歩み寄って
先日の夜にあんなことがあったものの、昼間のディーは以前と変わらない。求愛の口付けや抱擁はしても、それ以上の行為は何もしてこない。
夜は相変わらずキラと一緒に寝て、キラが嫌がらない範疇でベッドの上で口付けと大人のふれあいをする。
回数を重ねる毎に少しずつ行為がエスカレートしているものの、ディーは一線を守ってキラの秘所には絶対に触らない。
……もちろんキラはそれで構わない。ただでさえこの先の行為をほんの少し想像しただけで恥ずかしくて、ディーの顔どころか服の裾さえ見れなくなってしまうのだから。
「キラ、熱でもあるのか?」
「な、何でもないっ!」
夜の寛ぎ時間。向かいのソファでロックのブランデーを飲んでいるディーを前に、キラは頬を紅潮させてそっぽを向いた。
……ガウンを羽織った姿のディーの色気に胸が高鳴っただなんて、とても言えない……。
そんなキラの心境を知ってか知らずか、ディーは可笑しそうにクックッと笑いながらブランデーのグラスをローテーブルに置く。
「俺のキラは恥じらう姿も可愛いな。こんなに可愛い番がいる俺は本当に幸せ者だ」
「まだ番じゃないもんっ!」
「はいはい。まだ、な?」
最近のディーはこうして意地悪なことを言うようになった。キラにその気があるのだという安心感があるからだろう。
ディーは向かいのソファに深く身を沈めて目を細めている。
こうして余裕のあるディーを見ると、以前見られた精神の不安定さが嘘のようだ。もちろんディーの精神が安定していることは喜ばしいのだが……。
キラが唇を尖らせてムスッとしていると、ディーはまた小さく笑いながら組んだ左膝に頬杖を突いた。
その表情は実に穏やかなものだ。
「俺はキラが大切なんだ。キラが欲しい物は何でもやるし、どんなに無茶な願いだって叶える。俺はキラを幸せにしたいし、俺もキラと一緒に幸せになりたい」
「……こういう事を言ってくるの久々じゃない?」
「ん? そうか?」
「求愛の口付けばっかりで他は言葉にしないんだもん……」
キラの言葉にディーは一瞬ポカンとした後、天井を仰ぎ見ながらため息をついた。
「あー……、やっちまったな。行動と思考が魔族の側面に引っ張られている。これじゃあ俺の口説きがわかりにくくて、大天使のキラが満足しないのも無理はないな」
「……ふふっ、口説きの満足って何だか変なの」
思わずキラが小さく笑うと、ディーは自嘲しながら軽く頭を振った。
「よし。これからはキラにもわかりやすい口説きを心掛けよう」
「え? 何それ? 理性くんを呼ばないといけない奴?」
「何やら警戒されているが、そういう真似は真っ昼間にはしないから安心しろ」
軽く身構えたキラにディーはクスッと笑うと、ブランデーグラスを手に取って一口飲んだ。
「ごく普通の行動だ。キラが好きな物を贈ったりだとか」
「私が好きな物……って、ディーにわかるの?」
キラ自身、好きな物と訊かれてもすぐには思い付かない。思わず首を傾げて考えてしまう。
そんなキラに対してディーはグラスをテーブルに置いた後、右手で指折り数えながら話し始めた。
「まず、お前の趣味はビーズ弄りだ。華美な宝飾品には興味を持たないが、宝石に似た綺麗なビーズパーツや装飾ボタンを集めるのは好きだな。服の好みは飾らない雰囲気の物で、特に好きなのは草花モチーフのワンポイントが入ったワンピース。好みの色は淡い暖色系。好きな食べ物は果物、特に桃と梨だ。甘味を選ぶならクリーム系よりもフルーツタルトやヨーグルトといったさっぱり系。逆に苦手な食べ物は貝類で、辛い物も苦手だな。好きな飲み物は果物と花のフレーバーティーで、角砂糖を必ず一つ入れる。酒と炭酸は少し苦手だが、俺が作るファジーネーブルとアプリコットクーラーはお気に入り。レン達獣人系魔族の獣耳や尻尾を気にしている点から、毛がふわふわした動物が好きと見た。ふわふわといえば、お前は毛布のような掛け物がないと安心して眠れない。枕の高さは低めが好み。早起きは苦手だが、朝焼けの空をぼーっと眺める時間は好き。読書も好きで、俺の書斎でよく読んでいる本は冒険譚。好きな音楽は単調なリズムよりも物語性がある奴。好きな香りはほのかに甘くまろやかな物。草花が好きで、中でもネモフィラなど可憐な花が好み」
