8.死すらも二人を別つことはできない
真っ暗な部屋で、カイザはベッドに横になっていた。隣にはミハエルを寄り添わせ、ぼうっと天井を見ていた。
ーー馬鹿なお前のおかげでな!ーー
ーーエドガーだ……ーー
カイザは横を向いて、ミハエルを見つめる。長い睫毛も、闇にぼんやりと浮かび上がる白い肌も、やはり、昔と変わらない。変わらないのに……
「…ミハエル」
呼びかけても、答えない。カイザは彼女の身体をゆっくりと自分に向けさせた。その顔を暫く見つめて、考える。こんなに彼女を愛おしく想うのはやはり、彼女を一人の女性として見ているからなのか、と。幼い頃はただ一緒にいたいだけだったが、彼女と釣り合う年齢になってその想いは何時の間にやら恋愛感情に変わっていたのだ。
カイザは眠るように目を瞑る彼女に顔を寄せ、そっと唇を重ねてみる。死体に口づけする程に狂おしく愛しているのに、カイザの想いはミハエルの柔らかな冷たい唇に吸い込まれるばかり。一方通行。顔を離したカイザは、彼女を見つめて静かに涙を流した。
「起きてくれよ、ミハエル……」
幼い自分を抱き締めてくれた身体はそのままなのに、声も聞けない。笑顔も見れない。わかってはいたが、激しい環境の変化がカイザを限界まで苦しめていたのだ。嫉妬なんてしないから、彼女を生き返らせてくれ……なんて、都合のいい神頼みをさせるまでに。
誘拐された惨めな自分を救い出してくれたのは彼女だった。離れてからも再会の約束と揃いの鍵が彼を支えていた。マスターを殺して自暴自棄になっていた彼に生きる目的を与えたのも、死んでいたとはいえ、彼女だった。
育ての親を殺してしまった罪悪感、ミハエルが伝説のエドガーであると知った衝撃……それらに押し潰されてしまいそうな彼は、彼女無しではもう、正気すら保てそうになかった。
真実から目を背けないと決めたからこそ、今度は知ることを恐れ始めるカイザ。子供のように、ミハエルの死体を抱き締めて泣いていた。
「俺は、どうしたらいいんだ……」
彼女にしか苦しみや悲しみを曝け出せなくなっていたカイザは、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。冷たく、暗い夢の淵へ。
「まだ寝てやがった」
「放っておいてやれ。カトリーナを出てからまともに寝てなかったからな」
煙管を咥えて窓際を陣取るクリストフ。ガトーは部屋の真ん中のテーブルの近くで槍の手入れをしていた。
ここはリノアから少し北東にあるダリの町。鉱山を出てからこの町で宿を取り、身を隠していた。もう時刻は昼。フィオールはクリストフとガトーの部屋に入るなり、困惑した表情でガトーの向かいに座り込んだ。
「あいつ、エドガーの死体を抱き締めて寝てたぞ」
「…放っておいてやれ」
フィオールは頭を抱えて深く溜息をつく。それを見兼ねてガトーが立ち上がった。どうやら茶を淹れるらしい。
「あ、あたしにも」
ソファーにだらしなく座るクリストフがポットを手にするガトーに向かってそれまただらしなく手を振った。
「東の国の茶無いのか? なんだっけ……」
「緑茶ですか?」
「それそれ! 美味かったよなー。ヤヒコからもっと貰ってくればよかった」
「おい!」
フィオールがテーブルを叩いて叫んだ。
「あいつとエドガーはどういう関係なんだよ!」
フィオールの怒鳴り声が部屋に響く。しかし、ガトーは何事もなかったかのように湯を沸かし始めた。クリストフも眉を寄せて面倒臭そうにしている。この山賊親子は怖気づくことを知らない。その様子にフィオールの怒りは増してゆく。
「お前らな、そんな呑気にしてる場合じゃねぇだろ! これから鍵を巡る戦いが始まるんだろ! 当事者がそんな態度でいいのかよ!」
クリストフはそっぽを向いて鼻からもやもやと煙を吐き出す。
「そんなあたふたしたってどうしようもないだろ。もう一人の当事者があの調子じゃあな」
クリストフはソファーに首までもたれかかって天井を仰いだ。
「もう一人は死んでんだろ! 生きてるお前らがどうにかしろよ!」
「違うって。カイザの事だ」
「…カイザ?」
フィオールの声が急に小さくなる。
「やっぱりあいつ、エドガーと何か関係があるのか? お前らみたいに」
「知らねぇよ。でも、どう考えても知り合いだ。ミハエル、なんて呼んでたし。それにあの雰囲気……恋仲だったのかもな」
クリストフはフィオールを見降ろして意地悪く笑って見せた。少女はわかっていた。彼はこの争いにカイザが巻き込まれることを恐れていると。フィオールは言葉を詰まらせ、苦しげに俯く。ミハエルに執着する様子ばかりか、彼女を抱き締めて眠るカイザを見ていたために、返す言葉もなかったのだ。
「カイザのやつ、顔だけは良いしな。クロムウェル家にいた頃は"その容姿に神も嫉妬する"、なーんて言われてたっけ。神に愛された女と神に嫉妬される男、お似合いじゃないか」
「ふざけるな」
「あたしはいつでも真面目だ」
クリストフは灰を落として、ふう、と息をついた。その顔からは笑顔が消え、少女は何やら複雑な顔をしている。
「エドガーとカイザが赤の他人だったとしても、あいつはこの争いに巻き込まれる運命だった」
「なんでだよ。エドガーがいなければカイザは盗まれた業輪を探そうとはしなかったはずだ」
「そのエドガーと業輪が埋められてたのは何処だ」
フィオールは悔しそうに黙り込む。
