82.少年達の昼下がりに
決して美しいとは言えない、古い街並み。しかし、少年の目にはどれも輝いて見えた。細く高い橋は綺麗なアーチを描き、その円を浅い川が流れる。橋の下を駆けて、少年は時計台の天辺まで駆け上った。そして、低い建物がカラカラと玩具のように並ぶのを見下ろす。
「…広いなあ」
風に煽られるフードを抑えながら、串に刺さった焼いたイカをもくもくと食べるシド。
「……」
あるものが目に留まった。塀の上を歩く、愛らしい姿。シドは、ニヤッとして時計台から飛び降りた。
「お前、外出てたろう」
「……」
黙り込むカイザ。クリストフはニコニコ笑ったまま、言った。
「今日だけ許してやろう」
「…は?」
「買い物付き合え」
「……は?!」
少女はカイザの手を引いて歩き出した。部屋に入ると、ベッドの上で丸くなっていたルージュは慌てて起きた。寝ていたらしい。少女はミハエルを椅子に座らせると、羽織を手にカイザを引っ張って部屋から出て行った。ルージュは少し呆然として、再び首を垂れた。
気に食わない。気に食わない。
ーーさっき、男の人が来て煙草を買って行ったんだけど、すっごい美形だったの。名前くらい聞いておけばよかった……ーー
気に食わない。気に食わない。何が美形だ。どうせただの観光客。この街の二面性が物珍しくて来ただけだ。女の夜の顔なんて見たら腰抜かして逃げ出すに決まってる。気に食わない。気に食わない。
こんなことを思うのも、意中の人が他の男に見惚れていたからである。所謂、嫉妬だ。塀の上を歩いていると、目の前に黒い靴が現れた。
「…ほら、あげる」
しゃがみ込んだ少年が差し出したのは、食べかけのイカ。この少年、見かけない顔だ。観光客だろう。虫の居所が悪かったので、少し驚かせてやることにした。
「おい、ガキ」
低く、ドスの効いた声。くりくりとした赤い目が、ギロリと光る。
「猫はイカ食うと腰抜かしちまうんだよ」
「……」
黒猫がそう言うと、少年はイカをじっと見た。そして、黒猫の口に突っ込んだ。猫は奇声を上げて塀から転げ落ちる。イカを吐き出し、舌を前足で擦る。
「美味しいよ? イカ」
塀の上から少年が言うと、猫は涙目になって怒鳴った。
「味なんてどうでもいいんだよ! 食えないって言って……」
ニコニコ微笑む少年を見上げ、猫は言葉を飲み込んだ。そして、聞いた。
「…お前、猫が喋ってんのに驚かねぇのか」
「えー?」
少年は塀から飛び降りた。
「だって、うちの蜥蜴も喋るよ」
「蜥蜴?!」
驚く猫を抱き上げ、シドは笑う。
「皆喋るじゃん、何言ってんのー?」
「普通動物は話さねぇんだよ! 放せ!」
暴れる猫を見つめて更に笑うシド。
「放せって言われると、放したくなくなるなあ。僕、恋も追いかけられるより追いかけたいタイプだから」
「……じゃあ放すな」
「わかった」
「どうしろってんだよ!」
猫が怒鳴ると、シドは猫を抱き締めたまま塀に飛び乗った。そして何処に向うわけでもなく歩き出す。
「ガキのくせして追いかけられるより追いかけたいだなんて……何処で覚えたんだ! そんな台詞!」
「組織の仲間が言ってた。シドはそういうタイプだな、って」
「組織?! お前何者だよ!」
「僕? シド」
シドは塀の向こうに飛び降り、川原を歩き始めた。
「俺は水も嫌いだ! 放せ! 放す気がないならせめてここから離れろ!」
「君の名前はー?」
「話聞けよ!」
暴れようにも川が目の前にあり、猫は怒鳴ることしかできない。シドは、静かに言った。
「聞いてあげようか、話」
「だから聞けって! ここから離れ……」
「君、嫌な事あったでしょ」
シドはニッコリと微笑む。それを見て、猫はおとなしくなる。
「僕には隠せないよ。ビリビリしてたからね、君。何か悩んでるでしょ」
「……」
この街に来たはいいものの、誰もかれもが商売に浮かれて相手にしてくれなかった。そんな時、唯一相手にしてくれたのが……煙草屋の娘だった。彼女のために、ただの猫を装う毎日。悩みも何も、聞いてくれる相手すらいない街。
「……シド、だったか」
「うん」
「俺は、チェシャ」
「チェシャ、可愛いね」
シドの微笑みに顔を背けて照れ臭そうにするチェシャ。ひんやりとした風が二人を一瞬包んで、吹き抜けた。
「そっかあ。煙草屋のお姉さんに」
「……笑えよ。化け猫の分際で人間に惚れやがって、ってな」
「笑わないよー。食べる?」
「…いらない」
時計台の上に座り、街を見下ろしながら話す一人と一匹。シドはクッキーをごくりと飲み込み、言った。