「…………うわ、私のストーカーでもしていたの……?」
淀みなく一気に語るディーに気圧されてしまい、キラは軽く引いてしまった。
しかも語られた内容にはすべて心当たりがあるのだから、キラに対する解像度がキラ本人よりも高くて恐ろしい。
そんな風に怪しみの目を愛しい人から投げられたディーが苦笑している。
「好きな相手の好みや行動が気になるのは当然だろう? 別にストーキングなんぞしなくとも、一緒に暮らしていればこの程度はわかるさ」
当たり前のように言われて――……、キラは自分が少し嫌いになった。
だって、そうだろう?
ディーはこんなにも自分の事を知ろうとしてくれていたのに、自分はディーの事をほとんど知らないような気がする……。
「……」
ディーの好きな物とは何だろう……と、キラは考える。
まず、ディーが好きなのは音楽。ピアノとヴァイオリンの腕前は見事なもので、ディーの演奏を聞きながらコッソリと鼻歌を歌うのがキラの密かな楽しみだ。
ディーは酒も好きだが、ただの呑兵衛ではない。飲酒が好きというよりも、純粋に酒という物が好きなのだろう。彼の趣味部屋にある酒のボトルコレクションは見映えがする。
あとは……、好きな服装? ディーは夜鴉公に相応しく品のある格好をしているが、華美に着飾るような真似はしない。
好きな食べ物……。よくわからないが、基本的に好き嫌いはなさそうだ。
好きな色……もわからないが、混じり気のない完全な純白が嫌いだということは知っている。
あとは……、何だろう? こうして改めて考えてみても、自分はディーのことをよく知らない……。
「――ククッ。そんなに熱く見つめられると穴が空きそうだ」
ディーの苦笑が聞こえて、キラはハッと我に返った。ディーをじっと見つめたまま考え込んでしまっていたようだ。
彼はキラに見つめられたことに不快感を示すどころか、むしろ喜んでいるようだ。キラに関心を向けられて嬉しいのだろう。
キラは、ンンッ、と喉を鳴らすように咳払いをしてからディーと向き合った。
「ディーが好きな物って、何?」
「お前」
はい。間髪なく迷いのない答え。さすがだ。
これにはキラも失笑するしかない。
「もうっ、私以外で。ほら、食べ物に好き嫌いはないの?」
「俺は弱肉強食の魔界を生き抜いて這い上がった男だぞ? 食い物の選り好みをしていたら飢え死にしていた。ゲテモノでも食える」
「ちょっ……、重い! 重いからっ! 地雷の話題だったのならごめん……っ!」
「別に地雷でもなんでもない。……軽い冗談のつもりだったんだが、俺の物言いに問題があったな」
不謹慎なことを言ってしまったとキラが落ち込みかけたのを察知したのか、ディーはクックッと自嘲した。
「ま、肉は好きだな。ミディアムレアのステーキには気分が上がる。苦手なのは歯が浮くほど甘い菓子だ。菓子自体は嫌いじゃないから、苦味のあるチョコレートなんかは執務の合間に食ってる」
そういえば、とキラは思い返す。
執務から休憩室に逃げてきたディーはキラ用の菓子をつまみ食いするのだが、ビターテイストの物を選んでいた気がする。
「好きな香りとかは?」
「お前の匂いが好き。一日中抱きしめて嗅いでいたい」
