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その傘をはずして  作者: L.Y
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(7)

 空はぐずついていたが、誰かにここぞという時のために焦らされているように雨は降っていなかった。校内はインターンの総評を提出に来た生徒や、部活生などがまばらにいたが割と静かだった。


 自販機で飲み物を購入し、売店のベンチに腰掛けた。今日は伊織も朝から学校に来ているそうで、昼過ぎに一緒に帰る約束をしていた。

 何かがずっと、頭の中で引っかかっていた。ぐずついた空を見ながら、それが伊織のことであるということに思い至った。


 悶々としていると、三十分ほどしてから伊織が現れた。


「お待たせ。何飲んでるの?」


 梅昆布茶、と言うと、伊織がマネしないでよ、と言って自分も梅昆布茶を購入し、僕の隣に腰掛けた。


「インターンどうだった?」

「うん、まあ、いろいろとね」


 特に興味もなさそうに、ずず、と彼女は梅昆布茶をすすった。僕の梅昆布茶はもうすっかり冷めていた。

 教室に荷物を取りに行くと言うので、彼女について行った。スカートの下から伸びる白くて長い足を躍動させながら、彼女は階段を力強く上った。僕はそんな彼女の背中を見ていた。


「おい」


 荷物を取って廊下に出た時、後ろから声がした。二人で振り返ると、廊下の先に井坂が立っていた。

 井坂はつかつかとこちらに歩み寄ってきて、僕らの前で立ち止まった。目は閉じられているかと思うほど細められ、やや角度があることから何か怒っているようだった。


「なんで、俺じゃダメなんだよ。雅田」


 井坂が伊織を睨み付けながら言った。伊織は井坂の顔をじっと見上げたまま、何も言わなかった。

「おまえ、こんな奴がタイプなのか?」

「そうよ」


 伊織は毅然とした態度で言った。井坂は苛立ちながら奥歯を噛みしめ、見下すような目つきで僕を見た。


「見る目ねえよ、おまえ」

「あなたは常識がないわ。あと、私のことをおまえなんて言わないで」


 伊織は一歩も引かない。雰囲気で井坂が押されているのが分かる。


「こいつのどこが好きなんだよ」

「あなたに言う必要はない」


 行きましょう、と言って伊織は僕の手を取った。しかしそれが彼の逆鱗に触れたようで、井坂は僕の肩を握りつぶしそうな強い力で掴んだ。


「おまえは、雅田のどこが好きなんだよ」


 井坂は唇をわなわなと震わせながら言った。力では敵わないはずなのに、不思議と怖くなかった。彼がすがるような、おびえるような態度に見えたからだ。


「僕は……」


 分からなかった。伊織のことをどう思っているのかも、彼女に対してどんな感情を抱いているのかも。 見てくれは恋人同士だが、僕らは本来友達同士でもない。仲良くやっているが、それはあくまでもおばあちゃんをだますための演技だ。彼女はただ僕を利用しているだけで、僕も彼女のことを利用している。それが僕らの契約である。


「ほら。答えられない」


 井坂が勝ち誇ったように言った。図星を突かれたことが悔しくて、僕は井坂の手を強引に離した。井坂は動じず、僕にとどめを刺そうとする。


「漠然とした憧れが叶っただけなんだろう? お前にこいつの何がわかるんだよ!」


 どんどん心が収縮していくようだった。井坂に対して今まで感じたことのない憤りや憎しみがあったが、それを放出することができなかった。すべて彼の言う通りだったからだ。


「……君は伊織の何を知っているの?」


 すると井坂は険しい顔つきになり、伊織を見た。


「俺たちはな……」


 何かを言いかけた井坂の言葉に、伊織の顔色が変わった。


「歩は関係ない! それにもう、気にしないでって言ったでしょう!」


 伊織が前に出て強い口調で言った。関係ないという言葉が、粘性を帯びて僕の脳内に絡みついた。そのまま二人は激しい言い合いをしていたが、僕の耳には何も入ってこなかった。


 井坂の言う通り、僕は伊織の事を何も知らない。それは友達や、彼女にあこがれを抱いている人でも知っているようなことさえもだ。井坂が伊織の何を知っているのかは分からないが、少なくとも彼は伊織のことについて、僕よりも「何かを知っている」のだ。


 いがみ合っている人間が知っていて、いつもそばにいる人間が知らないなんて、よく考えるとありえない状況である。そんな状況下で恋人同士を演じているということに、今更ながら違和感を覚えた。僕と伊織の関係は一体何なのだ。


 激しい稲光がして、廊下全体が白い光に包まれた。無意識に見た窓ガラスに、ひどく青ざめた僕の顔が反射して映っていた。頭の中が沸騰しているように熱く、水の中から二人を見ているように目の前がゆらゆらと揺れていた。


「歩。行くわよ」


 有無を言わせず、僕は伊織に引っ張られた。階段を降りる直前に井坂を見ると、心なしか彼の顔には暗い陰が落ちているように見えた。


 爆発するような雷の音がして、それが始まりの合図のように、廊下の窓を雨粒が叩く音が聞こえた。その音は次第に感覚が短くなり、瞬く間に校舎全体が重みのある雨音の轟音に包まれた。外は次第に、傘を差していても濡れてしまいそうなくらい雨の勢いが増し、売店前の大楠の葉が風で踊るように揺れていた。


「降ってきたわね」


 伊織はおもむろに、かばんの中から折り畳み傘を取り出した。僕はただ窓の向こうを見ていた。窓を滑り落ちる雨の滴も最初は一筋だったが、それが幾重にも重なって交わり一つの川のような流れを作っていた。蛍光灯が切れかかっているのか、明滅している灯りが廊下のウレタン樹脂床材に反射して点滅しているように光っていた。


