55.最初で最後だった
閉じられた部屋。
室内は静かで、外の音は何も聞こえない。
妙な緊張感と微かな後悔だけが伝わってくる。
静かすぎて、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
コウセイさんは離すのを惜しむようにあたしの赤毛を指先に巻き付けていた。普段なら「気安く触らないで」と手を振り払うのに、どうしてもできなかった。――したくなかった。
二人きり。彼に揺さぶりをかけるには絶好のチャンス。
なのに、何も言葉にできない。うまく考えられないまま立ち尽くすしかできない。
――ヴィオレッタは決して良い姉じゃなかった。
コウセイさんは幼い頃から幾度となく心を折られてきた。彼女より少しでも上を行こうとすれば、必ず抑えつけられて「だから駄目なんだよ」「コウセイには向いてないと思うなぁ」と自尊心を傷付けられてきた。
決定的だったのは、コウセイさんの考えた財政難解決の計画案を横取りされたこと。
彼女を『次期会長』に望む取り巻きがやったことだけど、ヴィオレッタ自身も彼らの行動を止めなかった。
コウセイさんの姉への憎しみと無力感、虚無感は膨れ上がり、遂に彼女を害してしまう。彼女の言動、性格を知りながらも止めなかった父親にも憎しみが向いた。
……ヴィオレッタは弟たちに恨まれてもしょうがない造形をしている。
コウセイさんやカミルが凶行に及ぶ理由は十分にあった。――やってはいけないことだけど。
あたしは、こうやってゲームの情報を思い出して、コウセイさんを見逃す理由を探している。
六狼会のことだから関係ない。このまま見過ごしたって、あたしが何か言われることはない。
けど、こうやって躊躇うたびに脳裏でりょーこの声が響く。
更に、ジェイルたちの声と目を思い出してしまう。
あたしは吐息を震わせながら、ゆっくりと深呼吸をしてコウセイさんを見つめた。
コウセイさんは目を細めてあたしを見つめ返す。
「……もっと早く、ってどれくらい?」
「そうだな、半年くらい?」
「半年前って言うと……あたしは自分のことでいっぱいいっぱいで、コウセイさんと出会っても……多分何も起きなかったわ」
「――そう、残念。巡り合わせが悪かったな、俺達は」
本当に、心の底からの残念そうな声だった。
お互い何となく気付いているくせに、はぐらかしながら会話をしている。
あたしは彼から離れ難くてしょうがなかったけど、ゆっくりと一歩後ろに下がった。
彼の指先から赤毛がするりと落ちる。名残惜しそうな視線と指先から、あたしはそっと顔を背けた。
「……コウセイさん」
「何かな?」
「……。……あなた、何か悪いこと、してるでしょう」
横を向いて視線だけを向けて言うと、コウセイさんが目を大きく見開いた。
海のように深い青色の目には驚きだけがあった。
けれど、動揺するでもなく焦るでもなく――ただただ驚くだけ。
彼は何か諦めたような顔をして軽く肩を竦めた。顔をふいっと背け、片眉を下げながらシニカルに笑う。
「してるよ。よく気付いたね」
驚くくらいあっさり認めるものだから拍子抜けしてしまった。
でも、緊張は解かない。扉とドアノブの位置を確認しながらもう一歩後ろに下がる。
そんなあたしの行動を見たコウセイさんがおかしそうに笑った。何もしないと言いたげに両手を持ち上げる。
「何もしないよ、無関係な人間には――……いや、君に何かして変に失望されたくない。もうしているかもしれないけど」
「……しないわ、別に。そんなもの」
「そう、ありがとう。まぁ、君に何かしてもデメリットしかないからね」
彼は普通だった。感情が波立つところを一切見せない。
あたしの方が動揺してしまうくらいに。
「……ねぇ。今からでも、やめない? その悪いこと」
遠回しに自首するよう促してみるけど、コウセイさんは困ったように笑うだけだった。
「嫌だよ、そんな中途半端なことはしたくない。ここでやめてしまったら俺の感情のやり場がなくなってしまう。
この気持ちは――何となく、君には理解してもらえるような気がしてたんだけどな」
あたしは言葉に詰まった。
彼のやっていることはともかく、行動原理や気持ちが”理解できる”のは確かだった。
