(6)
夏休みに入ってからも入試対策の特別補習があったので、一週間ほど学校に通わなくてはならなかった。
補習の後、伊織と都合が合う時は一緒に雅田家に行くこともあった。もっとも僕は終始暇なので、主にそれは彼女の予定に左右された。彼女は十月にある文化祭の実行委員も務めていたため忙しいのだ。
雅田家では特別なことをするわけではなく、ただ縁側でスイカを食べたり、布団を干すのを手伝ったり、近所のスーパーに夕飯の買い物に行ったりした。最初に感じていた他人の家の独特な匂いにも慣れて、いつしかおばあちゃんも僕のことを歩くんと呼んでくれるようになった。
伊織が学年で極めて上位の学力の持ち主なのは知っていたので、たまに勉強を教えてもらったりもした。
「また間違えてるじゃない! 何回言えば分かるのよ。覚える気あるの?」
課題を解いていると、度々伊織の罵声が飛んできた。もちろん、おばあちゃんが部屋にいない時に限ってだ。おばあちゃんの前での僕は頼れる恋人を演じないといけないので、彼女の尻に敷かれている光景を見せるわけにはいかない。
伊織もそれが分かっているようで、おばあちゃんがいるときは笑顔で静かに僕の二の腕をつねった。彼女は地獄のアドラメレクのように狡猾な女性である。
一つの問題が終わると休むまもなく次の問題を指示され、少しでも間違えると彼女は目を吊り上げた。
「一度間違えたら、ちゃんと次間違えないように学習しなさい!」
「……自分は皿も洗えないくせに」
「何? ひっぱたくわよ」
振り上げた右手に萎縮し、僕は平謝りして再びペンを動かす。受験の天王山は思いのほか険しい。
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補習期間が終わると、あっという間に八月になり、インターンシップの日がやってきた。当日の朝は空が少し曇っていて、雨が降る前に香るあの独特の匂いがアスファルトから立ち昇っていた。
バスに二十分程揺られていると、車窓から四角い建物の上に設置されているJAの看板が見えた。今日から二日間、朝から夕方まで職場体験をしなければならない場所である。
参加者は、僕と一組の井坂という男子だけだった。井坂はいわゆる今風の男子で、僕よりも背が高く、流れるような短髪で狐のような細い目つきをしていた。ベルトからシャツの裾が飛び出ており、制服を着崩すことがかっこいいと思っている部類の男子で、僕の苦手なタイプの人間だった。
応接室で叔父と所長と面談をした後に、二日間のスケジュールが印字されたプリントをもらい、早速実際の業務に携わることになった。
僕と井坂は交代で主張所の内勤業務と、スーパーでの業務を行うことになった。最初は僕がスーパーの業務で、井坂が内勤業務に配属された。スケジュールを見る限り、僕らが交わるのは昼食の時と帰宅する時のみで、それだけが不幸中の幸いだった。
所長に教育係を担当してくれる、片山という女性を紹介してもらった。
片山さんは母と同じくらいの年恰好で、どこにでもいそうなおばさんという風貌だったが、ちょっと心配になるくらい声がしゃがれていた。片山さんは農協と書かれた四角い帽子と緑色のエプロンを着用しており、僕も同じ作業着に着替えた。
倉庫の中にはいろいろな機材があり、ダンボールが多く積み上げられていた。シャッターの近くには野菜を運んで来たトラックが駐車されており、僕はそれらを搬出、仕分けをする作業を行うことになった。大変な力仕事で、あっという間に汗が噴き出てきた。
搬出作業を終えると、次は鶏肉のパックにラベルを貼るという仕事を任された。計量プリンターと呼ばれる秤のようなものにラッピングされた鶏肉のパックを置くと、デジタルの画面に100g辺りの値段が表示され、それがシールになって出てくるといった仕組みだった。
片山さんと世間話をしながら、僕はもくもくと今日並べる分の肉を軽量し続けた。片山さんはお酒が好きで、その病的なしゃがれ声はきっと酒によるものだと思った。
片山さんには僕と同じ学校に通う同い年の娘がおり、その子は伊織のクラスに在籍しているらしい。娘も今日デザイン会社にインターンシップに行っているが、ここに来ればいいのにねぇとぼやいていた。そうですね、と言ってはみたが、僕が当人の立場になったら親の働いている会社で職場体験をするのはやっぱり嫌だと思った。それから直売所への野菜の品出しや、販売業務などに携わっていると、あっという間に昼になった。
所長から昼は出張所の休憩室で食べるということを聞かされていた。休憩室は十帖ほどの和室で、漆色のテーブルとテレビがあるだけの殺風景な部屋だった。部屋にはすでに僕以外の社員がいて各々食事を取っていた。井坂は窓側の端っこの席で、昼のバラエティ番組を見ながらパンの袋を開けていた。
「あっちの仕事はどうだ? 結構ハードだっただろう」
「はい。とても」
弁当を食べながら、今朝からの一連の業務の感想を述べた。所長やその他の社員からもねぎらいの言葉を受けて、その場所での居心地は悪くなかった。