「だーかーらっ! 私以外で、だってば!」
キラが少し拗ねてみせると、ディーはクスッと笑って優しく目を和ませた。
「金木犀の匂いは好きだな。キツい香水は鼻と目が痛くなって吐き気がするほど嫌いだ」
「じゃあ、好きな季節は秋?」
「そうだな。秋の……穏やかな哀愁とでもいうか、あの侘しく切ない雰囲気は好きだな。秋の風も好きだし、紅葉した山々を見下ろしながら飛ぶのも気持ちがいい」
紅葉を見ながら飛翔……、翼を持つ者らしい言葉だ。
以前のキラは飛翔はおろか自身の翼その物にすら関心がなかった。
それが今では、翼が治ったらディーと空の散歩を楽しめるのかもしれない、と期待に似た感情が湧いてくる。
「……ねぇ、翼に触ってもいい?」
「もちろん。ほら、隣に来いよ」
遠慮がちなキラの申し出にディーはこの上なく甘い表情で目を和ませると、キラが座るスペースを空けるために横にずれて座り直した。
キラは誘われるがまま素直にローテーブルを回り込んでディーの隣にそっと腰を下ろす。
直後、ふわりとした風と光の粒子を伴いながらディーの背から翼が具現化した。
室内を照らす淡い魔法の照明に照らされた鴉羽色の翼は、光の加減によって青色や紫色の複雑な光沢を放っている。
「いつ見ても綺麗……」
キラは無意識に呟きながらディーの翼の表面を撫でる。とても滑らかでコシのある感触。極上の肌触りがクセになる。
そんなキラにディーはクスッと笑うと、片翼を使ってキラの体を抱き寄せた。
「ディーは飛ぶの好き?」
「ああ、好きだな」
「他人に翼を見せるのは好きじゃないんだよね? あ、見せびらかすのが好きじゃないんだっけ?」
「そうだな」
ディーは軽く肩を竦めて肯定する。
「お前は忘れがちなようだが、俺達の翼は強さの象徴であると同時に急所でもあるんだぞ? それに俺はフリューゲルの地と魔族を支配する夜鴉公だ。俺の翼は安易に人前で晒していい物じゃない」
「あ、そっか……」
ディーはフリューゲルの頂点に位置する存在であり、魔界全体でも序列第三位という上位魔族。
自分の前では優しく穏やかなディーも、フリューゲルに属する者達にとっては支配者。敬い屈服する対象なのだ。
「あの、さ……。その……。今更、なんだけれど……」
「ん?」
キラがディーの翼の羽根を指先でもじもじと弄りながら口ごもったので、ディーは喉を鳴らすように優しく先を促す。
「……その、フリューゲルはどんな所なの? ほら、私ってばフリューゲルに来てからお城の外に出たことがないでしょ?」
顔色を窺うように上目遣いでおずおずと訊ねられて、ディーの動きが一瞬止まった。
「あ……、そうだな。お前を閉じ込めているつもりではなかったんだが、結果的にはそうなっているよな」
「で、でもっ! 閉じ込められているとか、私はそんな風には思っていないからね! お城にいるだけでも、フリューゲルが素敵な所だっていうのもわかるから!」
心なしか翼をシュンとさせたディーに、キラは慌てて両手を振って否定した。
それに対してディーは軽く眉根を寄せてため息をつく。
「閉じ込めているわけではないが、お前の折れた翼が治るまではお前を城から出したくない、というのが俺の本音だ。お前に俺の加護を念入りに掛けた状態であっても、お前自身に自衛能力がない状態では出歩かせたくない」
「もうっ、過保護なんだから……」
「俺はお前が大切なんだ。お前は俺の唯一無二の番、魂の片割れなんだよ」
「……うん。それもわかってるよ」
キラがディーの心と体に寄り添うように彼に寄り掛かると、ディーもキラを慈しむように腕と翼で抱き寄せてきた。
ディーの翼の中は本当に温かくて、安心して、心地良い……。
「城の外に出たいのか?」
