84.言い訳程無駄なものはない
それは、悲しい別れであった。
「お願い、聞いて! 私……!」
男は縋りつく女を払いのけ、扉のノブを握った。
「もう、何を聞いても信じられねぇよ……許す気にもなれねぇ」
「フィオール……お願い、許して。もう二度と……」
「こんなに愛したお前だから、たった一回の裏切りが許せないんだよ!」
女ははらはらと涙を流し、フィオールの背中を見つめる。
「…自分でも、こんなふうになるなんて思わなかった。浮気くらいで、こんな……こんな、悲しくなるなんて」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「謝るな。もう無理だ。このまま付き合いを続けても、俺は前みたいにお前を愛せない。許せない……」
フィオールはノブを捻り、外へ足を踏み出した。
「じゃあな、ユリヤ」
閉まる扉を見つめ、ユリヤは呼吸も乱れる程に声を荒げて泣いた。彼女の泣き声を背中に聞き、覚束ない足取りで歩くフィオール。彼もまた、泣いていた。
浮気をしてもなお開き直ることすらできずに縋りつこうとさせる。たった一度の過ちさえ許せなくさせる。こんなにも、二人は愛し合っていたというのに。過ちも嘘も、何も許されない完璧な関係でしか互いを繋ぎ止めておけなくなっていた。裏切りでも何でもない。互いを想うその気持ちが……二人を別つこととなった。
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「なんだって?!」
4番街の酒場。酒を飲んでいたカイザは、遠くの席の叫び声に驚いて顔を上げる。
「声がでけぇよ! 他の客もいるんだから静かにしろよ! ほら、座れ」
一緒に飲んでいた客に言われて、おずおずと座るフィオール。それを見て、カイザは深く息を吐いて酒を口に運ぶ。ユリヤが現れるまで、フィオールは情報収集することにしたようだ。カイザは約束どおり、その見張りをしていた。
「…さっきの話、本当か」
「知らねぇのか。呑気な奴だな」
フィオールを呆れ顔で見つめ、客の男は言った。
「ゼノフが制圧された時、カンパニーレも巻き込まれたらしいぞ」
「グレン……カンパニーレの将軍は!」
「死んだとは聞いてないな。とにもかくにも革命派と帝国の正面衝突が始まった。国は荒れるぞ、これから」
フィオールはグラスを握り締め、黙り込む。男はカウンターに頬杖をついた。
「やだねー、戦争は。噂じゃ、ブラックメリーやホワイトジャックも動いてるらしいじゃないか。最近は東の連中も大陸に乗り込んできたようだし」
「東の連中?」
「あれだよ、東国の化物だ。ぞろぞろと来て、なんだっけな……神の遺産を探してるらしい」
ついに、ヤヒコが動き出した。
「どうなるのかねー、この世は」
「…お前、鍵戦争って知ってるか」
フィオールが聞くと、男は小さく笑って言った。
「何だ、国のことはわからねぇのにそんなくだらねぇ夢物語だけ知ってんのか」
「鍵戦争は……どうなってる」
「まさか、本気にしてんのか? 神の寵愛を受けた美女達の鍵がなんちゃら……なんて話」
「……」
「…馬鹿げた話だよ。本気になって探してる連中もいるんだからな。詳しいことは知らないが」
誰も知らない。帝国と革命派の争いも、ブラックメリーとホワイトジャックの抗争も、東の国の進軍も……全て、鍵戦争が招いた戦であることを。フィオールは酒を一口飲んで、言った。
「ブラックメリーについては……何か、噂になってないか」
「ブラックメリー? 最近までノースにいたって聞いたが……その後は知らないな」
「そうか」
難しい顔をするフィオールに、男は聞いた。
「お前、本当に何も知らないんだな。何処から来たんだ?」
「……」
何も知らない。情報屋の自分が、一般人にこんなことを言われるなんて。
国が動いている。蘭丸の言うとおり、ゼノフは帝国に落ちた。いや、クロムウェル家か。アンナ寵妃は思ったよりも早く、そして確実に国を侵し始めている。軍も持たない自分達では何もできない。こればかりは、ダンテに頼る他ない。
「……おい、聞いてるか?」
男がフィオールの顔を覗き込んだ。
「その人、元々国の情勢なんかには疎いのよ。呑気な旅人だから」
振り返ると、優しく笑うユリヤがいた。
「お待たせ」
「……」
カイザは店の入口の近くのテーブルから、ユリヤの背中を真っ直ぐに見つめていた。