「井坂君はどうだい? 仕事大変だったかい?」
「……いえ、別に」
井坂は片膝を立ててパンをかじりながら、所長と目を合わせずに答えた。その横着な態度に楽しい雰囲気が一変し、それを機に誰もが喋らなくなってしまった。僕は弁当を早々に平らげ、倉庫のダンボールの片づけが途中だと嘘をついてその場を離れた。
午後は店内に陳列されている商品の賞味期限を調べる作業を行った。棚の奥にある賞味期限間近の商品を手前に入れ替えるという作業である。店内はそこまで広くはないが、作業には意外と時間がかかり、終えたころ片山さんに休憩をしようと言われた。
「月島くんは、彼女いるの?」
片山さんがしゃがれ声で聞いてきた。
「ええ、まあ一応」
僕と伊織は、雇用主と社員との間で交わされる一種の契約のような関係である。だから本当はいないと答えるべきだが、片山さんには伊織と同じクラスに娘がいるので、本当のことを言うわけにはいかない。
しかしそのことで急に火が付いたのか、片山さんが彼女の写真を見せてとせがんできた。僕は仕方なく、携帯電話で一枚だけ撮影した写真を見せた。
「うっわ! めちゃくちゃ美人じゃない!」
片山さんはうわずったしゃがれ声で叫びながら、液晶を食い入るように見ていた。
それは僕と伊織が、楠木の下で顔を近づけている写真だった。彼女の指示で待ち受け画面にしていたが、極力誰にも見せないようにしている。片山さんは何故か残念そうに携帯を僕に返した。
「もしも彼女がいなかったら、うちの娘を紹介したのに。あの子いつもゲームばかりしているから、恋人でもできたら外に連れ出してくれると思っているんだけど。知ってる? プレーヤーが社長になって、日本全国を電車で回るゲーム」
僕はあの国民的に有名なゲームの名前を口にした。プレーヤーが順番にサイコロを振り、指定された目的地に最初にたどり着いた人が勝ちというルールで、その目的地に着く間に金額を増やしたり、物件を購入したり、資産を食い尽くすおぞましい貧乏神が付いてきたり、それを相手に擦り付けたりするあの面白いやつである。
「せっかくの夏休みなんだから外で遊ばなきゃ。月島君の彼女は、ゲームとかしないんでしょう?」
「ええ、まあ」
と言いつつ僕は、あれ? と思った。
本当に伊織はゲームなどしないのだろうか。よくよく考えてみると、僕は伊織の趣味どころか、好きなテレビ番組や、食の好み、好きな色に至るまで、彼女のことについての知識が乏しいことに気付いた。
それに何より、今の彼女の状況だ。彼女はいつか、ある事情でおばあちゃんと二人暮らしをしていると話していたが、実際どういった事情があるのだ。今更ながら、彼女の両親はどこにいる。僕は彼女のことを何も知らないじゃないか。
「月島くん、大丈夫?」
だいぶ思いつめていた顔をしていたのだろう。僕は適当にはぐらかして、残りのアイスを食べ終えた。
休憩を終えると、レジを打つ業務を行った。夕方になると、近所の常連客が夕飯の買い物に訪れて店内はにぎやかになった。
レジ業務を終えた頃には、予定していた時間を一時間ほど過ぎていた。
片づけを終えて出張所に帰ると、職員達は営業終了後の後作業をしていた。しかしそこに、井坂の姿はなかった。
「井坂君なら、もう帰ったよ」
井坂は就業のブザーが鳴ったと同時に、そそくさと帰っていったそうだ。所長と叔父は複雑な顔をしていたが、僕は井坂と顔を合わせずに済んで内心安堵していた。今日一日を通して、彼とは一言も口を聞いていない。
その夜、叔父から電話があった。内容は井坂のことだった。
井坂は今日一日を通して、勤務態度がすこぶる悪く、小さいミスを連発したらしい。
幸い業務に支障が出るほどの惨事にはならなかったが、明日は販売業務も行うので、お客さんとトラブルにならないか心配そうに話していた。一抹の不安はあったが、叔父に動揺と不安を感じ取られないよう適当にごまかして受話器を置いた。
翌日、いきなり僕の不安は的中した。集合時間になっても、井坂が現れないのだ。
仕方なく叔父と所長に事情を話すと、二人ともあきれ返っており、僕が内勤業務を始めて一時間が経過したころ、気怠そうに鞄を担ぎながら井坂は現れた。
所長は怒鳴りこそしなかったが、声には怒気が含まれており、顔は一切笑っていなかった。井坂は特に悪びれた様子もなく、平謝りをしてスーパーの業務に入った。
伝票整理や郵便物の仕分け、窓口での応対業務をしているうちにあっという間に昼になった。内勤はスーパーの時のように動き回らなくてもいい分、計算や管理表の記入など頭と神経を使う場面が多いと感じた。
昼休み、休憩室に井坂は現れなかった。所長に呼んできてほしいと頼まれたので僕は仕方なく井坂を探しに行った。
井坂は倉庫で段ボールの解体作業を行っていた。それは作業というよりも破壊に近い動作で、彼の周りには所々が破れた段ボールが散在していた。
「井坂君。お昼だってよ」
