11 「夏の遭遇 2」
「さてと、そろそろかな」
山の中腹辺りに差し掛かったところで、弐道が不意に呟いた。
真が顔を向けると、どこか楽しそうに頬を緩めた彼は、ハンドルを切って反対車線を横切っていく。舗装された道と土の境界で、車体が微かに跳ねた。
突っ込んだ先は雑草が生い茂ってはいたが、明らかに人の手によって整地された跡がある。木漏れ日を浴びる、なだらかな上り坂となった古道が続いていた。
「ここから先は、車は無理だね。歩こうか」
弐道は雑草で車体の下半分が隠れるような位置で車を停めた。後部座席から取ったショルダーバッグをたすき掛けにし、車から降りる。真も助手席側のドアを開けて地面へと足を着けた。
車内の冷房から一転、真夏のむっとする暑さの中に草の青臭さが混じり、生温かく鼻を刺激する。真の額には、早速汗が滲み始めていた。
「真君、こっちに来てみなよ」
と、いつの間にか真から離れた場所で弐道の声が聞こえる。見ると、地面に突き刺さった木製の看板らしきものの前に彼は立っていた。
弐道はデジタルカメラでその看板を撮っていた。それが終わると、手帳にボールペンで何かを走り書きしているようだった。
「擦れて何も読めないけど、洋館の案内番じゃないかな。宿泊施設だった頃の名残だね、きっと」
「そんなものを撮って、何になるんですか?」
近づく真に、弐道が聞いてもいない解説を始める。調べに来たのは洋館だろうにと、真は純粋に首を傾げた。
「何にもならないかもしれないし、何かの足しになるかもしれない。生きるというのは、そんなもんさ」
「……はぁ」
達観したようでいまひとつ外している台詞に鼻白みながら、真は古道へと目を向ける。彼の関心は看板ではなく、この先にある洋館だった。
「行くなら、さっさと行きましょう」
「はは、短気だねえ。それじゃあ、行くとしようか」
つれない真の返事にも鷹揚に笑って頷いた。二人は古道へと進み、坂を上り始める。
ときおり梢を揺さぶる冷涼な風を肌に感じながら、真は上を向いて歩き続けた。最初は隣で弐道が何か話し掛けてきていたが、適当に相槌を返す内に飽きたのか、彼も淡々と前に進んでいた。
まるで修行僧にでもなったかのような気分で、黙々と足を動かし続ける。そうして、一つの曲道を進んだ先に、真は出口らしき光を見た。
木々が開け、そこが坂道の終点であることを示している。歩くペースを変えずに進んで行くと、徐々に目的地である洋館が、その全貌を見せ始めた。
深みのある青い三角の屋根。薄汚れた白い外壁。正面から臨むコの字型の外観。
二階建てでさほど大きさはなかったが、両端に並び立つ棟が門番さながらに来訪者を見下ろし、不気味な威圧を放っている。
坂を上り切った真と弐道は立ち止まり、しばしその館を見上げていた。
入口へ続く石畳の道の周囲は、かつて手入れされた草花で彩られていたのだろうが、管理者不在のまま荒れ放題になっている。建物もよく見れば、屋根の煉瓦も剥げ落ちかけ、ところどころ窓も割れていた。
何かが潜んでいるような気配は感じない。
洋館は晴れ渡る空の下においても薄気味悪く、いかにも何かが出そうな雰囲気を醸し出してはいた。しかし、ざっと眺めてみて真はそう思った。
ただし、「今のところは」と心の中で念押しはしていた。まだ実戦経験を重ねる途中の己の実力を、彼は過信していない。
「これは、もしかしたら心霊写真なんかも撮れるかもしれないね」
弐道は感動でもしたのか、声を弾ませシャッターを切っていた。彼は早速その場で画像を確認していたが、表情を見る限り期待通りの出来ではなかったようである。
「ま、もう少し大きな画面じゃないとはっきりとは分からないかな」
「……俺は先に行きますよ」
真は携帯の時刻表示を見て言うと、洋館の入口へ向かうべく歩き出した。既に昼は過ぎている。日暮れが遅い時期とはいえ、暗くなる前に調査は切り上げたいところだった。
「そうだね。仕事は早く終わらせるに越したことはない」
弐道も気を取り直し、真の背を追いかける。二人は短い石段を上がり、入口であるアーチ型の扉の前に立った。
間近で見るとその荒れ具合が顕著になり、陰鬱な気さえ感じる。真が慎重に両開きの扉を押し開くと、しんと漏れ出る空気が足首を撫でた。
足を踏み入れた中は吹き抜けのロビーとなっており、ワイン色の絨毯が敷き詰められている。正面には建物の中ほどまで伸びる階段があり、踊り場を経て左右に分かれて二階へと続いていた。
