(8)
雨に打たれて歩き続けたせいか、自宅に帰り着いた時には体調はすこぶる悪くなっていた。額に手を当てるとわずかに熱っぽく、得体の知れない何かに憑りつかれたように肩が重かった。
携帯電話を見ると、画面が真っ暗になっていた。水濡れに弱い機種だったので、長時間の雨に当てられて故障したらしい。もしかしたら、伊織から着信があったかもしれないが、もうどうでもよかった。
体調は下降の一途を辿り、それからほとんどの時間をベッドの上で過ごした。ずっと頭痛が収まらず、頭がぼうっとして酩酊していた。
寝込んでから四日目の朝。ようやく雨が止んだので病院に行くことにした。
連日の雨で空気中のほこりやチリが洗い流され、駅の方角までの景色はいつもより澄んで見えた。鳴りを潜めていたセミも鬱憤を解き放つかのような轟音で鳴いており、道沿いに植わっている草花はまだ雨の名残を残していて、葉の表面に点々と付着した小さな滴が太陽の光を吸い込んで煌めいていた。
町の総合病院は比較的空いていた。受付をしてロビーで待っていると、聞き覚えのあるしゃがれ声に名前を呼ばれた。
「月島くん、ひさしぶり!」
そこには、JAでお世話になった片山さんがいた。片山さんは車椅子に座っており、左足首に包帯が巻かれていた。酔っ払って家の階段から落ちて足首を骨折したため、明日手術があるらしく、全治三ヶ月だそうだ。
一緒の席に座り雑談している最中、僕はJAでの井坂のことを改めて謝罪した。片山さんは大仰な仕草で気にしないでいいと言ってくれた。
「若いからしょうがないのよ。まあでも、うちの娘の彼にはできないかな」
「はあ」
片山さんは何がおかしいのか一人で話して一人で笑っていた。
受付に名前を呼ばれたので診察室に入り、数分間の診察を終え、いくつかの薬を処方してもらった。診察室を出てロビーに戻ると、さっきまでいなかった若い女性が片山さんの隣に腰掛けていた。
「月島くん、こっちこっち」
片山さんに手招きされ、僕が近づくとその女性が振り返った。
首の付け根まで伸びた校則ぎりぎりの茶髪に、切れ長の大きな瞳。それに素材の気品をわざと隠すようなやぼったい黒縁のめがね。そんな、美人というよりも愛嬌があるといった表現がしっくりくるような女性が、僕の方をじっと見つめていた。
「あっ、いおちゃんの彼氏じゃん」
彼女は小型ゲーム機を持ったまま手を振った。
「娘の莉子よ」
片山さんが紹介すると、彼女は、オスと言った。それにしても、女性らしい伊織に対して彼女は果てしなく男らしかった。男性用かと思うくらい巨大なヘッドホンをしており、着ている服も無地の白いTシャツに、くるぶしまでの長さしかないジーンズを着用している。その細い足首に巻かれた外貨のチェーンが施されたアンクレットだけが、唯一女性らしかった。
「カタクリコって呼んでね」
「く、って苗字にも名前にも入っていないけど」
「じゃあカタコリがいい?」
そういう問題かと思ったが、片山さんと彼女を同じ苗字で呼ぶと区別がつけにくいので、呼び方を指定されるのは有難かった。
「あんた、いい加減ゲームやめなさい」
「お母さんがお酒を止めたらね」
彼女の切り返しに、片山さんはぐうの根も出なかった。
それから次に片山さんの検査になり、椅子には僕とカタクリコだけが残された。彼女は鼻歌を歌いながらゲームを楽しんでいた。僕はただ、ぼんやりと会計の順番を待っていた。
「月島くんて、ゲームするの?」
僕は、一応、と言って頷いた。
「これ、分かる?」
彼女は自然な仕草でそばに近寄ってきた。画面を見るとそれは僕が去年の冬にクリアしたばかりのRPGで、次のダンジョンに向かうための鍵を探しているらしい。
「洞窟の壁に、一つだけ色が薄い部分があるんだ。そこの前に立ってボタンを押せば秘密の扉が開くよ」
「薄い場所? どこよ?」
彼女がさらに近づいてきた。髪の毛から、スプレーなどでは再現できない自然的な良い匂いが漂ってくる。僕は身を仰け反らせながら、画面を指差した。
「ほら、ここだよ。分からないなら、角度を変えて見るといい」
そのタイミングで会計に呼ばれ、僕は席を立った。
「できたよ! ありがとう!」
支払った後座席を見ると、彼女が手を振ってきた。どういたしまして、と言って僕は病院を出ようとした。
「お母さんが来るまで待っててよー」
確かに片山さんに挨拶をして帰るのが良いと思い、再び彼女の隣に腰掛けた。
片山さんが診察室から出てくるまで、僕とカタクリコはゲームをした。もっともそれは僕が彼女の問いに答え、ゲームを先に進ませるための作業だった。
