10:それぞれの銃後、そして…
それぞれの銃後、そして…
4月21日 午前5時30分 日本国 栃木県宇都宮市 住宅街
未だ多くの住民が寝静まる太陽が昇らない早朝で、一軒の住宅では慌ただしく動き回る人影があった。
アイロンにかけたばかりの陸自冬季常装に身を包んだ小原 賢治2等陸佐は妻の莉子の手助けを得ながら、勤務地である宇都宮駐屯地に向かおうとしているところだった。
発端はつい30分前だった。
小原が属する中央即応連隊は海外派遣の一番槍として存在していたが、展開部隊のうちには含まれていなかった。
それは緊急展開部隊を自負する小原たちとしては肩透かしかのような感傷だったものの時間が過ぎればそれは消えていき、訓練のみが彼らの時間を相変わらず支配している。
だが、2階の寝室で莉子と寝静まっていたときに騒々しい音と共に非常召集を告げる内容の電話は鳴った。
既に彼の部下が車を回してくれているらしく、駐屯地外で居住する他の幹部らも自分と同じように慌てて出動しようとしているのだろうーーと内心苦笑した。
「夜中から何ーー?日曜日なんだけど」
ぐっすり眠っていたのにーーと続けながら娘の凪沙は眠そうな目と共に階段から降りてくる。
「ちょっと呼び出されてな。仕事に行ってくる」
反抗期を漸く抜け出した高校2年の凪沙にとって、父である賢治がよもやするとサドレアの地で銃弾に斃れるかもしれないと想像できるほど、まだ利口ではなかった。
「ふーん。気をつけてね」
そう言って少女は再び大きなあくびをしながら中断された安眠を再開しようと自室に戻った。
「呑気なものね、戦争が始まるのに……」
ため息を吐く莉子に小原は言った。
「まぁ世情に興味がない人間、特に高校生にとっては別世界のようなものさーー」
後に日本とミレリヤが衝突したサドレア戦争で軍事史において特筆すべき激戦となったノダ-ヴィア森林戦において名指揮官として活躍する小原は、この時はただありふれた幹部自衛官の一人であったーー。
夜が明けてしばらく。
太陽が昇り始めた頃、毛布の中で寝入る凪沙は母親のけたたましい声と共に目を覚ませられた。
「凪沙!アンタ今日部活じゃないの?さっさと起きなさい!」
ふとケーブルに繋がれたスマホを見れば時刻は8時過ぎーー。
部活のバドミントンが始まるまで一時間も無かった。
「嘘でしょ……!」
慌ててベッドから飛び起きて階段を駆け降り、母親の説教を受けながら食パンと目玉焼きを口に詰め込み始める。
中学3年生になる弟の亮介はとうの昔にご飯を食べ終え、何やら真剣な顔をしてニュースに見入っている。
それを気に留めずに凪沙は逆算を始めた。
時刻は8時12分。
ご飯を食べ終えるのに8分。
寝癖直しと髪のセットに20分。
そして支度に5分。
学校までは10分。
よし、無問題ーー!
「凪沙、アンタ今日からパパ、しばらく帰って来れないんだから昼ご飯は自分で作りなさいよ」
「えぇーー」
不平を言う娘を尻目に莉子の視線はテレビへと移った。
『速報です。自衛隊統合幕僚監部によりますとサドレア亜大陸での大規模演習の参加部隊として新たに中央即応連隊を派遣するとのことです。政府及び自衛隊は訓練名目で自衛隊部隊を動員しておりーー』
画面には屈強な隊員たちを詰め込んだC-130Hが宇都宮飛行場から次々と飛び立つ姿が映し出されていた。
深刻そうな面持ちの母と弟とは違い、凪沙は朝食を掻き込むと慌ただしく洗面台に飛び込んだ。
寝癖を治し、ドライヤーやヘアアイロンで長く艶のある髪を整える。
髪を後ろで括り、ポニーテールを作るがそれだけで寝起き顔からあどけなさが残る美少女へと変身する。
そこへ部活用の簡単な化粧を施して満足気に言った。
「ヨシーーッ!」
端正な顔つきの賢治や美しい莉子の遺伝を凪沙と弟の亮介はそれをしっかりと受け継いでいた。
凪沙ら女子が知らぬ男子達の間での女子番付では常にトップに君臨していた。
自転車に乗り込んだ凪沙は快活そうにペダルを漕ぎ始める。
そして校門に滑り込み、体育館に隣接している副体育館に飛び込むと先に着いていた友人たちが何やら話している。
四人のうちの一人が凪沙に気付き、言った。