割れた窓から差し込む光のみで若干薄暗いが、視界は十分に確保できている。歩くたびに何処かしらで埃が舞い上がり、きらきらと光る粒子となって真にまとわりついた。
「弐道さんは、これからどうしますか?」
そして、ロビーの中央まで進んだところで真は訊ねた。ひとまず目的地には着いたのだし、これ以上行動を共にする意味もないだろうと思ってのことだった。
「これから、か。そうだねえ」
真がそうした雰囲気を臭わせているのを察し、弐道は顎に手を添えてしばし黙考した。
「君さえよければ、もう少し付き合ってもらいたいところだけど、そういうわけにもいかないのかな?」
「……」
探るように訊ねる弐道の目を、真は無言で跳ね返す。その態度に、弐道は肩を竦めた。とりあえず言ってみただけで期待はされていなかったのだろう。
「分かったよ。それじゃあ、二手に分かれようか。僕は先に二階を見て回るけど、それでいいかい?」
「……わかりました」
真が首を縦に振ると、弐道は片手を軽く挙げて二階へと続く階段を上がって行った。彼の気配がなくなるまで背中を見送った後、真はようやくといった気持ちで深い溜息を零す。
成り行きで一緒に来てしまったが、自分の目的を馬鹿正直に告げるわけにもいかない。ましてや共に散策なんてもっての他だった。
真の目的は洋館の調査。その内容は、道中にて弐道が語った怪談めいた話の真偽を確かめることだ。
それはある意味、弐道と同じだと言ってよいが、異なる点が一つある。
弐道はこの噂を記事にしようとしている。それは喧伝し、増長させようとする働きだ。
対して、真は終息させようとしている。噂はただの妄言で、根も葉もないことだと証明するのだ。例え、その噂が『本当』であったとしても、ただの『噂』とするためにここにいる。
すなわち、霊の浄化だ。
真は気持ちを切り替えて、調査を開始することにした。洋館はさほど広くはなさそうなため、一通り回るのに大した時間はかからないはずだ。
基本は総当たりで、霊のそれらしき気配がないかを探っていく。しかし、何の気配も感じないという点において、外から見たときと印象は変わらなかった。
キッチンには食料の類は残されておらず、錆び付いた調理具などが放置されているくらいだった。応接室、もとは宿泊のための部屋であったであろう客室なども見て回ったが、埃と黴の臭いばかりで目を引くものは見当たらない。
もぬけの殻という言葉がしっくりくる。
とはいえ、真は別段家探しをしようとはしていない。あくまでこの洋館に、霊が発生していないかを探っているだけである。実際に死体など見つけても、困るだけだ。
何もないに越したことはない。そう思いながら、真は一階の最後の一室の前に立つ。
西側の棟の奥、角部屋にあたる扉だった。真はレバータイプのドアノブを掴み、押し開こうとする。
だが、軽い抵抗があってドアは開かなかった。
真は怪訝に眉を寄せた。どうやら、鍵が掛かっているようだが、想定していなかった事態にどうすべきかと思い悩む。鍵を探すのが正道だろうが、また一から部屋を見て回るのも面倒だった。
「……」
周りを見渡し、誰も見ていないことを確認する。真は数歩後ろに下がり、肩幅に足を広げて腹の底から息を吐き出した。
「まあ、仕方ないよな」
誰にもあてることのない言い訳を呟き、右足を振り上げる。そこには霊気による強化が成されており、彼が何を行おうとしているのかは明白だった。
「真君」
が、真が蛮行に及ぶ前に、背中に声が掛けられた。咄嗟に彼は上げた足を引っ込めて振り返る。
「弐道さん……二階の方はもういいんですか?」
「ああ。二階は全部客室だったよ。目ぼしいものはこれといって」
そう言いながら弐道は目聡くドアの前まで近づき、真と同様レバーを押した。そして、やや呆れた風に口元を曲げて真を見やる。
「なるほど、鍵ね……。だからといって、蹴破ろうだなんて感心しないね。怪我でもしたらどうするんだい」
子供を窘める大人の口調で弐道は言った。ドアの損壊よりも真が負傷することを心配しているあたり、人が良いのかずれているのか真自身どう捉えて良いのか分からない部分もあったが、ともかく反論する余地はなかった。
「一階はここで最後なのかい?」
「ええ、まあ……」
「そうか。なら、入れ替わろうか。君は二階に行ってくるといいよ。できたら鍵もないか探してくれると助かるかな。僕の方も、一階は見ておくから」