「告白したら?」
「なんでそうなる!」
「僕したよ。一目惚れして、結婚してって」
「け、結婚?! それで?」
「いいよって」
「…ガキじゃ話にならねぇな、やっぱり」
チェシャは溜息混じりに俯く。それを見て、思い出したように言った。
「そういえば、うちの蜥蜴のお嫁さん人間だよ」
「本当か!」
チェシャは勢いよく頭を上げた。シドはにこやかに頷く。
「うん。娘も一人いる」
「人間と子が成せるのか……蜥蜴でもできるなら、俺だってできるよな」
「うん。たぶん」
「…シド、是非その蜥蜴に会わせてくれないか」
シドは少し考え、いいよ、と言った。チェシャは嬉しそうにシドの膝に飛び乗る。シドは黒猫を抱き締め、時計台から勢いよく飛び降りた。
商店街にある洋服店。そこに、難しい顔をするクリストフがいた。
「…これか?」
「いや、俺に聞かれても」
クリストフが差し出したのは、真っ青なワンピース。クリストフは不満気にその服を戻した。
「エドガーが着るんだから真面目に選べ」
「だから、服を選んだことがないからわからないんだよ」
「着て欲しいものとかないのか?」
カイザはクリストフをじっと見つめる。上半身はまるで下着のような格好。だるだるの末広がりな柔らかい素材できた下も……少しズラせば下着が見えそうだ。カイザは眉を顰めた。
「…あまり、肌を出さない服」
「おい。人の格好見て嫌そうな顔すんな。失礼だぞ」
二人が服選びにもたついていると、店員がやってきた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「……」
クリストフはノーラクラウンの店でのことを思い出し、カイザを親指で指して言った。
「こいつの嫁に、土産で一着買いたいんだが」
「なっ、何言って……!」
赤面してあたふたするカイザ。店員はそれを微笑ましげに眺め、言った。
「優しい旦那様ですね」
「だ、だん旦那なんかじゃ……!」
「奥様はどのような方なんですか? お選びいたしますよ?」
クリストフはカイザの鳩尾に肘を突いた。咳込みながらも、たじたじとカイザは口を開く。
「…髪が黒くて」
「はい」
「目も…大きくて、黒くて」
「はい」
「肌が白くて…」
「はい」
「……そ、その、美人です」
クリストフはすーっと視線を斜め上空に向けて笑いを堪える。店員は赤面して俯くカイザに何やら感動していた。
「…わかりました! 素敵なご夫婦のために、奥様に見合う一品を選ばせていただきます!」
「あ、ありがとう」
店員はカイザの一度強く握ると、颯爽と店内へ消えた。
「よかったじゃないか、カイザ。店員もお前の想いに応える気満々だぞ」
「何で俺がこんな……」
カイザは額に手を当てて落ち込む。クリストフはカイザの肩を叩いて笑った。
「……はあ、この化け猫が私に会いたいと」
ベッドの上でルージュは目をパチクリさせている。チェシャはシドに抱かれながらルージュをじっと見つめる。
「蜥蜴が喋ってる」
「だから言ったでしょー?」
驚くチェシャと笑うシド。ルージュは溜息をついて言った。
「拾い物も駄目だと言っておけばよかったですかね」
すると、赤い蜥蜴は炎に包まれた。チェシャはシドにしがみつく。炎は大きくなり、中から人の姿をしたルージュが現れた。眉を顰め、膝に肘を置く。
「シド、拾い物と拾い食いは駄目ですよ」
人の姿のルージュを見て、チェシャは暴れ始めた。
「おい! 何が蜥蜴だ! 妖精様じゃねぇか!」
「え、だって蜥蜴じゃん」
「妖精様なら人に化けれるから人間と恋仲にだってなれるに決まってるだろうが!」
「別に化けてるわけじゃ……」
ルージュの言葉もそっちのけでチェシャはミャーミャーと泣き声を上げながら怒鳴る。
「俺はこの姿しかないんだぞ! その上、妖精様は人に好かれてるからどうとでもなるが、俺は嫌われ者なんだ!」
「え、そうなの?」
「そうだ! 化け猫なんだから当たり前だろ!」
チェシャはシドの腕から飛び出して部屋の隅っこに丸まった。シドは申し訳なさそうにチェシャを見つめる。ルージュは立ち上がり、言った。
「…あまり深く関わりたくはないのですが。なんです? あの輩声の猫は」
「チェシャ。煙草屋の娘さん……人間の女の子に恋してるんだって」
「それで、私に会いに来たんですか」
ルージュは面倒臭そうな顔をながらも、チェシャに歩み寄る。シドは心配そうに見つめていた。丸くなってぷるぷる震えるチェシャの後ろにしゃがみ込み、ルージュは言った。