内なる怒りをぶつけるように、井坂は段ボールを蹴った。僕の声かけには答えない。
「ねえ、井坂君。ごは、」
「うるせえな。遅刻したから昼休み返上するって言っとけよ!」
井坂が吠えるように言った。彼は何日も餌を与えていない虎のような獰猛な瞳で僕を睨みつけていた。大声に当てられ、胸がせり上がるような嫌な気分になった。
休憩室に戻ろうとした時、背後で厭味ったらしい舌打ちと、くそ、という嫌悪感丸出しの台詞が聞こえてきた。所長と叔父に事情を話すと、二人とも明らかに井坂に手を焼いているようで、僕は昨日同様、昼休みなのにとても肩身の狭い思いをした。
そんな横柄な態度だったので、井坂は午後の業務でも些細なミスを連発した。搬出作業や商品の入れ替えも、片山さんが何度注意しても満足にできず、レジ打ちの業務を行う際には、金額のボタンを打ち間違えたりお釣りを台にばらまくなど、レジに長蛇の列ができたようだった。
挙句、井坂は就業時間ぎりぎりになってとんでもないことをやらかした。
それは僕が窓口で札勘機を使用しお金を勘定していた時のことだった。後ろがにわかに騒がしくなり、こっそり様子を伺うと、何人かの男性職員が慌てた様子でスーパーへの連絡通路へ走っていた。気にはなったが、僕は初めて触る数百万円のお金に緊張していてそれどころではなかった。
窓口の客を捌ききりようやく業務が落ち着き始めた頃、様子を見に行った女性職員がスーパーであったことを話しており、僕は職員たちの会話に聞き耳をそばだてた。
事件の全貌はこうだ。井坂がレジをクビになり、商品の品出しをしている時、あろうことか彼は買い物をしていた老婆を突き飛ばしてしまった。老婆は床に倒れ、辛そうに足をさすってうずくまっていた。辺りには、老婆が購入しようとしていた買い物かごの中身が散乱し、割れた卵やつぶれたトマトが床一面に広がり悲惨な状態となったそうだ。
それを見ていた男性客が井坂を注意したのだが、井坂は終始言い訳ばかりをして、老婆に対して簡易的な謝罪しかせず、駆け付けた所長の怒りがついに爆発した。その老婆は夕方の買い物客も顔なじみが多く、店内では老婆を擁護するような舌戦が繰り広げられ一時騒然としたのだという。
就業時間が終わり、職員の人たちと室内の掃除をした後、僕は休憩室で手持無沙汰のまま待機していた。
日の光がオレンジ色を帯びてきた頃、髪を振り乱した叔父が休憩室に駆け込んできた。叔父は息を切らせながら、僕にもう今日は帰っていいと告げると、再びどこかへと消えて行った。時刻は七時を過ぎていたが、JA全体が騒がしく、職員は誰一人帰宅していなかった。お世話になった方々に挨拶をして帰りたかったが、介入できるような空気ではなかったので、申し訳ない気持ちでJAを後にした。
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翌日僕は学校へ出向いた。インターンシップが終わった後は、職場の責任者に書いてもらった総評を学校に提出しないといけない決まりになっていたからである。
学校へ着くなり担任の小林先生を訪ねると、先日の井坂の一件は既に明るみになっていた。昨日の騒動で総評を書いてもらえなかった事を話すと、気にするなと言われた。
「それより、昨日のことを説明してくれないか」
小林先生は三十代前半の男性教師で、今年のインターンシップの責任者でもあり、井坂の一件で精神をやられたのか、十歳ほど老けて見えた。僕は自分が知りえる限りの事件の大まかな内容を話したが、それはほとんど小林先生がJAの所長から聞いた情報との答え合わせに近い作業だった。
「しかし、大変なことになったぞ」
小林先生は長いため息を吐くと、声を抑えるようにして語り出した。
あの事件の後、老婆の息子がスーパーに乗り込んできて大騒ぎになったそうだ。
所長や叔父、スーパーでの責任者の片山さんが何度も頭を下げ続け、老婆の息子はようやく落ち着きを取り戻したが、井坂は終始不貞腐れたまま形式的に頭を下げているだけで、全く反省している素振りを見せなかったそうだ。
JAはインターンシップが始まった頃から当校を贔屓にしてくれていたが、今回の一件で来年以降のインターンを見送るどころか、今年度の求人にも影響が及ぶ可能性が浮上してきているらしい。
幸い老婆は大したけがもしておらず、今では普通に歩行できるそうだが、老婆の息子は井坂が反省していないことに憤りを覚え、皆の前で盛大に怒鳴り散らしたのだという。現在井坂は教室で反省文を書かされているそうだ。
「月島のことは、所長さんも褒めていたぞ。真面目で器用に仕事をこなすいい生徒さんだったって。だから、井坂のことは特に目立って素行が悪いように見えたのだろうな。それに、あいつは事件を起こす前から態度が悪かったのだろう?」
僕は曖昧に頷き、業務中は別れて作業をしていたから、あまり彼とは関わらなかったと説明した。それから小林先生と二、三話をして職員室を出た。