「でも、粗方調べたんじゃないんですか?」
「そうだけど、前もって注意しておくのとじゃ、探し方も変わってくるだろう? 頼んだよ」
人当たりの良い笑みを浮かべながらもその言葉に否応はなく、真は二階へと向かわざるをえなかった。
流石にいきなり蹴破ろうとするのはまずかったと反省する。それは鍵が見つからなかった時の最終手段とすることにした。
軋みを上げる階段を上って真は二階へと移動する。二階の客室の内装は、一階とそう変わることはなかった。
マットが置かれただけの使用者のいないベッド。色が剥げたクローゼットに、小さな木の机。あらかじめ弐道がそうしていたのか、黄ばんだカーテンと窓は開放されており、熱気を孕んだ微風が沈んだ部屋に息吹を与えるかのように流れ込んでいた。
窓から臨む山の景色は、朽ち果てた室内でなければさぞ優美に映ったことだろう。真は窓を横目にしつつ、机の引き出し、クローゼットの中、ベッドの下など隈なく探してはみたものの、努力の甲斐なくついに鍵は見つからなかった。
「霊もいないし……本当にただの噂だったか」
当然、彼は鍵探しの間にも霊の気配は探っていた。しかし、鍵同様に何も見つけることはできなかった。
気持ちとしては、ここまで来て肩透かしかという燻った思いと、一般人もいる以上それはそれでいいと安堵が半々である。後は鍵の掛かった部屋を調べて、何もなければそれでいい。依頼者の市長には、何事もなかったと報告するだけだ。
真にとっては、あくまでも霊が絡んでいないと証明するのが仕事である。噂が流布され、ここに悪戯に集まって別の事件が起きても、それは人の手によるものだ。そこまでは、彼の範疇ではない。
そして、最後に真は廊下から二階の正面に構えられたバルコニーへと出た。
荒れ具合は中と負けず劣らずといった具合で、白い石畳の床には横倒しになったテーブルと椅子が転がっている。一歩踏み込むと、スニーカーの裏で割れた花瓶の破片が砕ける音がした。
酷く暑いはずなのに、荒涼とした風景が色褪せて見える。腹の高さほどある鉄柵に背を預け、真は顔を上げた。
空が遠く、目が眩む。
燦然と輝く太陽が視界を白く染めた。それでも右手をかざし、影となった指の隙間から、細めた目で見上げ続ける。
「遠いな……」
求めるものは、ここにはない。
限りない蒼穹。
隔絶した距離。
生者と死者。
心は死骸のように打ち捨てられてなお、肉体は命を刻み続けている。
黒い指と、白い輪郭。
境界線はどこにある。
訳もなく込み上げて来る感情が胸を騒がせた。よくない兆候だった。
馬鹿馬鹿しい。
胸の内でその感情を吐き捨てると、館の中に戻るべく真は右手を下ろした――そのときだった。
視界の端で、何かが揺れた。
青白く、薄く透ける細い糸のようなものが動いている。
咄嗟に横に視線を映した真は、そのまま目を見開いていた。
……そいつは、そこにいた。
少女だった。
館を背にする形で鉄柵に腰掛け、太陽を見上げている。
視界で揺れたのは、風に踊る彼女の黒い髪だ。
白いワンピースに身を包んだ少女は、両手を広げ、全身に光を浴びている。
まるで、その身を溶かして、消え去ることが望みでもあるかのように。
烈日の下で青白い身体を揺らめかせながら、少女は光の宿らぬ双眸で、一点を見つめていた。
透けた身体。投げ出した足は先が霞んで消えている。全体が青白い微光に包まれているのは、霊気によるもの。
少女は、霊だった。
その姿を見て、何を思ったか。
淡い。
儚い。
いや、違う。
どれも違う。
夏の少女は、ただ純粋に――綺麗だった。
「おい……」
乾いた真の声に、薄く煌めく黒い髪を揺らし、少女が振り返る。
二人の目が合う。
初めはぼんやりと、ただ向けられていただけの瞳だった。そこには、何も映し出されてはいない。
しかし、変化はすぐに訪れた。
黒い輝きを取り戻し、見開かれようとする彼女の瞳に、真は己の姿を捉える。
「お前は……」
呟きながら、真は身を乗り出そうと鉄柵から離れるため、背に力を入れた。
その瞬間、金属が割れる嫌な音が響き、身体が後ろに傾く。
錆びつき、劣化していた鉄柵が折れたのだ。
「――ッ!」
真は何かを叫んだが、声にはならなかった。
少女は宙へと倒れゆく真を驚愕のまま見下ろしている。届かぬ空を掴むように、彼は必死で手を伸ばしていた。




