここでいつものように、何も気にしていないという素振りをしたら元の木阿弥になる。
「……分かった」
煮え切らない態度で尊がそう言ったところで僕は立ち上がった。
店を去ろうとした時、缶を捨てておくと言われたが断った。自分で出したごみは自分で捨てる。誰かに捨てさせてはいけない。そんな意味を込めての行動だったが、今の彼には果たしてどう映ったのかは分からない。
ただ、見上げた空はこの店に来た時よりも高く、青みが増しているように見えた。
******
病室に入ると、片山さんのベッドにカタクリコが腰掛けていた。彼女は珍しくゲームをしておらず、下を向いて待っていた。
「大丈夫だった?」
彼女が心配そうに尋ねてきたので僕は、大丈夫、と言った。片山さんはついさっき僕らが買ってきた炭酸飲料とつまみを持って、別の病室の患者と談話しにいったらしい。もう今日退院すればいいのにと、僕は個人的に思った。
「月島くん」
いつにない真剣なまなざしと声色で、カタクリコが僕を呼んだ。
急に彼女のことを女性として意識してしまい、微かな背徳感が生まれた。開け放たれた窓から一陣の風が吹き、ベージュ色のカーテンを膨らませた。風に髪を掻き回されながら、彼女はまばたきをせずに僕をまっすぐに見ていた。
「座って」
「うん」
僕らは並んでベッドに腰掛けた。そしてカタクリコは、おもむろに眼鏡をはずした。
「月島くんは、私のことどう思う?」
「どうって……」
眼鏡をはずした彼女は、いつものゆるい愛嬌のある表情が払拭され、どこか理知的な雰囲気を醸し出していた。よく見ると、ゲームばかりしていたせいか日に焼けておらず、肌も女性らしい健康的な白さで、 思春期に悩むような吹き出物なども一切ない。十分に魅力的な女性だ。
当然そんなこと恥ずかしくて言えないので、少し考えて、「遊び人のような印象」だと言った。それは彼女に対する紛うことなきイメージだった。その僕の回答に、彼女は何故か嬉しそうだった。
「私さ、ずっと友達がいなかったんだ」
毛づくろいをする猫のように前髪をつまみながら、カタクリコが言った。彼女は昔から人見知りが激しく、何度も学校もずる休みをしていたらしい。
「この髪も地毛なんだけど。中一の時、そんな髪の色なのに何でびくびくしてんだよって男子に言われたの。それがすごくショックで……」
髪が明るかったせいか、快活なイメージに見えたのだろう。クラスメイトが気さくに話しかけてきてもうまく接することができず、その恐ろしいまでの温度差に友達ができなかったらしい。
「でも、そうは見えないけど」
「いおちゃんが助けてくれたからね」
そう言ってカタクリコは、伊織のとの思い出を話し始めた。
中学二年生の春、伊織とカタクリコは初めて同じクラスになった。しかしその当時からカタクリコはクラスに顔を出すことはなく、学校に来ても相談室のような別室で勉強していた。そのクラスに過去に自分のことを揶揄した男子生徒がいたので、なおさら教室には行くことができなかったのだ。それが先ほどの、井坂と重なったのだそうだ。
クラスが編成されてから一週間後、学級委員をしていた伊織が特別教室へ顔を出すようになった。中学当時から、伊織はすでに完成された美しさを備えており、二、三会話をしただけで、落胆したのだそうだ。
「こんな美人な子と、私なんかが釣り合うはずないって思ったの」
そんな感情があったせいか、彼女は同性の伊織の前でも満足に話すことができず、歯がゆい思いをしたらしい。でも、伊織は見捨てなかった。
「ある日ね、いおちゃんが授業中に抜け出して遊びに来たの。大事そうにビニール袋を持ってね」
ビニール袋には銀紙に包まれたゆで卵が入っていた。伊織はそれを半分にしてカタクリコに渡した。
「自習だから大丈夫だって、二人で食べながら話していたの。まあ、いおちゃんが一方的に話していたのを私が聞いていただけなんだけど」
その後先生が見回りに来て、教室に伊織がいないことが発覚し、別室に探しに来た先生に見つかって大目玉を食らったそうだ。ゆで卵も伊織が半分に割った時に黄身をぼろぼろこぼしたのでそのことでも怒られ、二人して反省文を書かされたらしい。
そのことがきっかけで二人はすこしずつ親密になり、昼休みや放課後に一緒に勉強をするようになった。
「初めは私がいおちゃんに教えてもらってばっかりだったけど、申し訳なくて私も毎日勉強したの。ゲームの時間を割いてまでね」
結果その一途な思いが伊織の学力を上回り、いつしかカタクリコが伊織に勉強を教える立場になったのだ。伊織と過ごす中でカタクリコは徐々に前向きになり、期末テスト前に教室に復帰したのだという。
「ずっと思ってたんだ。全部リセットして最初からやり直したいって。そしたら自分の世界に閉じこもることもなくて、違う私になれたんじゃないかって」
そう言ってカタクリコはこぶしを握り、シュ、シュと言いながらパンチを繰り出した。人生をやり直せたとして、彼女は一体何になるつもりだろう。
「でも例えやり直せたとしても、私は同じことを繰り返していたと思う。だって、いおちゃんがいなかったら私、こうやって君と話すこともできなかっただろうし」
そう言ってカタクリコは、僕の方に向き直った。こんなに至近距離で彼女の顔を見るのは初めてだった。
「君がさっき釣り合いの話をした時、昔の自分を見ているようだった。私にも、自分は誰とも釣り合わないって思っていた時代があったから……」
その言葉を聞いて、カタクリコのことを遊び人のイメージだと言ったことに対して、彼女が嬉しそうにしていた理由が分かった気がした。
