1
世界は、ろ過されていない「生データ(RAWデータ)」の暴力で満ちている。
四月上旬の、雨上がりの朝。
アスファルトの無数の微細な孔から立ち上る、ゲオスミンの匂い。放線菌が放つその土臭い有機化合物の分子構造が、私の鼻腔の嗅細胞を必要以上に刺激し、脳の扁桃体をじりじりと焦がしていく。
下を向けば、路面に敷き詰められた黄色い点字ブロック。規則的に並ぶ丸い突起を踏みしめるたび、安物のスニーカーの薄いソールを透過して、不均一な圧力のベクトルが足裏の触覚受容器を直撃する。
右からすれ違った就活生らしき男のスーツからは、安価な柔軟剤の人工香料――エステル系の甘ったるい揮発性有機化合物――が排気ガスのように放出され、私の呼吸を物理的に塞いだ。
左から歩いてくる女子学生のナイロンジャケットが擦れ合う「カサ、カサ」という摩擦音は、まるで鼓膜のすぐそばでプラスチックのシートを引き裂かれているかのように鋭く脳幹へ突き刺さる。
すべての環境情報が、重要度のソートもデシメーションも行われないまま、私の脳に一斉にダイレクト・メモリー・アクセス(DMA)を仕掛けてくる。
感覚処理障害(SPD)。
医師は私の脳の特性をそう定義した。定型発達者と呼ばれるマジョリティの人間が、生存に不要なノイズとして無意識に切り捨てるはずの背景情報を、私の脳はすべて等価値の、等しく凶悪な「生データ」として受信し続けてしまう。
ふと、歩道の脇に張られた錆びた金網フェンスが視界に入った。
そのひし形の金属網に、いつから放置されているのか、黄色い子供用のビニール傘が引っかかっていた。
ビニール地の一部は引き裂かれ、骨組みの細いスチールが一本、折れ曲がって露出している。湿った朝の風に煽られて、破れた黄色いビニールがパタパタと不規則な周期で揺れている。
その物理的な運動の「非対称性」と「予測不可能性」が視覚にフリッカー現象を起こし、私の脳の処理領域をさらに圧迫していく。
早く、あの傘の可視領域から脱出しなければ。脳がオーバーヒートを起こし、低血糖の頭痛が始まる予兆として、こめかみの奥で血管がドクドクと警報を鳴らし始めていた。
――そのときだった。
行く手を阻むように、行く手の踏切が突如として動作を開始した。
『カン、カン、カン、カン――』
赤く丸い警告灯が交互に明滅し、金属製の遮断機がゆっくりと自重を落としていく。
その瞬間、私のすべての思考が物理的に凍結した。
面白いと思われましたらページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