診察室から出てきた片山さんに、ついでに果物でも食べていきなさい、と言われ僕は半ば強引に病室に案内された。
「風邪ならビタミンを取らなきゃ」
「あの、本当にお構いなく」
「私りんご食べる」
カタクリコはかごに入っていたりんごを取り、それを丸かじりしようとした。それを片山さんがしゃがれ声で止めた。カタクリコにりんごを剥いてとせがまれていたが、片山さんは右手も打撲していて断っていた。
仕方なく、僕はカタクリコにりんごを剥いてあげることにした。昔りんごの皮を最後まで切らずに剥く練習をしたことがあったので、難しくはなかった。
途中途中で千切れはしたが、ちゃんと食べられるくらいにつるりと剥けた。ちなみにまな板があれば、りんごの下の部分に刃を入れ、時計回りに転がすように剥けば比較的簡単に一本のらせん状に皮を剥くことが可能だ。僕はりんごを四等分して、二人に提供した。
「やっぱり、莉子に月島くんを紹介したかったなぁ」
片山さんがりんごをしゃくっと噛みながら言った。僕は出してもらったお茶を吐き出しそうになった。
「だめだよ。月島くん、めちゃくちゃかわいい彼女がいるんだから。私が怒られちゃう」
「そういう問題じゃないでしょう」
りんごを頬張りながら、カタクリコはそこで何かに気づいたように、素っ頓狂な声を上げた。
「ねえ。いおちゃん、君がここにいること知ってるの?」
僕は否定した。この四日間、伊織とは連絡を取っていない。
「ちょっと、電話してくる!」
「いや、大丈夫だから」
「君が大丈夫でも、私が気になるの」
カタクリコはゲーム機をベッドに放り投げ、携帯電話を持って廊下に出て行った。
「ごめんね、そそっかしくて」
片山さんがしゃがれ声で言ったので、僕は曖昧に頷いておいた。
数分後、カタクリコが病室へ戻ってきた。
「いおちゃんが、変わってほしいって」
僕は躊躇しながらも携帯電話を受け取り、廊下に出て恐る恐る受話器に耳を当てた。ノイズに交じって、こちらの機嫌を伺うような伊織の声が聞こえた。
『電話が繋がらなかったから、その……』
ひび割れるようなその声に、脈拍が早くなった。
『この間の雨で、故障したんだ』
僕がぶっきらぼうに言うと、伊織は、そう、と言った。
『……まだ、怒ってる?』
『怒ってはいないけど』
『じゃあ、話をし、』
『でも、振り回されて迷惑だとは思っているよ』
彼女の言葉をさえぎって僕は言い放った。凄くとげのある言葉で、今まで生きてきて誰かにこんなことを言ったことはなく、胸がきりきりと痛んだ。
『……そうだよね。ごめんね。莉子に変わってくれるかな』
病室に戻り、カタクリコに携帯電話を返した。その後彼女は、再び廊下に出て伊織と通話をすると、数分後に戻ってきた。伊織のことを詮索されるのが億劫だったので、僕はそろそろ帰宅することにした。
「月島くん。時間があったらまた来てよ」
帰り際、カタクリコが言った。あっけらかんとした様子から、僕と伊織の不和は感じとっていないらしい。すぐに反応できずにいると、片山さんがカタクリコをなじるように言った。
「月島くんに悪いわよ。彼女もいるんだし」
「大丈夫、いおちゃんから許可は取ったから」
「許可?」
僕と片山さんが同時に言うと、カタクリコが説明を始めた。
伊織はこれから家庭のことや学校のことで忙しく、僕に会う暇がないと言っていたらしい。だから、僕がよければ遊んであげてと気さくな調子で言っていたのだそうだ。
「だから、来てよ。月島くん」
そして私にゲームを教えなさい、とカタクリコが言った。
伊織の発言がどこまでが本当で嘘か分からなかった。そもそも来週はお盆で、いくら忙しいからといって、そんな時期まで学校に通うことなどありえるだろうか。
「それなら私も来てほしいな。入院中暇だし」
「私は毎日来るから、とりあえずこのゲーム全クリするまでは来てね」
何という一家だと思ったが、家に帰ってもゲームをするくらいしか思いつかなかったのでとりあえず了承した。伊織に言い過ぎたことと、彼女の現在の心境が気になったが、今は考えないようにした。
******
片山さんの手術が終わり、四日が過ぎた。その間僕は毎日病院を訪れた。
病室での僕は終始片山さんの世間話の聞き役で、会話の合間にカタクリコがゲームのことで横槍を出してきた。
彼女はいつも似たような格好でいすに座り、踵をつぶしたスニーカーを足に引っ掛けながらにこにことゲームをしていた。彼女が足を振る度に、アンクレットの外貨が揺れた。