「…あたしだって、認めたくはない。お前と同じくギールにあいつの行末を託されてたんだからな。しかし、エドガーと業輪がカイザの墓から出てきた以上、クロムウェル家も鍵戦争に加わると考えていいだろう。むしろ……クロムウェル家が発端、かもしれない」
フィオールは唇を噛み締めてテーブルを叩いた。
「カイザは、クロムウェル家に生まれた時からこうなる運命だったんだ」
ガトーが俯くフィオールの前に静かに茶を置いた。クリストフもガトーからカップを受け取る。
「…俺は、どうしたらいい」
湯気が上がるカップを目の前に、フィオールは呟いた。
「そんなの自分で決めろ。お前はあたしやカイザと違って、無関係にもなれるんだからな」
クリストフは茶を啜りながら窓の外を見つめる。ガトーは槍の手入れを再開している。フィオールは黙って考え込んでいる。
「…雨の匂いがするな」
クリストフの独り言を最後に、部屋は沈黙で包まれた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
声がした。カイザを呼ぶ優しい声。
「カイザ?」
目を覚ますと、カイザはベッドの上で冷汗をかいて横たわっていた。
「大丈夫?」
目の前には心配そうに少年を見下ろすミハエルがいた。
「魘されてたわよ? 怖い夢でも見たの?」
カイザはミハエルの服を掴んで、荒い息を整えた。目からは涙が滲み、息を整えるはずが逆に嗚咽で乱れてゆく。ミハエルは悲しげな笑みを浮かべて少年の頭を撫でた。
「…そんなに怖かったの、可哀想に」
ミハエルはベッドに横になってカイザを抱き締める。まだ彼女が起きるには早すぎる時間。眠いだろうに彼女は少年の頭を優しく撫で続ける。
「俺、真っ暗な墓の中に入ってたんだ。たぶん死んでしまったから」
少年は彼女の胸の中で話し始めた。
「そしたら……棺の蓋や墓石が透けて見えた。そこには墓の前で悲しそうに泣いてるミハエルがいて……俺、叫んだんだ。ここにいるって。死んでも心はここにあるって」
しだいに声量が大きくなり、涙声になってゆく。彼女は頭を撫でる手を止めて、少年の話に聞きいる。
「どんなに叫んでも声は伝わらなくて、俺……」
少年の涙が彼女の服に滲む。彼女はそんな彼から身体を離し、ゆっくりと起き上がった。少年はそんな彼女をじっと見つめて、また顔が歪み始める。彼女が何処かへ行ってしまうと思ったのだ。しかし、彼女は振り向いてにっこりと微笑んだ。
「おいで?」
少年は彼女に連れ出され、墓地までやってきた。外は夕暮れ。すれ違う人々は自宅へ帰るが寝支度するにはまだ早い時間。二人は橙の空の下、ある墓の前で立ち止まった。
「覚えてる?」
彼女は墓石の前でしゃがみ込み、愛おしそうにそれに触れた。ミハエルと出会った夜、カイザが掘り起こしていた墓だ。
「ローズウッド夫人も、あなたが可哀想だって」
少年は驚いて涙が止まる。彼女はまだ話し続けた。
「夢は決して現実ではない。だから涙を拭いて、笑いなさい……」
「ミハエル、死者の声が聞こえるのか?」
驚く少年に、彼女は優しく微笑んだ。
「聞こえないわ」
「…出鱈目言ってただけかよ」
落胆する少年を見て、彼女はクスクスと肩を震わす。そして、ローズウッド夫人の墓に向き直った。
「出鱈目でもないわ。夫人は生前、とても温厚で優しい方だったの」
彼女は少年の手を握って自分の隣にしゃがませた。
「この下に、夢の中のあなた同様夫人は眠っている」
「……」
「何か聞こえる?」
「…聞こえない」
「死者はね、身体を失うばかりが伝える術さえ失くしてしまう。完全に私達の生きる世界から隔離されてしまうのよ」
少年は墓石を見つめて先程の夢を思い出す。そして、驚きで引っ込んでいた悲しみが舞い戻ってきた。泣き出しそうな顔をする少年の肩を、彼女はそっと抱き寄せる。
「カイザ、あなたは夢でなんと叫んだ?」
「…ここにいる。心はここにある、って」
「ローズウッド夫人もね、今ここにいて、心はここにあるのよ」
カイザは呆然と墓石を見つめた。そして、重たい口を開いた。
「…この前は、ごめんなさい」
夫人の墓を荒らしたことが心から申し訳なく思えた。すると、カイザの目に見たこともない優しげな夫人の顔が透けて浮かび上がった。
「許してくれるって」
「俺も聞こえた……ような気がする」
彼女は嬉しそうに微笑む。
「本当は何を言っているかなんて、わかるはずがない。でもね、それでも向かい合うの。土の下の死者の言葉と。私はずっと、そうしてきた」
カイザは夢を思い出そうとするが、もう思い出せなくなっていた。死んだ彼を見下ろす彼女は優しく微笑んでいるだろうとしか、考えつかなくなっていたからだ。
「墓守って、凄い」
カイザがミハエルを見ると、彼女はやはり、微笑んでいた。
手を繋いでノースの家に帰る二人。そして、抱き合いながら再びベッドに入った。
「俺が死んでも、ミハエルは側にいて声を聞いてくれるんだ」
「ちゃんと聞き取れている保証はできないけどね」
「それでもいい」
彼女の笑顔が、そこにあるなら。少年はそう考えていた。
「私も、平和な世の中であなたが笑って……幸せそうにしていれば、それで……」
少年の髪をこそばゆく撫ぜる彼女の吐息。それが静かな寝息に変わると、少年もまた、深い眠りについていた。彼女の腕の中で温もりを感じ、安堵しながら。