ディーの問いにキラは少し首を傾げた。
フリューゲル城での暮らしは本当に快適だ。窮屈に感じたこともないし、むしろ天界にいた頃よりも心身ともに伸び伸びと過ごしている。
「んー……。興味はあるけれど、今は大丈夫。いつかディーが案内してくれるってわかってるから」
「もちろんだとも。二人っきりで城下町をお忍びデートしような」
「っ?! デッ……!」
サラッと言われた言葉につい絶句して体を起こしたキラに、ディーはクックッと楽しそうに笑って求愛の口付けをした。
「デ、デートって何するの……っ?」
「一緒に町並みや風景を見ながら買い物や食事をしたりして、二人で楽しめればいいんじゃないか? エグシスでお前と出歩いた時なんて、俺は内心デート気分で浮かれていたんだ」
「ええっ?」
エグシスの街にいた頃のキラは少年の姿に《擬態》して振る舞っていた。
休日などはディーの骨董品マーケット巡りに付き合ったりもしたが、傍目から見れば青年のディーと少年姿のキラが並んで歩いている状況だ。
物珍しい品物の数々に興味津々なキラに対して、ディーは説明をしたり知識を披露したりしてくれた。その表情や声音は生き生きとしたものだった。
てっきりディーは未熟なキラの事を弟分だと思ってあれこれ気に掛けて可愛がってくれているのだと思っていたが……、まさか彼はそんな風に感じていただなんて。
「言っただろう? 俺に《擬態》の魔法は通用しない。最初から俺にはお前が女の姿で見えていた、と。――まったく、色々と我慢していたあの頃の俺を誉めてやりたい」
「わっ……!」
何やら語尾に熱が入った……と感じた次の直後、ディーが何度も唇に口付けをしてきた。抑えきれないとばかりに何度も、何度も。
「あぁキラ……、愛している。心の底から愛している。俺のキラ……。俺の、俺だけの……っ」
「ちょっ……、もしかして酔ってるの?!」
ディーの悩ましいほどに熱っぽく色気に満ちた吐息に驚いたキラは、反射的に彼の胸板に手をついて距離をとろうとした。
が、その前に腰に手を回されて彼の腕の中に囚われてしまう。
「俺は酔ってなどいな――……いや、お前に酔っているなぁ。お前が悪いんだぞ? 俺の性感帯を弄くり回して刺激するから」
「……?!」
キラは無意識のままディーの羽根を指先で挟んで擦っていた自分に気付き、慌ててパッと手を離した。
「へ、変な風に言わないでよっ! 理性くん呼んできてッ!」
思わず混乱してひっくり返った声音で訴えると、ディーは「はぁ……」と熱い吐息をこぼした。
「まったく……、お前は狡いよなぁ。いつもそうやっておあずけにして俺を焦らすんだから。自分はベッドの上では俺の手と口で気持ち良く満たされているくせに」
「そ、そんなこと言われても。だってそれはディーが――……、っ!」
反論しようとしたキラの唇をディーが奪った。
そしてそのまま唇から耳元まで啄むように口付けを移動させながら「――まぁ、もっとも」と甘く囁く。
「――もっとも、お前が寝た後に俺は発散させているけどな。それも、お前を起こさないようにわざわざ浴室に移動して」
「?!」
低音に響くディーの声で囁かれた言葉にキラの頭は一瞬真っ白になり――……、直後にカァッと全身が熱くなった。脳が茹で上がって鼻血まで噴き出しそうだ。
対してディーはキラの真っ赤な耳たぶを甘噛みしながらクックッと笑っている。
「なぁキラ、お前は今何を想像した? 俺のどんな姿を想像したんだ? 初心なお前は男の体と性欲についてどの程度知っているんだ?」
「ばッ……、馬鹿馬鹿ばかぁッ! この変態ッ!」
ディーの胸板を半ば本気の力加減でドカドカと叩いて抗議したが、ディーは再び余裕な様子で楽しげにクックッと笑った。
