21.少年はそれでも笑う
いつも感じていた。自分の価値や生きる意味、愛する人との幸せを求めている誰や彼もが……なんと哀れな存在であるか。その命に何の意味もないなんて知らずに、必死に生きて、呆気なく死ぬ。それはまるで蝋燭の火だ。燃え続けて、ふと、消える。そこに残るのは垂れ流れる蝋と、仄かな香だけ。なんて哀れな存在であるか。なんて哀れな存在であるか。感情という毒に蝕まれてもがき苦しむ。誰も知らない。それこそが、神が与えた最大の罰であることを。誰も……いや、あの方は知っていた。
「これからはエドガー、とお名乗りください」
黒い瞳の、白いお方。
「…ええ。わかりました」
柔らかな笑顔の向こうで揺らぐそれは、諦めと、憂。彼女はわかっていたんだ、全て。だからこそ、神も……
彼女が言葉を無くしてしまった今、誰も真実を知ることは叶わない。これから始まる長い長い輪廻の物語すら、意図するところも知らずに人々は巻き込まれてゆく。なんの、意味もないのに。
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誰の声だろうか。それよりも、ここはどこで、自分はどうなってしまったのだろうか。目の前が真っ暗であることに気付き、これは瞼であると悟る。それを開けば何かが見えるはず……彼は、ゆっくりと瞼を開いた。
「…カイザ!」
目の前には、見慣れない少年の笑顔。何度か瞬きをして、彼はゆっくりと身体を起こした。節々が痛い。どうにか生きているようだが、そうとうな無理をしてしまったらしい。
「シド…まだついてきていたのか」
「よかった! よかった!」
シドは鎖が千切れた手枷をガチャガチャ鳴らしながらカイザの手を取って喜ぶ。状況がわかっていないカイザはまだ混乱気味だ。頭の中で記憶を整理するが、どうしてもこの妖精の隠れ家まで戻って来た記憶がない。
「俺は……」
「記憶喪失か?」
顔を上げると、酒瓶片手に扉に寄りかかるクリストフがいた。
「クリストフ、」
「なんだ、ちゃんと覚えてるじゃないか」
「…そうだ、あの男は! サラと蜥蜴は無事なのか!」
大声を出して傷に触ったのか、カイザは胸を抑えて俯いた。シドが背中を擦ればいいのか迷っておどおどしている。
「あの男は去った。サラと蜥蜴は無事だ」
クリストフがそう言って近くのソファーに座った。
「そうか。じゃあ、お前とフィオールが俺をここまで運んでくれたのか」
カイザは苦しそうに笑い、部屋を見渡した。クリストフに、シド。隅の椅子にはミハエルが座っている。
「…フィオールは、どうした」
「……」
「…クリストフ?」
クリストフは眉を顰めてそっぽを向いている。その様子に、カイザの顔から血の気が引いてゆく。
「嘘、だろ? そんな……」
「おい! 俺の酒持って行ったろ!」
勢いよく開かれた扉。そこに立っていたのは……
「あれ、カイザ起きてたのか」
「フィオール、」
骨付き肉を片手に仁王立ちする、フィオールだった。カイザはクリストフを睨んだ。
「生きてるじゃないか」
「そうなんだよ、生きてたんだよ」
クリストフは嫌そうな顔をして酒を飲んだ。
「なんだよ、俺が死ねばよかったみたいな態度して!」
フィオールが骨付き肉を握りしめてカイザを見下ろした。そんな彼の後ろから、クスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
「みんな死んでしまった、とクリストフ様は子供のように泣いてらして大変だったんですよ?」
フィオールの後ろから、瓶を抱きしめて笑うニアがひょっこりと顔を出した。クリストフは酒を噴き出して顔を真っ赤にする。
「ひ、人が死んだら悲しいだろ!」
「勝手に殺すな」
フィオールが開き直ろうとするクリストフにピシャリと言い放った。ニアは楽しそうに笑いながら部屋に入り、カイザの近くに座った。
「体調はいかがですか?」
「ああ、おかげさまでなんとか生きている」
ニアはにっこりと笑ってクリストフを見た。
「本当に、ありがとうございました」
「礼はいい。あたし達の方こそ、大事な指輪を貰ってしまって……悪いな」
「気になさらないでください。ろくに使いこなせぬ私が持っているより、才のある方が有効に使ってくださる方が指輪も喜びましょう」
クリストフは困ったように笑ってフィオールに言った。
「才のある方、だってよ」
「ニアは見る目があるな」
得意げなフィオールを呆れたように見つめるカイザ。その隣で、シドはニコニコと笑っていた。
「しかし、気になりますね」
ニアが表情を曇らせた。
「東の使者が何故、クリストフ様とカイザ様を狙ったりなど」
「東の使者……あの男か」
カイザが聞くと、クリストフが言った。
「ああ。蘭丸と名乗っていた。あのなりは東の装束だし、あの武器は東の戦士が使う物だ。それに、あの烏天狗の面はヤヒコの家にあった物。間違いない」
「ヤヒコって、美女の一人だろ」
フィオールはクリストフの隣に腰掛けて聞いた。
「そういえばお前、予言通りだとかなんとか言ってたな」
