遺体はどこへ?『すみれが丘マンション』で起きた飛び降り自殺の不可解な顛末(『月刊・新風』1982年3月号より抜粋)
「真夜中にドーンっていう音がして、慌てて目を覚ましたよ。ああ、またかって思ったね」
すみれが丘マンションに住む津田さん(仮名・58歳・会社員)は溜息混じりに語ってくれた。
「屋上ドアには鍵をかけてるって言うけどね、どっからともなく入って来るんだよ。だいたい、屋上まで行かなくても最上階の非常階段からだったら十分だって話だ。
それでわざわざ人様の家までやってきて飛び降りてく連中がいる。まったく意味が分からないよ。
人生の最後だってのに、なんで縁もゆかりもない場所から飛び降りようだなんて思うのかね」
昨今、高層マンションからの飛び降り自殺が深刻な社会問題となっている。
ここ、すみれが丘マンションでもたびたび飛び降り自殺が発生しており、住民たちの悩みの種となっていた。
管理会社は屋上ドアの施錠や高いフェンスの設置などの対策を試みているものの、非常階段のように避難経路として開放が義務付けられている場所については、実質的に打つ手がない状態だ。
「人が飛び降りるとね、凄い音がするんですよ。そりゃそうだ。60キロくらいの肉の塊を落としたらデカい音がするに決まってる。何度も聞いてると分かるようになるんですよ。ありゃ人が落ちた音だって。……妙に、水っぽい音がするんだ」
マンション住民の中には自殺を直接目撃し、ノイローゼになって引っ越していった者も後を絶たないという。
また、敷地内で遊んでいた小さな子供が遺体を発見し大騒ぎになったケースも存在する。
マンションでは管理会社と自治会が協力して夜間帯の見回りなどを強化しているものの、それでも自殺者は後を絶たない状態だ。
しかし、この『すみれが丘マンション』では、他の高層建築では見られない奇妙な事象が起こっているという。
「確かに音がしたってのに、翌朝になるとどこにも仏さんがいないと来た。地面の上にでかい血痕が残ってるのに、誰もいないなんておかしいでしょう。まさか、屋上から飛び降りた奴が起き上がって歩いて帰っただなんて、そんな馬鹿な話があるもんか」
実際に、すみれが丘マンションでは「飛び降り自殺が起こった」と通報が入り、警察が駆け付けたものの遺体が発見できなかったというケースが複数件確認されている。
これについて、すみれが丘マンションで密かに囁かれているのが、死体を喰らうという謎の怪異「ががも様」の存在である。
「ががも様」はこの地方に古くから語り継がれる存在で、その姿は成人男性を遥かに上回るほどの巨大な蜘蛛だと言われている。
マンション住民の中には、「ががも様」が深夜のマンションの外壁にべったりと貼り付いていたのを目撃したという者も存在する。
「自分は見たことないけど、家内は見たことがあるって話してたよ。何でも夜中に喉が乾いて目を覚まして、ふと窓の外を見たら、向かい側の棟の外壁にどでかい蜘蛛が張り付いていたんだとさ。
俺は信じちゃいないけど、確かにこのマンションは妙に蜘蛛が多くてうんざりする。どこから入るのか、いつの間にか部屋に入り込んできやがるんだ。一度なんて、昼寝をしてる間に口の中に入り込もうとしやがって……思い出すだけで心底ぞっとするよ」
果たして「ががも様」は実在するのだろうか。
一見すると突拍子もない怪談の類に思えるが、実はこのすみれが丘(旧・栖網喪岡)周辺には、古い土蜘蛛伝説が残されているのだ。
土蜘蛛とは本来、大和朝廷に従わず洞窟や竪穴に住んでいた先住系の豪族や人々に対する差別的・侮蔑的な呼称であり、直接的に蜘蛛の怪物を示すものではないとされる。
しかし、大和朝廷は政権に逆らう「異端」を討伐する際、自らの正当性を誇示する英雄譚として、彼らをしばしば異形の怪物や巨大な蜘蛛に仕立て上げてきた歴史がある。
すみれが丘周辺に点在する穴や洞窟にも、かつて追いつめられた「土蜘蛛」の一族が隠れ住んでいたと伝えられており――「ががも様」とは、虐殺された人々の怨念が長い年月を経て真の異形へと変貌を遂げた姿なのかもしれない。
果たして、消えた遺体はどこへ去ったのか。
今なおこの土地の底深くに蠢く古代の怨念がこの騒動の根源であるならば、まさに身の毛もよだつ怪異と言わざるを得ない。