「凪沙のパパのところも行ったの?」
「行ったって何に?」
怪訝そうな顔をする凪沙は顔を泣き腫らした別の友人の存在に気づいた。
「トモちゃん、あんた何でーー」泣いてるのーー?と続けかけるのを言い留めた。
いくら世間に関心がない凪沙でもトモちゃんーーの父が自衛官であることぐらい知っているし、父と同じくサドレアとかいう所に出動したーーということへ思い至ったのだ。
「お父さんがね、見送りの時に『もしもの時は母さんをしっかり支えるんだぞ』って言ってね……。色々調べたら戦死するかもしれないって思っちゃったらーー」
トモちゃんーーというあだ名の少女は整った顔を崩して再び嗚咽を漏らし始めた。
あのいつも家では呑気そうなパパが帰らぬ身となってくるかもしれないーーということに今更ながら凪沙は気づいたのだ。
思えば朝方に会った時、かけた言葉は淡白なものであったし、昔の太平洋戦争の時は曽祖父も樺太とか言うと所でソ連兵と戦って銃弾に斃れたーーと小学生の頃に曽祖母から聞かされていたこと、そしてママと亮介が深刻そうな顔をしていたことに思い出していた。
戦争ーー。
それは遠い世界の出来事ーーと捉えていた少女にも動乱を予想させるその足音が聞こえ始めていたーー。
そして”銃後“はこの世に生きる人間の数々があり、当然敵手にも存在した。
ミレリヤ帝国の植民地ケンドラン旧首都ヒガリ。
その総督府前の主要道路、東西通りでは見渡す限りの群衆が沿道を埋め尽くし、通りを行進する隊列を渦とする熱狂が生まれていた。
心が奮い立つかのような勇ましさと繊細な優雅さを兼ね揃えた陸軍閲兵行進曲と共に軍靴を鳴らしながら行進する歩兵部隊ーー。
周囲を圧倒するような威容を見せつけながら走行する戦車あるいは自走砲ーー。
ミレリヤ帝国陸軍ケンドラン方面軍はこの日、来る対ニホン戦に向けてケンドランの主要港あるいは飛行場各地に本国から遥々やってきた増援部隊が揚陸する最中、ケンドラン総督の強い要請の元、ケンドランで活動する居留民に向けて一大パレードを開催されていた。
通りを埋め尽くす群衆の父兄あるいは友人がこの行進する将兵たちの中にあり、そして熱狂と共に隊列を見送るのだ。
敗北ーーなどという最悪の事態はたとえどのようなことがあろうと精強なるミレリヤ軍が味わうことはあらず、ただ圧倒的な勝利のみを人々は願い、そして確信していたーー。
昨日の正午に国営放送によって外務大臣の談話が放送されたが、その内容に全国民が怒りに震えていた。
曰く、『ニホンは常に傲慢な態度で交渉に臨み、理知的な我が方を侮辱し貶めている』とーー。
政府の手先も同然の国営放送が故に、大手新聞社に勤める新進気鋭の若手記者マイン-レ-ベレットはそれを素直に捉えていなかったが、各方面で活動する同僚たちから伝え聞くところによるとニホンも同様に戦争に備えて着々と部隊をサドレアの支配地域に揚陸させているとのことだ。
ベレットは主に出征者の家族などを取材していたが、全員が将兵の安寧を祈り、無事に帰ってくることを願っているーー。
パレードの二日前、ベレットは飲み屋でカーダスと知り合っていた。
「少将はニホン軍について何か知っていることはありますか?」
そう問うと酔いに染まっていたカーダスの顔は真剣な顔つきとなり、言った。
「そこなんだよベレット君。ミレリヤは今まで対外戦争を繰り返してどれも勝利を手にしてきたが、それは相手が弱かったからだ。だから念入りな調査もせず杜撰な戦略戦術でも勝つことができた。だが今回はーー?もしニホン軍とやらが我らと同じ文明度で精強だったらーー」
一拍置き、カーダスは続けた。
「間違いなくミレリヤは敗れるだろうね。こっ酷く……」
何の迷いもなく言い切ったカーダスに動揺しながらベレットは言う。
「ーーしかし少将、いくらニホンが強かろうとミレリヤが敗れるなど……」
グラスに残ったワインを飲み干し、カーダスは自嘲するように言う。
「帝国ミレリヤは建国以来、戦争で敗れたことがない……。人はそれを無敵であると誇るがーーベレット君。負けたことがないということは負け方を知らないんだよーー」