「無理に属性を変えるんじゃなくて、その属性でどう生きるかを考えなくちゃ」
「ゲームみたいだね」
「教えてくれたのは、君だよ」
そして、カタクリコは再び眼鏡をはめようとした。しかし、寸前のところで手を止めて膝の上に置いた。
「君は、自分で思っているほど弱くないよ」
カタクリコが緩やかに口角を上げながら言った。
「私といて楽しいって言ってくれた時、すごく嬉しかった。私もあんな台詞が言えたら、もっと早く変わることができたのかなって思ったんだよ」
そして、彼女は僕の手を握った。
「ありがとう。君は私の大切な友達だよ」
柔らかい風になびく彼女の髪とその隙間から見える笑みを見て、やはりこの人はすごく魅力のある女性だと思った。
******
片山さんに挨拶をして病院を出た時は、もう夕方だった。
帰り際、カタクリコは早く伊織と仲直りするようにと釘を刺してきた。いつから僕らが喧嘩をしていることに気付いていたのかと聞くと、ほとんど最初の段階で気付いていたらしい。
駅に着いたものの、なんとなく家に帰る気にはなれなかったので、広場のベンチに腰掛けた。周辺には夏休みということもあり活力に満ちている人たちが溢れていて、そんな集団の中にいるとより一層孤独感が浮き彫りになり、自分だけが世界に取り残されたような気持ちになった。
「あれ? 歩くんじゃない」
髪を解いていたので一瞬分からなかったが、目の前に真央さんが立っていた。真央さんは財布しか入らなそうなショルダーバッグと、車のキーを持って僕のことを覗き込んでいた。よく見ると髪色が明るくなっており、髪質は緩やかに波打っていた。服は相変わらず、黒一色のシンプルな格好である。
僕が挨拶をすると、真央さんは眉根を寄せながら、元気ないねぇ、と言った。
「ちょっと、いろいろあって」
「ちょっとって感じじゃないけど」
そのとおりだった。おとなしく過ごしていれば、恐らく一年に一回くらいの頻度で起きていた衝撃的な出来事が、わずか二週間足らずの間にまとめて起きたのだ。
よほど心配だったのか、真央さんが.、隣いい? と言ってきた。僕は横にずれて真央さんの座るスペースを作った。
「伊織と何かあったんでしょう?」
「……はい」
「それは、私にも話せること?」
僕は悩んで、半分は、と言った。言えない半分はもちろん、僕と伊織の偽の関係のことである。
「その話せる半分だけを、お姉さんに話してみなさい」
真央さんは聞く体制を整えるかのように、腕に付けていたゴムで髪を縛った。
僕は観念してこれまでに起こったことをかいつまんで説明した。真央さんは静かに相づちを打ちながら僕の話を聞いてくれた。
説明を終えた後、僕らの間に沈黙が降りた。真央さんは何かを考えているようで、自然と身構えた。悪いことはしていないのに、漠然と怒られると思った。
しかし真央さんは予想外のことを言った。
「えらいね。ちゃんとあの子と向き合おうとしていて」
そう言って真央さんは真剣だった表情を崩した。西日を纏うその横顔に、大人の色気を感じた。
「あの子は控えめに見ても整った容姿をしているから、昔から言い寄ってくる男が多かったの。前の彼氏たちもきっとそうだったわ。って、あんまり元彼の話とか聞きたくないわよね?」
「交際する前に、全部聞いています」
それなら話は早いと、真央さんは続きを語りだした。
「あの子と付き合うことは、一種のステータスなのよ。宝石を見せびらかす、みたいいにね。だから誰もあの子の事情に親身になってはくれなかったわ」
それは、伊織が喫茶店で話してくれたこととほぼ同じ内容だった。
「……事情っていうのは、両親のことですか?」
真央さんは逡巡して頷いた。
「気になる?」
「……まあ」
無論、無理に詮索するつもりはない。ただ、井坂が「知っている」ことが彼女の両親のことだったら、何故彼が彼女の家庭のことに介入しているのか気にはなる。
駅の入り口では、携帯電話会社の社員が、着ぐるみを来て子供たちに風船を配っていた。真央さんは、その中のある家族を見つめながらため息を吐いた。
「あの子に寄り添う覚悟があるなら、きっとあの子やおばあちゃんが話してくれるはず。だからそれまで待ちなさい」
真央さんの緊迫した物言いに、僕は気圧されていた。まるで興味本位で聞いてはならないと警鐘を鳴らされているようだった。
「誰にでも秘密はある。今だから言うけど、実は私バツイチなのよ」
真央さんがその場の空気を変えようとするように言ったが、全然笑えなかった。
「あなたにも秘密の一つや二つあるでしょう?」
真央さんは目を細めて僕の方を訝るように見ながら言った。確かにある。僕と彼女の間にある、決して誰にも打ち明けることのできない大きな秘密が。
駅の時計を見ると、電車の時間が近づいていた。このままここにいてもしんみりしたままになってしまうので、そろそろ帰ることにした。
帰り際、真央さんは駅のパン屋に連れて行ってくれた。渡された紙袋には小ぶりのクロワッサンが数個入れられており、焼きたてなのか紙袋の底は温かかった。小さいころから伊織が好んで食べていたもので、今でもたまにお土産に持っていくらしい。
「二人がちゃんと恋愛していて嬉しいわ。早く仲直りして、また店に遊びに来てね」
そう言って真央さんは車のカギを人差し指でくるくると回しながら、颯爽と去っていた。
改札を通って電車を待っている間、クロワッサンを一口かじった。表面がパリッとしていて、ほんのりとした甘さが口の中に広がった。食感も程よい弾力で、一つだけ食べるつもりが二個も食べてしまった。食べながらずっと、伊織のことを考えていた。