09 「案内人」
「ハナコッ!」
唐突に目の前に現れた少女の姿に、思いがけず真は叫んでいた。
その後ろ姿は見間違えようもなく、彼に取り憑いている少女のものである。
しかし、彼女が真の声に反応し、振り返ることはなかった。少女はその場で立ち尽くしている。実際、足首以下は霞んで消えているのだが、とにかく直立不動のままであった。
気持ちは逸るが、真はどこか不審さも感じ、慎重に少女の前に回り込む。その間も彼女は、ぴくりとも動かなかった。
「……ハナコ、なのか?」
そして、彼女の正面に立った真は呆然と呟きを零す。彼の疑問は白い空間に虚しく吸い込まれるばかりで、答える声は皆無だった。
少女はまるで彫像のように、無音で佇んでいた。
彼女の身体は青白い霊気で揺らめき、それの流れに合わせて艶めいた黒髪が宙に浮かぶように微かに揺れ動いている。薄く透けたその霊体は、彼女が肉体を持たない存在であることを示していた。
「おい!」
少女の双眸は無感情に、ただ前に向けられている。その瞳の前に立っているはずなのに、真の姿はそこには映し出されていなかった。
たまらず手を伸ばしたが、霊体の少女に触れることは叶わず、真の手は彼女の肩を虚しく空ぶる。その手を強く握り締め、彼は強い眼差しで彼女の瞳に訴えかけた。
「どうしちまったんだよ! 俺が分からないのか!?」
肩を揺することもできないため、真には声を掛けることしかできない。しかし、彼が声を上げれば上げる程に感情は空回りするばかりで、少女は無反応だった。
それでも諦めるわけにはいかないと、意固地になって真は声を張り上げる。
そうして、彼の声も枯れようかというときだった。
「あははー。無駄ですよー。その子に何を呼び掛けても、答えやしません」
何やら場違いなほどに能天気な声が、足元から聞こえて来た。
「な――に……?」
その声の発信源を見下ろした真はぎょっとし、我が目を疑った。
「どーも、真さん。結局来てしまったんですね、あなたは。まったく、よせばいいのに」
気軽に話しかけてくるのは、白いワンピースを着た幼い少女だった。真の膝くらいまでの身長で、癖のない黒髪を肩まで伸ばしている。幼女はくるくると輝く大きな黒い瞳をもって彼を見上げ、柔らかそうな頬を目一杯緩めていた。
「お前は……」
驚きから覚めやらぬ気持ちのまま、呻くように呟く。真は、無言で佇む少女の姿と足元でにこにこと笑う幼女を見比べた。
彼の言いたいことを見透かしたのか、幼女は後ろ手の姿勢を取り、にんまりと目を細めて彼を見つめた。
「お察しの通りですよー。わたしは、ハナコです。身体だって透けてるでしょう?」
幼女の名乗りに、真は混乱した。確かに、足元に纏わりつく彼女は、ハナコを大分幼くしたような外見をしているのである。その声も、多少舌足らずなところはあるがそっくりだった。
何より、彼女の身体は本人が言う通り、ハナコと同じく霊体だった。青白く透け、足元が霞んで消えている様は、まさしく実体のない霊である。
「まあ、魂の中なんでお互い実体なんてないようなものですけどねー」
「本当に……ハナコなのか?」
未だ信じられぬ思いで真は腰を折って幼女と目線を合わせた。疑念に満ちた視線を向けられても彼女は特に気にした様子もなく、屈託なく笑っている。
「ええ。心の一部ですけどね。この子もハナコですし、わたしもハナコです」
ぴっと無言の少女と自分とを交互に指差し、幼女は言う。真は痛くなる頭を抱えたくなったが、ぐっと歯を噛み、拳を固めて感情を抑えつけた。
そんな彼の百面相が面白かったのか、幼女は暢気に笑い声をあげていた。
「あははー。ま、わたしのことは案内人みたいなものと思ってください。ハナコではややこしいでしょうから、どうぞお気軽にナビコとでもお呼びくださいな」
「ナビコって……お前、そんなんでいいのかよ」