「その……なんです。愛に種族も何も関係ありませんよ?」
「気休めは結構だ! あっち行け!」
だったら出てけ……そう思ったが、言わずにおいた。ルージュは小さく震える背中を撫でた。
「もう一つ、気休めを言うのなら……私の友人の悪魔は、決して結ばれないとわかっていながら正体を隠してまで人間に恋をしています」
「……」
「種族が違うというだけでも大変なのに、あろうことか、彼は既に結婚している女性を好きになってしまったのです」
チェシャは少し顔を上げ、振り返る。
「それでも彼は、いつかその人と幸せを掴めることを願っています。その小さな希望こそが、彼にとっての恋なのです。決して、私のように結婚して子を成すことだけが終着点というわけではありません。人の数だけ、想いの形があるのです」
「……」
「化け猫だからと嘆くことはありません。どんな形であれ、あなたにもあなただけの終着点があるはずですよ。躊躇わずに歩みなさい」
「…妖精様」
チェシャはミーミーと弱々しく泣きながら振り返った。
「…ありがたいお話……心に染み入りました」
ただの不倫話だが。ルージュはそう考えながらも優しく微笑み、チェシャの頭を撫でた。チェシャはシドを見て、言った。
「…ありがとう、シド。俺……頑張るよ」
「うん、頑張ってチェシャ」
シドはチェシャに駆け寄って黒猫を抱き締めた。
「一人ぼっちの俺に気付いてくれて、本当にありがとう」
チェシャはそう言うと、するりと腕をすり抜けて窓辺に立った。そして、振り返る。
「お前とは、また何処かで会いたいな」
「僕もだよ、チェシャ」
「……じゃあ、またな。妖精様もお元気で」
チェシャは窓から飛び降りた。シドは窓に駆け寄り、路地に消えるチェシャの後姿を見つめる。
「…行っちゃった」
「行っちゃいましたね」
ルージュも窓の外を見て、ぼんやりと呟く。なんだったんだろう、そんな思いを胸に。とにかく、オズマの不倫話が功を奏したのだ。
「…くしゅん! あー……」
「鼻垂れてますよ」
オズマはちり紙をダンテの鼻に押し付けた。
「噂されてんのかな」
「噂される度にくしゃみなんかしてたら身が持たないですよ、ダンテさんは」
「じゃあ珍しくオズマが噂されたから代わりに僕がくしゃみしたんだね、きっと」
「そんなわけないでしょ」
久しぶりの二人きりの食事。ダンテは鼻紙をゴミ箱に投げ捨てた。
「ガトー君、審判の日までリノア鉱山にいるんですよね」
「そうみたいだねー」
ダンテはスプーンを握り、言った。
「ホワイトジャックも動き出したみたいだから、山は空けられないみたいだよ」
「こんな時にあんなにいい戦士を山に籠らせておくなんて、勿体無い。俺なら絶対側におきますけどね」
オズマがそう言うと、ダンテはスープを掬ったスプーンを、皿の中に戻した。それを見て、オズマも顔を上げる。
「たぶんクリストフはなんとなくわかってるんだよ、この世で一番安全な場所を」
「…神に与えられた一室、ですか。でも、リノア鉱山は一度ブラックメリーに……」
「人が出入りできても、火の雨は降らない。僕も、勘でしかないけどそう思ったもん。泉にいれば大丈夫だろうな、って」
ダンテの手は震え、スープに小さな波紋を生む。
「大丈夫……なんだろうけど。僕もクリストフも、逃げるわけにはいかない。だからクリストフは、せめてもの思いで一番大事なものを一番安全な場所にしまったんだよ」
「……」
大事なもの。以前、あの親子を武器と使い手の関係だと揶揄したことを思い出し、オズマは俯く。
ーー俺は聖母の息子です。それ以外の、何者でもありませんよーー
ただの息子。母にとっては、皆そうなのだろう。聖母にとっても、また。
「…オズマ、」
ダンテの呼び声に、オズマは我に返る。ダンテは泣きそうな顔をしていた。
「僕が、逃げ出しそうになったら……止めてね」
「……」
怖いのだろう。いつ来るかもわからない終末が。迫り来るそれと立ち向かわねばならないのが。オズマはニッコリと笑い、言った。
「大丈夫ですよ。ダンテさんならやれます。あなたは、俺が唯一認めたマスターなんですから」
「……」
ーーいいでしょう。あなたをマスターと認めますーー
ダンテはオズマを見つめて、小さく笑った。オズマはスプーンでダンテの皿を指した。
「冷めますよ?」
「猫舌だからちょうどいい」
ダンテは皿を手に、スープを一気に飲み干す。恐怖も、悲哀も、思い出も。全て飲み込んで空になった皿には、幼くも強い覚悟が残るのだ。