第98話「ありがとうの再会」
大悟と里奈の「律くん、預かるよ」という言葉に背中を押され、久しぶりに二人きりの時間を過ごした結衣と涼也。
何気ない日常の中でふと蘇ったのは、忘れかけていた“出会いの記憶”。
あの日、言えなかった「ありがとう」が、今ようやく届いた。
小さな再会が、二人の絆をそっと温めていく。
朝。
結衣はソファに座り、律を腕に抱きながらスマホを見ていた。
ゆっくり まどろむ息子の体温が腕に伝わる、静かなひととき。
ふとした静寂の中、スマホの通知音が鳴った。画面に映っていたのは、里奈からのメッセージだった。
「お疲れ様! 律くん、今度ウチで預かるよ。二人でリフレッシュしてきなよ!」
思いがけない言葉に、結衣は思わず微笑んだ。
そして、隣にいた涼也にスマホを見せながら、少し驚いたように言った。
「……里奈ちゃん、こう言ってくれてる」
涼也が画面を覗き込み、「ありがたいね」と優しく頷いた。
すると、すぐにもう一通通知が届いた。今度は大悟からだった。
「いつでも言って! 可愛い甥っ子に会えるの、俺らも楽しみだからな」
画面の向こうに、いつものように笑いながらスマホを打つ兄の顔が浮かぶ。結衣の心がほんのりと温かくなった。
「うん……ありがとう、兄と里奈ちゃん」
⸻
その週末。
結衣と涼也は律を連れて、大悟と里奈の家を訪ねた。
玄関を開けると、里奈が明るい声で迎えてくれる。
「律く〜ん、いらっしゃい!」
その声に反応するように、律もぱっと手を伸ばし、人見知りの気配もなく笑顔を見せた。
「お、覚えてたな?」
大悟がすぐに抱き上げ、くすぐると律は楽しそうに身をよじらせる。
「そりゃ、毎週のように写真送ってるもんね」
結衣が笑って言うと、里奈も「今日は任せて♪」と張り切っていた。
「じゃあ、甘えてもいいかな?」
「もちろん! 楽しんできて!」
⸻
久しぶりに手を繋ぎながら歩く道。
特別な場所じゃないのに、二人きりの時間が胸を軽くする。
ベンチに腰かけて、アイスを食べながら、涼也がぽつりと呟く。
「こういう時間、やっぱり大事だね。
律がいてくれることも、こうして二人でのんびりできることも……どっちも幸せだなって思うんだ。
律がもう少し大きくなったら、三人で行ける場所も増えてくるよね。
それも今から凄く楽しみでさ」
結衣は頷いて、ふと思い出したようにポーチからスマホを取り出す。
「あ、そういえばさ──ちょっと見てほしい写真があるの」
「ん?」
「この前、実家に行ったときに古いアルバムを撮ってきたんだけど……これ」
結衣がスマホを差し出す。画面には、色褪せた写真が写っていた。
公園のベンチのような場所で、幼い結衣とその弟が並んで座っている。
その隣に──見知らぬ少年が笑っていた。
「弟と迷子になった日の写真なんだけど、誰かに助けてもらったっていう記憶があるの。
名前も聞けなかったけど、すごく優しいお兄ちゃんだったって……なんか懐かしくてさ」
涼也は、画面をじっと見つめたまま動かない。
目の前の少年──短く刈られた髪、膝に擦り傷、はにかんだ笑顔。
胸の奥が、ふいにぎゅっと掴まれるような感覚。
喉の奥が熱くなり、言葉がすぐに出てこなかった。
──そうだ。あのとき、公園の隅で泣いていた可愛い女の子がいた。
弟を探して、必死に呼びかけてた。あの声、今でも耳に残ってる。
何かしてやりたくて、咄嗟に声をかけた。名前も聞かずに別れたけど──
間違いない。
「……これ、俺だ」
結衣がきょとんと涼也を見た。
「えっ?」
「この写真、覚えてる。弟を泣きながら探してた女の子を、たまたま見かけて──
そっか……あれ、結衣ちゃんだったんだ」
「ほんとに……?」
涼也は、ゆっくり頷いた。
「偶然って、すごいな」
結衣は小さく笑って、目を伏せた。
「……なんだか、会うべくして会った気がするね。
あのとき助けてくれた“ありがとう”も、今言えるのが凄く嬉しい。……弟の分も、私の分も、ありがとう」
「ううん、俺こそ。……こんな風にまた出会えたことが、何よりのご褒美だよ。
……思えばさ。あのとき、結衣ちゃんのこと“可愛い子だな”って思ってた。名前も聞けなかったけど、多分──あれが俺の初恋だったんだと思う」
涼也は、そっと結衣の手を握った。
「あのとき助けた女の子が、今、俺の隣にいる。……なんか、不思議だ。
結衣ちゃんとは運命って思えることがたくさんあるな」
「ふふ。赤い糸で結ばれてたのかな…なんて」
結衣は微笑みながら、そっと言葉を紡いだ。
「前にも言ったけど、大変なこともあるけど……それも、涼ちゃんと一緒だから楽しいって思えるのかも。
後から振り返ったとき、“大変だったね”じゃなくて、“いい思い出だったね”って言える気がする」
涼也は、その言葉をかみしめるように目を細め、静かに微笑んだ。
「……うん。そう思えるように、俺も頑張る」
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夕方、迎えに行ったとき。
律は ご機嫌な様子で大悟の腕にしがみつき、ニコニコと笑っていた。
「ずーっと笑ってたよ! めっちゃいい子だった」
「離乳食も完食でした♪」と里奈が続ける。
結衣は思わず胸をなで下ろしながら、優しい声で言った。
「本当にありがとう。二人がいてくれて、よかった」
涼也も丁寧に頭を下げる。
そして、律を抱き上げると、律は眠そうに目をこすりながらも嬉しそうに笑った。
「また来てねー!」
「次は、お泊まりもありかもな」
そう冗談めかす大悟の言葉に、笑い声が広がる。
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夜、帰り道の車の中。
律は、すやすやと眠り、結衣は その寝顔を見つめながらつぶやく。
「こういう時間があると、また頑張れるね」
「うん。俺たち、ちゃんと支え合えてるなって思った」
やがて家の前に車が止まり、涼也がそっとエンジンを切る。
二人は律を抱えて静かに車を降り、ゆっくり歩き出した。
そのとき、結衣は ふと立ち止まり、隣を歩く涼也の手をそっと握る。
「ありがとう。これからも一緒に、こうやって笑っていこうね」
涼也は、何も言わずにその手を優しく握り返した。
「もちろん。俺たち三人で、これからもずっと」
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久しぶりの二人きりの時間がくれたのは、
小さな心の余裕と、家族としての絆。
そして――『ありがとう』を、まっすぐに伝え合える優しさだった。
お忙しい中、今日も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!