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蝋燭の火が揺らめく部屋。シドはベッドに寝転がりながら、ギバーを操る練習をしていた。テーブルの席に座るルージュは、心配そうに暗い窓の外を見つめていた。
「帰って来ないねー、クリストフ」
シドの言葉に、ルージュはふとシドを見た。
「…そうですね」
「なんか、嫌な匂いがする」
ルージュは困ったように笑い、言った。
「…すみません。私の不安が鼻につきますか」
「違うよー」
シドは身体を起こした。
「フィオールだよ。なんか、いつもと違った」
「……」
皆分かっていた。それをこの少年は改まって言葉にしている。
「なんか、足りない」
ーーあいつ、昔の女に出くわして指輪をとられたみたいなんだ……ーー
宿を出る前にカイザが言っていたことを思い出すルージュ。
「指輪のこと……ですか?」
「違う」
シドは首を横に振った。
「あれ……生気、っていうの?」
「生気?」
「フィオールが、小さくなったような気がした」
ルージュには、この少年の感じているものがわからない。不思議そうにしていると、シドは眼帯に触れた。
「…見る? 僕が感じた物」
「見る、とは?」
「僕の精神感応、自分の感覚をそのまま相手に伝えることもできるんだって」
「……」
「……見る?」
ルージュは少年を見つめ、こくりと頷いた。それを見て、シドは眼帯を解いた。右目から溢れる煙はルージュを包む。真っ暗な視界に、ぼんやりと朝の光景が浮かぶ。隣には自分、目の前には、フィオールとカイザと、ミハエル。これは、シドの視界。
ーー歩く嘘発見器かよ……ーー
少し雑音が混じりながらも聞こえる。感じるのは、風の流れ、仄かな匂い。甘ったるくて、少し気怠くなるような……そして、フィオールのから発せられる空気。熱、ともいうのだろうか。弱々しい波に、違和感を感じている。シドの"足りない"という感覚がこれなのだろうか。
「……わかった?」
やけにはっきりとしたシドの声がしたかと思うと、目の前がぶっつりと暗くなり、覆っていた煙がシドの目玉に戻ってゆく。シドは、眼帯を下ろした。
「ねぇ、なんなの? あれ」
シドが首を傾げるが、ルージュにも答えようがない。
「…シドの感じたものはわかりました。でも、それがなんなのかまでは」
「そっか。じゃあ他の人に聞いてくる」
シドはベッドから飛び降りて、窓に駆け出した。
「シド!」
ルージュが慌てて立ち上がって駆け寄るが、シドは窓の外へ消えてしまった。ルージュも行こうとして、思い留まる。ミハエルを残すわけにはいかない。ルージュは大きな溜息をついた。
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ユリヤが現れると、男は入れ替わるようにして店から立ち去った。ユリヤは男がいた席に座る。カイザが見る限り、その女がユリヤかどうかはわからない。会話が聞こえるわけでもない。五感の鋭いシドが羨ましく思った。眺めていると、二人は何やら話し始めた。背中から首にかけての動きが、言葉の交差を映し出す。
「……本当に、来てくれたのね」
「指輪をとっておいて、よく言う」
「バレた?」
「当たり前だろ」
ユリヤは悪戯に笑うと、目の前に差し出されたグラスを手に取った。
「…乾杯、なんて空気じゃないわね」
「……」
両手でグラスを持ち、俯くユリヤ。それを見て、フィオールは辛そうな顔をしながらも酒を煽り、言った。
「指輪を返してもらいに来ただけだからな」
「そんなに大事なのね。指輪も、今の恋人も」
「ああ」
「……」
フィオールは横目にユリヤを見た。その目は潤んでいる。泣かれる。そう、覚悟したが……
「…いいわ。一緒にいれただけで……よかったから」
ユリヤは、笑った。
「フィオールはそういう男だもの。自分の正義には何があっても反することができない。例え、心が全く違う方へ傾いていても」
「……」
「それでいいわ。私が、昔のようにあなたの心を解き放ってあげればいいだけのこと。昼は正義にかぶれて、夜は……獣になればいい。それだけのこと」
彼女の囁くような声が、耳を擽る。彼女の茶色い瞳が、頭を麻痺させる。心に夜が、訪れる。
「私にしか、本当の自分を曝け出せないフィオール。昨晩のように、全て……全て私に、ゆだねて?」
「……」
「それでいいの、私は」