何故なら、あたしも『悪役』だったから。両親を失った悲しみを憎しみと怒りに変え、幸せな人間が許せなくて周囲を傷つけ、傲慢の限りを尽くしてきた。
彼があたしに向ける感情も、あたしが彼に向ける感情も……互いが『悪役』だから。
この気持ちは決してロマンチックなものでは、ない。
伏し目がちになって、おずおずと唇を動かす。
「……わからなくは、ないわ。でも、理解できることと、やってることを肯定することは別でしょ」
「確かにね。――しかし、君はまるで俺が何をしているのか知ってるみたいに話すね」
肩が震えてしまった。彼の顔をまともに見れない。
追い詰めているのはこっちのはずなのに、まるであたしの方が追い詰められているみたいだった。いや、彼は追い詰められているなんて感じてすらいないみたい。
「まぁいいや。……ロゼリアさん、」
大したことではないと言わんばかりの口調だった。
そして、内緒話をするかのようにあたしの名を呼んだかと思えば、素早く距離を詰めるのと同時にあたしの手を引き――あたしは気付けば、コウセイさんの腕の中にいた。
何が起きたのかわからないまま抱き締められている。
「君に俺の気持ちを理解してもらえて嬉しかった。本当にありがとう。……もう一回くらいデートしたかったな、ちゃんとしたやつ」
惜しむように、ぎゅっと腕に力が籠もる。
彼の体温が伝わってきて、らしくもなく涙腺が刺激されてしまった。
微かに指先が動くけど、これが最初で最後だとわかっているから――動けない。
かと言って抱き締め返すこともできずにいると、ゆっくりと彼の体が離れていく。代わりに彼の顔が近付き、頬に温かいものが触れていた。
目の前のコウセイさんはどこかすっきりした顔で微笑んでいる。
「でも、俺は俺のやりたいことをやめない。誰かに強制的に止められるまではね。
――じゃあ、ロゼリアさん。時間を取らせて悪かった。……またね」
そう言ってあたしの後ろにある扉を開けて、あたしの肩を押した。
コウセイさんの暗い部屋に、廊下の明かりと雪の白さが射し込む。
あたしは何も言えず、何の反応もできず――廊下に押し出されていた。
背後で「さよなら」という小さな声とともに、パタンと扉が静かに閉まる。
コウセイさんの部屋の扉を背に、あたしはその場に立ち尽くしていた。
眼前には窓があって、雪がしんしんと降り続けている。
でも、雪の降る量は少なくなっていた。まるで物語の終わりを知らせるみたいに。
窓に映るあたしの顔は――まぁまぁ酷いものだった。
多分ディディエの言葉を聞いた時よりも、きっと傷付いた顔をしている。
どうしていいか分からずにいると、まるで図ったかのように足音が近付いてきた。
「……ひっでぇ顔」
「……ザイン」
ザインが待ち構えてたみたいに姿を現して、あたしのすぐ傍で立ち止まった。
「何があったんだよ、兄貴と」
「別に……何もないわ」
「……。……あっそ」
流石にこの状況で茶化してくるほどザインも無神経ではなかった。
あたしがあまりにも気落ちしているからか、ザインはこの場に出てきたことを後悔しているみたい。
「はあ」と大きく溜息をつき、ガシガシと頭を掻いている。
「ディディエに謝らせてぇんだけど……今じゃない方が良いみたいだな」
「あんた、ディディエが何言ったのか知ってるの?」
「部屋の前でこの世の終わりみたいな顔して立ち尽くしてたからよぉ……またなんかやったんだろうと思って吐かせたんだよ」
「……さっきのは、以前のあたしのやらかしとチャラで良いわ」
「それとこれとはまた違ぇってわかるだろーが。……チッ、とにかく移動するぞ」
そう言ってザインが手を差し出す。思わず笑ってしまった。
「あんたにはしては優しいじゃない」
「落ち込んだ女をほっとくような真似はしねーよ。相手がお前でもな」
「一言多いわよ」
全くもう、と呟きながら、ザインの手を取る。
ザインがくるりとあたしに背を向けて、ゆっくりと歩き出した。――多分、あたしの顔を見ないため。
今は誰かの気配を感じてないと涙が出そうだから、ザインの手も、背中を向けていることも――その気遣いに救われていた。