「歩、傘持ってきた?」


 その平然とした態度に、僕は歯がゆいいらつきを覚えた。


「さっきの、何?」


 自分でも驚くほど低い声だった。


「……ちょっと、いろいろあって」


伊織は視線をそらし、言い訳をするように言った。


「告白されたの?」

「まあ、そんなところ」

「いつ?」

「……随分前から、何度か」


 随分前というのは、きっと僕たちが出会う前からという意味だろう。校内では僕と伊織が交際しているということを皆が知っていたので、そんな風に言い寄られていたなんて全く気付かなかった。


「何で言ってくれなかったの?」

「……」


 伊織は答えなかった。自分でも、何故こんなに苛立っているのか分からなかった。


「君と僕は恋人関係じゃない。だから君に好きな人ができても、告白されてもかまわない。でも、そのことで僕が一方的に被害を受けるのは違うと思う」

「……そうだよね」

「僕と彼は同じ企業体験だったんだ。彼の素行が悪かったのは君が原因だったんだね」


 井坂の犯した事件を知らない伊織はしばし考えるような顔つきをしていたが、その仕草も無性に腹が立った。


「今だって反省しているふりをしているだけじゃないの。君は演技がうまいからね」


 言いすぎている。そんな自覚はあったが止められなかった。

 僕の言葉に、伊織が顔を上げた。口が真一文字になり、その大きな瞳が溺れるように潤み始めていた。


「そんな、ひどいよ……」


 校舎の壁を激しく叩く雨音の隙間から、震える声が聞こえた。瞬きをした瞬間、両目から水滴が零れ落ちた。告白をした時、彼女は泣き真似の演技をしていたが、今回はどう見ても演技ではなかった。


 伊織の涙を見て、途方もない罪悪感が広がった。ただ、片山さんの問いかけや、井坂の核心を突いた発言が胸の中に充満して、その罪の意識は中和された。


「今日はもう帰るよ」


 伊織に背を向けて靴箱に向かった。靴を履き替え昇降口に出ると、進行を妨げるような強大な水の壁が立ちはだかっていた。雨粒が舞うように降っており、風で吹き飛ばされた木々の葉が一面に散乱していた。


「待って!」


 後ろから追いかけてきた伊織は、靴も履かずに僕の隣に来た。


「……ちゃんと話し合おうよ」

「話すことなんかない」


 僕は彼女を置き去りにして一歩を踏み出した。巨大な雨の雫は瞬く間に僕の半身を水浸しにした。

その瞬間に、伊織に手を掴まれた。彼女の手はひどく熱を持っていた。


「濡れちゃうよ」


 伊織は折り畳み傘を僕の頭上に掲げた。子ども扱いされているようで、僕はその手を振り払って雨の中に飛び出した。


「歩!」


 伊織が上履きのまま追いかけてきた。その中途半端な優しさがたまらなく鬱陶しくて、彼女を無視して歩く速度を速めた。


「お願い、待って!」


 地面を叩く強烈な雨音と、空を切る風の高い音が乱舞する中でもなお、彼女の声は鮮明に聞こえた。その叫びは縁取りされているように色濃く、僕は後ろ髪を引かれるように立ち止まった。

 僕らは雨に打たれながら、しばらくの間お互いを見つめ合っていた。


 ――僕の平穏が壊されたのは、全部君のせいだ。


 そんな意味合いを込めた瞳で、伊織を見た。憎しみをすべて受け止めるように、伊織は僕から視線をそらさなかった。雨に濡れて何本か束になった髪の間から、彼女の怯えるような瞳が覗き見えた。


「今ちゃんと話さなかったら、私たち、もう終わりだと思う」


 半べそをかきながら、伊織が僕に一歩近づいた。それは屋上から飛び降りようとする自殺志願者に、恐る恐る近づくような慎重な一歩だった。


「終わりでいいじゃないか。全部嘘だったんだし」


 僕が吐き捨てるように言うと、伊織は距離をさらに詰めて強く僕の腕を掴んだ。突然のことに驚いていると、伊織は悲しそうな顔で首を横に振った。


「そんなことない!」


 伊織が顔を歪ませながら強い口調で言った。


「歩と過ごした一ヶ月、私は楽しかった。これは嘘じゃないよ」


 吐息がかかる程の距離に、彼女の整った顔があった。雨に濡れたその相貌は、僕と彼女の住んでいる世界が天と地ほども隔絶されているということを如実に表しているほどに美しかった。そんな彼女の顔を見て落胆が濃さを増した。


 身の丈は分かっている。いくら過大評価しても、やはり僕と彼女では住んでいる世界がまるで違う。こんなどうしようもない僕のために、何故ここまでできるのか。何故そんなまっすぐな瞳で僕を見るのか。


 逡巡した後、僕はゆっくりと彼女の手を引きはがした。


「終わりでいいんだよ。何も始まっていないんだから」


 彼女を拒絶し、僕は校門に向かって歩いた。滝のような雨をぐっしょりと吸い込んで制服が重くなっていた。


「歩、待って!」


 追いかけてきた伊織に肩を掴まれたが、それを乱暴に払いのけ、今度は走って校門まで向かった。手を振り払った時に彼女の顔が一瞬だけ見えたが、その時の彼女の哀願するような表情は胸に迫るものがあった。

 僕は雨に煙る校内を駆け抜けた。背中越しにずっと伊織が僕の名前を呼んでいたが、今度は振り返らなかった。


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