「君、夏休みの宿題終わったの」
ある日、ゲームばかりしているカタクリコに何気なく聞いた。
片山さんは仲良くなった患者と休憩室にお茶を飲みに行っていて、病室には僕らしかいなかった。
「終わったよー」
カタクリコは僕が持ってきた攻略本を見ながら言った。予想外の回答だ。
「全部終わったの?」
「うん」
「いつ?」
「七月中。高校は絵日記がないから楽よねー」
そんな馬鹿な、と思った。受験前ということでどんなに頑張っても半月はかかる量の宿題が出されているのに。
「私ね、こう見えて超頭いいの」
説得力がなさすぎると思った。
「参考までに聞くけど、期末は何位だったの?」
「期末だけじゃなくて、中間も学年末も、三年間全部一位だよ」
「……うそでしょう?」
「月島くん。人は見た目で判断してはいけないのだよ」
そのタイミングで、ゲーム機からパーティが全員死亡した時に流れる悲しい音楽が聞こえた。
「あっ! 月島くんが邪魔するから!」
「ご、ごめん」
カタクリコは頬を膨らませながらゲーム機の電源を消した。再起動して、ソフトのオープニングの音楽が鳴る。その音楽を聴いて、カタクリコがため息を吐いた。
「ゲームはいいよね。リセットしたら、自分の都合のいいようにやり直せるから」
どういう意図でそう言ったのか分からなかったので、僕は黙っていた。
術後の経過がよかったので、片山さんの予定されていた入院生活はだいぶ短くなり、お盆が終わるころに退院が決まった。
退院の前日、僕とカタクリコはおつかいを頼まれた。片山さんの禁酒の禁断症状が出てきたので、強炭酸水としょっぱいつまみを買ってくるように指示されたのだ。
「溶けるよー」
「参ったね」
「月島くん、アイス買って」
「いいよ」
「やったー」
コンビニでアイスを買い、盆休み中の工務店のシャッターの前に移動した。カタクリコは、鷲と書かれた白い帽子を被っており、アイスを食べながらそれをうちわのようにして仰いでいた。
太陽はセミの羽を焦がしそうなほどの熱量を放っていた。雨の降り方を忘れたような高い蒼穹に、生まれたてのめだかが泳ぐように幾筋かの雲が浮かんでいた。
いつか見た空。材料を買い込み、二人で街路樹の連なる歩道を歩いた、あの日と同じ色――。
カタクリコと会話していても、意識の隙間からいつのまにか伊織が顔を出した。あの時の彼女の声や表情が、抜け殻となって隣にいるようだった。
おつかいの品を買った帰りに、近くのレンタルビデオショップに立ち寄ることにした。そこは店内の半分がゲーム売り場になっており、僕も何度か立ち寄ったことのある店だった。
店に着いて、彼女は目星を付けていたいくつかのゲームを見比べていた。アルバイトもしていないのに、どこからそんな資金を調達してくるのかと聞くと、父親からテストの度に小遣いをもらっているらしい。
「これにしようかな」
彼女の手には、戦国武将になって敵の大将を討ち取るゲームが握られていた。馬に乗り、敵の陣地を縦横無尽に駆け回り、身の丈ほどの武器を振り回して千人以上の兵士をなぎ倒していくという過激な内容である。
「おい、おまえ」
レジに向かおうとした時、突然声をかけられた。そこには今一番会いたくない人物が立っていた。
「月島、だったか」
それは災いの現況である井坂だった。井坂はこの店の制服を着ており、手にいくつかのゲームソフトを持っていた。それを空いている棚に無造作に置くと、ずかずかと僕に近づいてきた。そしていきなり、胸倉を捕まれた。
「おまえ浮気かよ。最低だな」
今にも殴りかかるような勢いで、井坂がすごんできた。細い目が限界まで見開かれ血走っている。
「いやいや、浮気じゃないし」
それを見ていたカタクリコが笑いながら言った。
「ちゃんといおちゃんに話してあるし。女の子と二人でいるだけで浮気とか、君もまだまだ青いね」
「なんだと!」
井坂は僕の襟首を離し、カタクリコに怒鳴った。するとカタクリコはまったく動じず、さらに笑みを深めた。
「この店は、お客さんに怒鳴るんですかー! 社員教育がなってませんねー!」
井坂が怒鳴った倍の声量で言った。店内に彼女の声が響き渡り、買い物客がちらちらとこちらを伺っていた。
「おまえ、ばか!」
「ばかじゃないし。少なくとも君よりはね」
井坂は悔しそうに下唇をかみ締めた。
「ていうか、親子揃って同じ男に迷惑かけられるって、すごい確率だよね」
「親子だと?」