そしてキラの左こめかみに、チュッ、と優しく求愛の口付けをして抱擁を解く。
「俺のキラは最高に可愛いな。興奮したお前をこのままベッドに連れ込んで可愛がってやりたいが、お前にもおあずけを教えないとな?」
「っ! べ、別に私はそんな風に興奮しているわけじゃないもんッ!」
「はいはい」
胸板に、バシッ! と容赦のない張り手を食らいつつも、ディーの意地悪な笑みは変わらない。
ディーはほとんど氷が溶けていたブランデーのグラスを手に持つと一気にそれを飲み干した。
はぁ……、と熱のこもった吐息が天井に向けて吐き出される。
「俺は今こうして自分の欲求をギリギリ抑えられているが、俺でなきゃお前は危ない状況なんだからな。欲情した番のフェロモンはマジで強烈すぎてヤバい。理性が焼き切れて襲いたくなる」
「よくッ――……?! そんなんじゃないし、まだ番じゃないもんッ!」
羞恥心が限界突破しかけたキラがワァワァと喚いて抗議したが、ディーは煽られることなくどこか呆れた顔で苦笑している。
「そうは言っても、ほとんど番の関係なんだよなぁ。それこそ、お前が頷くだけで正真正銘の番の縁が結ばれる程度に」
「ちゃんとした場面で告白してくれなきゃ応えないって言ったでしょッ?!」
「だから俺にロマンチックなプロポーズを求められても難しいんだよなぁ。俺のセンスが未だかつてない試練に立たされている」
「私と番になりたいのなら頑張ってよッ。じゃなきゃ嫌だからねっ!」
キラがそう言ってプイッとそっぽを向くと、ディーは何故か嬉しそうにクスッと笑った。
「お前が俺の番で本当に良かったよ。夜鴉公の俺をこうも試せる女はお前だけだ。俺の気を引こうと上辺だけの露骨な振る舞いをしてきた馬鹿女共とは比べ物にならない」
「誉められた気がしないんだけれど?」
少しムッとしたキラにディーは優しく目を細める。
「お前が自分の価値を認めて自信が持てた事が俺は嬉しいんだよ。お前は俺の番だ。俺のすべてがお前の物だ。お前の手に入らない物など存在しない」
「……まさかそれがプロポーズのつもり? 私は金品になんて釣られないからね」
「ああ、わかっているとも。お前はそんな軽い女じゃない」
ディーは翼を軽く揺らしながらクスッと笑っている。
キラの視線は否応なしにその美しい鴉羽色の翼に惹き付けられて……、少しだけ居心地が悪くなる。
「…………ねぇ、ディー?」
「ん?」
「……私の翼って、今、どうなっているの?」
キラの折れた翼は治療が中断されている状況だ。大天使のチカラをキラが使えない限り治療は施せないとディーが判断して以降、特に診察なども受けていない。
ディーのおかげで痛みや違和感がまったくない上に、そもそもキラは具現化していない状態の翼の感覚が元から上手く認識できない。翼の具現化を止められているから目視で確認することもできない。
キラの不安げな瞳の揺らめきを見たディーは軽く深呼吸して、からかいの表情をスッと真剣な物へと切り替えた。
「安心しろ。お前の状態がいいから、それに合わせてゆっくりと回復傾向にある」
「? まだチカラが使えていないのに……?」
キラから向けられた疑いの眼差しを払うように、ディーは躊躇いなく頷いた。
「お前が無自覚なだけで、チカラの芽は出ているんだよ。大丈夫だ。俺が言うんだから間違いない。俺はお前達の基礎になった大天使で、しかも『翼ある者の庇護者』だなんて呼ばれているんだからな」
「…………うん……」
わざとおどけたように肩を竦めたディーにキラは力なく微笑んだ。
……ディーにそう断言されても、張本人である自分が無自覚なだけにやはり不安は残る。
以前は翼なんてどうでも良いとさえ思っていた。けれど今では確かに大切な自分の一部なのだと、そう思えているから……。