「ハナコも大概だと思いますがねー。真さんのネーミングセンスを参考にさせて頂いた次第ですので、悪しからず」
どんな皮肉だと真は眉を顰める。しかし、戸惑ってばかりもいられない。彼は気を取り直し、状況を理解するべく幼女――自称、ナビコと会話を試みることにした。
「さっき、心の一部って言ったよな? つまりお前は、俺の知ってるハナコじゃないってことか?」
「その言い方はちょっと寂しいですけど……そう思ってくださってけっこうですよ。わたしは、あなたが連れ戻そうと思っているハナコの人格じゃーありません」
「そうか……じゃあ、このハナコも?」
無言の少女を見る真に倣い、ナビコも彼女を仰ぎ見て首を縦に振った。
「ええ。ですが、彼女の事を何とかしない限り、あなたは先には進めません。それは絶対です」
「……それで、お前がその方法を教えてくれるのか?」
多少の期待を込めて真は訊ねた。自らを案内人と名乗るからには、それ相応の役目を負って現れたということなのではないのかと。
「えー、まー、そうですねー。真さんが望むのでしたら、それも吝かではありません」
真から視線を逸らしながらの、やや回りくどく歯切れの悪い言い方ではあったが、ナビコの答えは肯定だった。
「ですが、わたしとしては、さっさとお帰り頂いてもちっとも問題ないんですけどねー」
「おいおい、どっちなんだよ……」
「それだけ心は複雑なんですよ。真さんがここに来てくれたことを嬉しく思うハナコもいれば、嫌がっているハナコもいるのです。乙女心というものです、はい」
ナビコは何やら億劫そうに息を吐く。そして、彼女は逸らしていた視線を持ち上げ、顔を真に向けた。
「だから、ここから先はあなた次第ですよ」
幼女の顔からは不意に気楽さが抜け落ち、真剣なものへと変わっていた。吸い込まれるような黒い瞳が、じっと真の胸の内を覗き込もうとしている。
「で、どうしますか? 帰りますか? 先に進みますか?」
「先に進むに決まってるだろ。俺が何のために来たのか、お前だって分かってるんだろうが」
真は即答した。覚悟なら既に決めて来た。今更何を問われたところで、引き下がる気など毛頭ない。
「まー、やっぱりそうですよねー」
表情を崩し、再び気の抜けた調子でナビコは返した。やれやれと妙に年期の入った溜息を吐きつつ、彼女は無言の少女の前にゆっくりと歩を進める。
「では、ヒントだけ差し上げましょう。ここは、あなたが取り戻したいハナコの心の中……その入口です」
そして、真を振り返ったナビコは、この広大な白い空間を示すように両手を広げた。
「ここはハナコの始まりです。だからまだ、御覧の通り何もないんですよ。言ってる意味、分かりますか?」
「……! そういう、ことか」
ハナコの心。真っ新な空間。佇む少女は始まりの彼女。
真は、彼女を知っていた。
その記憶が、にわかに胸を押し潰さんばかりの勢いで溢れてくる。
「どうやら、お分かり頂けたようですね」
真の表情から全てを察し、ナビコは幼さに不似合いな皺を眉間に刻みながら言った。
「ハナコは今、閉じこもっています。それは無意識のものですが、彼女にとって昔の記憶は、それほどのことだったのです」
「ああ……」
この、何もない空間は、ハナコの心だ。
教団の責め苦により数え切れぬほどの心を殺し、その果てに行き着いた形が、ここにある。
「あなたがお探しのハナコの意識は、崩れかかっています。だから、彼女を取り戻すためには、崩れたものを組み直さなければいけません」
「わかったよ。こいつは、俺と出逢う前のハナコなんだな?」
真は無言の少女を見て言った。変わらず彼女の双眸に自分の姿は映らないが、彼はその前に立ち続け、姿を焼き付けるように見つめる。
ナビコは、こくりと頷いた。
「……ハナコにとって、あなたとの出逢いはとても重要なことです。今の彼女を形成する土台ともなった出来事なのですから、当然ですよね」