ぼんやりとするフィオールに、顔を寄せるユリヤ。それを見て、カイザは席から立ち上がった。
「現行犯だ、フィオール」
聞き覚えのある声。カイザが店内を見渡すと、自分と同じように立ち上がる客が一人。ユリヤはぴくりと動きを止めた。その人物はカウンターへと歩み寄り、惚けるフィオールの胸倉を掴んだ。フィオールは我に返り、慌てて目の前の人物に視線を定めた。すると、その人物は着ていた羽織りを投げ捨てた。
「お前、自分のしたことわかってるよな」
「…クリストフ、」
「表出ろ」
フィオールは目をぱちくりさせている。クリストフはフィオールを立ち上がらせ、店から引きずり出そうとした。
「待って」
フィオールの腕を掴むユリヤ。カイザは立ち尽くしたまま、三人を見つめる。クリストフはフィオールを突き放してユリヤを睨む。
「…このあたしが見逃してやろうってのにわざわざ突っかかろうってのか。こいつも、お前も、二人揃っていい度胸だ」
「クリストフ、こいつは……!」
「うるせぇ! 下手人は黙ってろ!」
クリストフが怒鳴ると、ユリヤは笑いながら立ち上がった。
「…フィオールの新しい恋人はどんな女性かと思えば…本当に素敵なお嬢さん。口が悪くて、まるで賊みたい。目くじら立てちゃって、遊ばれてるとも気付かないのね」
「元、恋人ってやつか。お前こそいい年してこんな馬鹿に感けてるなんて、よっぽど嫁の貰い手に困ってるんだな」
自分の年を棚に上げて毒を吐くクリストフ。フィオールは二人を不安気に見つめるばかり。ユリヤは小さく笑い、フィオールの腕に手を回した。
「この人にあなたみたいな若いお嬢さんは釣り合わない。無理よ」
「若さを妬むなよ」
「そんな、妬むだなんて。若いだけじゃあこの人と夜は過ごせないもの」
クリストフの目が、きつく釣り上がる。フィオールはユリヤの手を払った。しかし、ユリヤはニヤリと笑って、言った。
「あなただって大変だったでしょ? 彼、激しいから。私じゃないとフィオールも満足できないみたいよ? 昨日だって……」
「……てめぇ!」
クリストフは、拳をユリヤに振り上げた。カイザが駆け出そうとした、その時。
「やめろ!」
フィオールがユリヤを庇うように前に出た。クリストフの拳が、フィオールの右肩を殴りつける。カウンターに吹っ飛び、酒瓶やグラスを散らかしてフィオールは倒れ込む。
「フィオール!」
ユリヤがフィオールに駆け寄る。フィオールは肩を抑えて、クリストフを見た。少女は拳を握り締め、二人を見下ろしていた。黄金色の瞳を、潤ませて。
「……」
少女は何も言わず、背を向けて歩き出した。出口に向かってくる少女を見て、カイザはさっと席に座る。
「クリストフ!」
フィオールは肩を抑えながら立ち上がり、少女を追いかけて店から出て行った。
「……」
ざわめく店内。カイザは酒を飲みながら、カウンターにしゃがみ込むユリヤを見ていた。ユリヤはフラフラと立ち上がり、席に座り直す。その背中は何処か……黒い。
「クリストフ!」
繁華街から離れた暗い橋の上。フィオールはクリストフの腕を掴んだ。少女は背を向けたまま立ち止まる。フィオールは息を整え、言った。
「クリストフ、違うんだ、あれは……」
「どう違うんだよ!」
クリストフの叫び声は、川原に響く。欠けた月が照らす少女の肩は、小さく震えていた。
「言い訳なんて、聞きたくない」
「……」
2年前と似た雰囲気。自分は、また……
フィオールは、言葉を噤んだ。あの時、自分はユリヤの言葉を聞き入れなかった。どんな理由があったとしても、許せなかっただろうから。クリストフも今そうなのだろう。そして、他の異性に触れた手すら汚らわしく感じたことを思い出す。フィオールは、少女の手を放した。
「……あたしはこの先、カイザを連れてパリスにいかねばならない」
「…わかってる」
「お前はもう、ついてくるな。元々、関係なかったのだから」
クリストフは指輪を外した。そして、それを川に放り投げた。月光に光る金の指輪は、ぽちゃんと小さな音を立てて暗がりの川へ消えた。
「明日の昼にはノースに発つ。荷物を取りにくるなら、それ以降にしろ」
「……」
「二度と、顔も見たくないからな」
少女はそういうと、振り返ることなく橋の向こうへ消えた。宿とは反対方向。何処へ行こうというのか。しかし、フィオールは追うことができなかった。指輪も無い自分に、できるはずもなかった。