「……」
ディーは無意識に俯いて爪を弄っているキラの手に自身の手を重ねて置いた。
「なら――、今ここでお前の翼を具現化して実際に診ようか。その方がお前は安心できるだろう?」
「え……?」
「さぁキラ、俺に背中を向けて翼を具現化して」
「う、うん……」
少し戸惑いながら、キラはディーに背中を向ける。
翼の具現化なんて久しぶりだ。少し緊張しながら自分の背中を意識して、翼を開くイメージを浮かべて――……。
そうとすると……、視界の隅に柔らかな灰色の羽根が見えた。
「痛みはないな? ああ、だからと激しく動かすなよ? 回復傾向とはいえ、今はまだ折れていた箇所が軽くくっ付いている程度だ。無理に動かすと傷めるからな」
「う、ん……」
「ほら」
ディーは魔法でキラの前に姿見サイズの鏡を作った。
鏡には灰色の翼を背にした自分と、鴉羽色の大きな翼を背にしたディーが写っている。
実際にこうして見比べると、やはりディーの翼は立派だ。キラの翼は大天使の中で標準的な大きさだが、ディーの翼はそれ以上に大きく力強い存在感があって圧倒される。
「どうだ?」
ディーの問い掛けにキラはハッと我に返って、鏡に向けていた視線をディーの翼から自分の翼に移動させた。
折れた直後は関節を無視してあらぬ方向を向いていた翼が正常な形をしている。動きを確認しようと翼を少し開閉してみたが、問題なさそうだ。
「……うん。大丈夫そう、だね」
キラの応えはまだ少し自信のない小さな声だったが、ディーはキラに寄り添う姿勢で優しく微笑む。
「な? 大丈夫だと言っただろう? 不安なら今後も定期的にこうして診る機会を作ろう」
「…………うん」
「よし。いい子だ」
ディーが優しく頭を撫でてきて、鏡の中のディーもまた慈しみの眼差しをキラに向けている。
それをぼんやりと眺めながら、キラは再びディーの翼に視線を向けた。
「……ディーの翼は本当に凄いね。大きくて、綺麗で……、私とは大違い」
ディーは劣等感にも似たキラの悩みを払拭するためか、わざと自慢げにフフンと笑う。
「俺を誰だと思っているんだ? お前の何十――いや、何百倍も生きてきた元大天使だぞ? その年月を魔界で生き抜いて登り詰めた夜鴉公だぞ? そんな俺の翼と小娘の翼が同じであってたまるか」
「……こ、小娘って言ったぁ……」
「長い年月を生きてきた俺からしたらお前は小娘だ。可愛い小娘で、俺の大事な女性だ」
ディーの囁くように告げた声は慈しみと愛おしさに満ちていた。相変わらず穏やかな眼差しをキラに向けて、頭を撫でている。
彼の手は少しだけひんやりと冷たいが心地良い……。
「…………ねぇ、ディー?」
「ん? 今度はなんだ?」
「………………そ……その……、ね? 私の翼、撫でてくれる……?」
ディーが話していたように翼は急所に等しい体の一部だ。もちろんキラは自分の翼を他者に触らせた経験が一度もない。
そんなキラに緊張混じりの上目遣いでお願いされたディーは一瞬息を飲んで……、盛大なため息をつきながら右手でペタリと顔を覆った。
「――……っ、はぁ……。今のはマジで危なかったぞ……。よく耐えた、俺」
「ディーは私の翼に触るの、嫌……?」
悲しげに眉尻を下げたキラにディーは顔を覆っていた右手をバッと退けて「まさか」と即答する。
「めっちゃ触りたい。じゃあ、触るぞ?」
「うん。そ、そっとね……? 優しく、ね……?」
「っ! ったく……、これで無自覚なのが狡いよなぁ」
「? ……ひゃあぁっ?!」
キラはディーの反応を不思議に思って小首を傾げていたが――……、ディーの指先が翼の表面を軽く触れた瞬間に背筋を走った感覚に思わず声をあげてしまった。
えっ? 今のは、何……っ?