そこで、足元の気配がふと消えた。真が視線を下げると、ナビコの姿は既にそこになかった。
「お、おい!」
話が中途半端なところでいなくなるのは反則だろうと、真は慌てて周囲を見回す。と、次の瞬間、彼は右肩に再度出現する気配を感じた。
「立つのが疲れたので失礼しますねー」
「んな……!?」
いきなりに肩を腰掛け代わりに利用され、真が慌てる。実体はないので重さはまるでないのだが、顔の位置がやけに近かった。
「いや、というか実体がないんだから疲れたも何もないはずだろうがっ」
「まーまー、男なんですから、細かいことはお気になさらず」
首を傾げて微笑まれ、真は額を押さえて天を仰ぐ。しかし、仰ぐべく空はなく、この空間は伽藍堂だ。
容姿の面が大半を占めるが、虚を突かれたまま完全にペースを持っていかれている。これもハナコの一部だと言うのなら、確かに自分はまだまだ彼女のことを知らなかったのだろう。
「そういうわけですから、真さんは、この子に色を与えてあげてください」
そして、急に話を再開し、ナビコは言った。
「色……?」
「はい。この空白の心に、あなたの魂を重ねて、記憶を呼び覚ましてください」
肩の幼女は穏やかに笑う。そして、無言の少女を愛しそうに見つめた。
「この子に、聞かせてあげてくださいな。真さんと、ハナコの始まりを」
「……そうすれば、こいつは戻るのか?」
「ぶぶー、です。それは始めの一歩ですよ。心の攻略は、そんなに優しいものではありません」
認識が甘々ですねと、呆れた吐息を耳元で零される。小馬鹿にされて癪ではあったが、言い返せる余地がないので我慢する他なかった。
「とはいえ、現状わたしが言えるのはここまでですねー。既にご理解の事とは思いますが、ハナコはあなたに完全に心を許してはいません。ですので、わたしが話せることには制限があります。より上位の存在が、わたしを口止めしているのですよ」
「……そうなのか」
改めて言われると少なからずショックではあるが、それは致し方のないことだ。しかし、この幼女がハナコの心の一部であるのなら、こうしてヒントを与えてくれているのは、受け入れようとしてくれている部分もまた、彼女の真実の一端としてあるはず。
それが、自分にとっての命綱であり、先へ進むための希望だ。
「あなたが、今よりもハナコの心を進むことができれば、わたしもお話しできることが増えていくことでしょう。どうか、頑張ってください」
「ああ。俺は絶対に、ハナコを取り戻す。覚悟してろよ」
「くふふ、期待してますね。ではでは、上手くいけば、またお会いしましょー」
そして、ナビコは手を振ると瞬きする間に姿を消してしまった。
まるで最初から存在が幻であったかのように思えたが、朗らかな笑い声は耳に残っている。
ある意味、彼女の言葉は全てハナコのものであると言ってもよいのだろう。心の世界の不可思議さを目の当たりにし、戸惑いが完全に抜けきったわけではないが、やるべきことは示された。
取り残された真は、一度深く息を整え、心をきつく締め直す。
「おい、ハナコ」
そして、今までのやり取りの中でも何も反応を示さない、無言の少女と相対した。
声を掛けるが、当然のように返事はない。それでもよいと、彼は続けた。
「俺の命を勝手に救っておいて、今度はお前が勝手にいなくなるなんて、許さないからな」
少女に歩み寄った真は、彼女の両肩に手を置き、互いが触れ合う距離にまで額をゆっくりと寄せる。直接触れることは叶わないが、寄り添うことで、その存在を近くに感じ取ろうとした。
「思い出せ。そんで、戻って来い。俺はまだ、お前に何も返せてないんだからな」
魂から溢れそうになる記憶と想いを繋げるように、真は瞳を閉じ、心の中に思い起こす。
昨年の夏休みの終わり。二人が出逢った、その時を。