井坂は言っている意味が分からないようだった。するとその時、騒ぎを聞きつけたもう一人の店員がやってきた。その人物に僕は再び驚かされた。
「あれ、歩? それに、片山さん?」
関わりたくなかったもう一人。僕のこのむちゃくちゃな夏物語のきっかけを作った張本人、尊だった。
「片山……」
井坂はしばらく考えた後、ようやく合点がいったのか、苦い顔をしていた。
「インターンの時は、母がどうも」
井坂は頬を痙攣させながらも、何も言い返せなかった。僕は掴まれた襟を正し、カタクリコを見た。
その時、おや? と思った。いつもより、彼女のまばたきが多いような気がしたのだ。もしかして、強がっているだけなのか。
「もう行こう。片山さんが待ってる」
彼女の手からゲームソフトを取り上げ、元の棚に戻した。彼女は笑いながら頷いたが、微かにその笑顔は引きつっていた。井坂と尊の視線を感じたが、何も考えないようにした。
「お前には、そいつがお似合いだよ」
二人に背を向けた時、井坂が馬鹿にするように言った。隣でカタクリコが生唾を飲み込んだ。
「……どういう意味?」
自分の意に反して、僕は振り返っていた。みぞおちの部分がじわじわと熱を持ってきて、やがてそれは喉の方へと昇っていった。
「言ったままの意味だよ」
井坂が挑発するように言った。
「月島くん。行こう」
彼女が僕の腕を引いた。伊織以外の女性に触れられるのは初めてだった。
「オタク同士、仲良くしてろよ」
横にいるカタクリコの表情が変わった。先ほどまであんなに饒舌だったのに、彼女はもう何も言い返さなかった。よく見ると、手が震えている。
震えるカタクリコを見て、みぞおちで生まれた熱が沸点に達した。そして僕は、勢いでカタクリコの帽子を取った。
「よく見てよ、彼女のことを。僕とお似合いなわけないだろう」
突然のことに、カタクリコも前の二人も驚いていた。特に素顔があらわになった彼女の顔に一番驚いているのは井坂だった。
「こんなにかわいい女性が僕とお似合いだって? 彼女に失礼だろう」
「……なんだよ。いきなり」
井坂が目を泳がせながら言った。その態度が無性に僕を苛立たせた。
「釣り合いがなんだよ。僕は彼女といて楽しいんだ。君にとやかく言われる筋合いはないよ」
「だから、オタク同士お似合いだって、言ったろう」
「そういうことじゃないだろう!」
僕は井坂に怒鳴った。井坂は目を丸くして、口を開けたまま放心していた。見物客が多くなり、井坂の隣で尊が焦り始めた。
「僕が誰とどんな風に過ごそうが、君がどうこう言っていいはずないだろう! 彼女たちと釣り合ってないことくらい、僕が一番分かってるんだ!」
「歩、落ち着け」
「うるさい! こうなったのは全部君のせいだろう!」
勢いで、僕は間に入って宥めようとする尊にそう言い放った。彼は青い顔をしており、初めて見る彼の狼狽した表情に溜飲が下がる思いだった。
「みんなで僕を下に見て、僕が少しでも楽しそうにしていたら口出しして、何なんだよ! 僕が君たちに何かしたか! 言ってみろよ!」
「……意味わかんねえよ」
「分からないのは君に理解力がないからだろう! だから君は人を傷つけるんだ。JAでの一件のようにね!」
「なんだとこの野郎!」
井坂がものすごい勢いで、再び僕の胸倉をつかんだ。顔を真っ赤にして右腕を振りかぶり、その拳を今にも僕にぶつけようとしていた。
「さとし、やめろ! 歩も落ち着け!」
「月島くん、だめだよ、喧嘩したら!」
尊が井坂を、カタクリコが僕を抑え込んだ。僕と井坂は引きはがされた後も、訳の分からない言葉で互いを罵り合い、場は一時騒然となった。
騒ぎを聞きつけて店の上司が様子を見に来た。尊は井坂を落ち着かせながら、その上司に端的に説明をしていた。その隙に僕はカタクリコに小声で逃げるように言った。
「いやだよ……だって、私が挑発したからこうなったんだし」
カタクリコが今にも泣きそうな顔で言った。その表情を見て胸が苦しくなった。
彼女はいつも飄々としている。それが彼女の良いところであり、かわいらしい一面でもあるのだ。それを奪った井坂の態度に再び怒りを覚えたが、なるべく平静を保ちながら言った。
「僕と彼は前から確執があったんだ。だから君は関係ない。巻き込んでごめんね」
だから行って、と言うとカタクリコは僕と井坂を一度見比べて、渋々頷いた。
「病院で待ってるから、必ず来てね」
去り際、彼女は震える手で僕の手に触れ、心配そうに呟いた。僕は分かったと言って彼女を送り出した。