こんな感覚は今まで経験したことがない。それでもあえて例えるならば、お日様の匂いがするふかふかのお布団にくるまって眠りに落ちる瞬間というか、ほんわりとした温泉に一瞬でしゅわっと溶けてしまう感じというか……。
初めての体験に戸惑っているキラの反応が愛おしいのか、ディーは嬉しそうに微笑んで愛情いっぱいの求愛の口付けをした。
「可愛い奴め」
「ふぇっ、ふぇぇぇ~……っ!」
羽根の流れに沿ってなぞるように優しく撫でられて、キラは一瞬で腰が砕けた。目の前のディーにへなへなと崩れ落ちて完全に身を預ける。
自分で翼を触った時の感覚や衣擦れの感触とも違うし、ベッドの上で愛撫された時のようなわかりやすい快感ともまるで違う。
まるで心の中――いや、魂の芯を直接触れられているかのような感覚だ。
だが、そこに不快感なんて微塵もない。ただただ心地良くて気持ちがいい……。
「完全に溶けているなぁ。気持ちいいだろう? お前に翼を好き勝手に触られていた時の俺の気持ちがわかったか?」
「やっ……、ひやぁぁあん……っ!」
「ククッ、なんだその可愛い声は。そんな鳴き声を聞かせるのは俺だけにしてくれよ?」
くすぐるような声音を紡ぎながら、ディーはキラの翼を撫で続けている。その指先はどこまでも優しくて、愛情に満ちていて……。
キラが眠気にぐずる幼子のようにディーの胸元に顔を擦り付けると、ディーは空いている左手でその頭をポンポンと撫でた。
「その気持ち良さはな、お前が俺に心を許して想ってくれているからこそだ。そうでなきゃ不快感と嫌悪感しか湧かないからな。……眠ってしまっても構わないから、今はただ揺蕩っているといい」
「ふわぁぁ……」
ディーと会話をしようにも体の感覚どころか頭の中までほわほわして、呂律も回らなくて声が言葉の形にならない。
ああ……。自分のすべてがほどけて、ただただ穏やかで温かな抱擁の中へと溶けていく――……。
――……自分の上でキラが完全に眠りに落ちたのを確認したディーは、キラの消耗を抑えるために翼の具現化をそっと解いた。
キラの華奢な背中を優しくトントンとあやすように撫でて求愛の口付けをする。
「愛しているよ、キラ」
自分に乗っているキラの体重も、呼吸で上下している様子も、安らかな寝息も、何もかもが愛おしい。
このままキラの存在を独り占めで感じていたいところだが、キラの安眠を考えるとそうはいかない。
キラを起こさないようにと優しく姫抱きで寝室に運び、寝心地のいいベッドに横たえる。
目元にかかった髪を指先で優しく払い退けて、もう一度求愛の口付けをした。
「おやすみ。俺だけのキラ……」
隣にゴロンと横になり、具現化したままの自分の翼を掛け布団ごとキラの体に覆う。
ああ……、とても幸せな気分だ。
キラは恥ずかしがり屋な上に、自分の気持ちを素直に伝えることが苦手だ。それでも今夜は自分からディーのことを知ろうと歩み寄ってくれた。
そして、ついにキラが自ら翼を触らせてくれた。これがどれほど重要な行為なのか、キラ自身はわかっていないかもしれない。
それは大天使の求愛行動の一つであり、相手に《歌》を贈る求愛と同等かそれ以上のもの。無防備な魂に直接触れる事を許すレベルの親愛の意志なのだ。
「はぁ……。俺みたいな奴がこんな幸せな気持ちになれる日が来るなんてな……」
満ち足りた心地でポツリと呟いたディーは、キラの体を片腕と片翼で抱き寄せると、そのまますぅ……っと眠りについた。