「…カイザは寝ていたから知らないと思うが、蘭丸はヤヒコをイトサマと言っていた。イトサマってのは東の王を指す呼び名なんだ」
「伝説ではヤヒコは東の女王と謳われてる。それがどうした」
「どうしたも何も、あたしが会った時ヤヒコはまだ王位を継いでいなかった。今だって、ヤヒコが女王になったという報告は入っていない」
フィオールとシドは顔を見合わせて首を傾げた。カイザは何か考え込んでいる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「…ここ最近で伝説の通りヤヒコは女王になって、それを機に蘭丸という男が何らかの目的で送り込まれた可能性があるってことか」
「蘭丸はヤヒコとの関連性を否定していたがな」
クリストフは面倒臭そうに言った。フィオールは頭を掻きむしって叫んだ。
「あー! いつもいつもお前らだけで理解して! 俺はちっともわからねぇ!」
「いつもいつも、お前は馬鹿だな」
クリストフが横目にフィオールを見た。
「とにかく、目的はわからないがヤヒコは敵である可能性が高い。それに、ダンテのことも心配だ」
「何かあったのか、北の魔女に」
カイザが聞くと、クリストフは溜息をついた。
「理解のない男に、大事なところで伸びてた男……それに、赤の他人」
クリストフが面倒くさそうな視線を送る中、シドはニコニコと笑っていた。クリストフはカイザが気絶していた間にわかったことを一から説明した。ついでに、そこから導き出されたこともフィオールにわかるよう、丁寧に。まだ王位を継承していなかったヤヒコが最近になって伝説のとおり女王になったこと、蘭丸がヤヒコの家臣であること、その蘭丸の狙いがカイザとクリストフであったこと、蘭丸の指にはダンテとフィオールしか持っていないはずの指輪がはめられていたこと…
「わかったか? フィオール」
「…まあまあ」
フィオールは難しい顔をして頭を掻いた。
「運命の至るべき場所へ導く鍵……とか言ってたな。あの言葉は」
「知らん」
クリストフはフィオールの問いかけに即答した。
「ダンテの安否も定かでないなら、急いだ方がよくないか。ヤヒコが敵だとしたら業輪がまだ大陸にあるうちに手にしてしまわないと」
カイザが眉を顰めて言うと、クリストフは酒瓶に視線を落とした。
「ああ。何もわからないうちにヤヒコの手に業輪が渡ることだけは避けたい」
クリストフは不安そうにしているニアを見た。
「再会できたところ悪いが、その蜥蜴借りていくぞ」
「……」
「どうせダンテにでも見せないと瓶から出られないんだ。あたしに任せておけ。」
「…はい」
悲しそうに俯くニア。
「僕も行く」
「そうだ、忘れるところだった。なんでお前がいるんだ?」
笑いながら元気に手を上げるシドをクリストフは冷やかに見つめる。
「クリストフ、知り合いなのか?」
カイザが聞くと、クリストフは小さく溜息をついた。
「まあな」
「僕は知らない。カイザ、この人誰」
シドが問いかけると、カイザは言った。
「あいつはリノア鉱山の山賊を束ねるマザー・クリストフ。ついでに、伝説の美女の一人だ」
「あ、そうなんだ。前に僕、あの人に殺されかけたんだ」
シドの言葉にクリストフの目が吊り上がった。
「お・ま・え・が! あたしを殺そうとしたんだろうが!」
「…何があった、この二人に」
間に挟まれて迷惑そうにしているカイザ。フィオールが骨付き肉の骨をゴミ箱に投げ入れ、言った。
「聞いたことがある。鉱石の商談で失敗した連中がクリストフを恨んで優秀な殺し屋を送り込んだって。計画は失敗したらしいけどな」
「返り打ちにしてやろうと思ったのにまんまと逃げやがって、このクソガキ」
舌打ちをしてシドを睨むクリストフ。
「返り打ちにして半殺しにした挙句、僕の事調べ上げてガトーとかいう強い人送りつけてきたじゃん。ひどいよ」
「てめぇだってあたしを殺そうとしただろ!」
「でも恐怖で逃げ出したいたいけな子供に追手を払うなんて、非人道的だよ」
「どの口がそれを言う」
言いあう二人にフィオールが割って入った。
「シド、お前の事調べてクリストフに垂れ込んだの俺なんだけどよ、」
「あ! ひどいよ。殺していい?」
「殺し屋組織、ホワイトジャックでも一目置かれてたお前が何であんなところに捕まってたんだ?」
シドの無邪気な脅しを受け流し、フィオールが聞いた。すると、シドの笑顔が引き攣って固まった。
「ホワイトジャックのシド? このガキが?」
カイザが驚いてシドを見た。シドは黙ったまま、何も言わない。
「そうだよ、あの小さな死神ってのはこいつのことだ」
シドを睨みながらクリストフが言った。ニアは少し怯えて身を引いている。
「…一晩でシアトリアムのマフィアを一人で全滅させたっていう、小さな死神だろ?」
「ああ」
「小さいって、単に身長のことじゃなかったのかよ」
カイザは驚きが隠せないらしく、じっと目の前のシドを見つめた。ついに、シドの笑顔は消えて無表情になってしまった。
「そんな奴が、なんであの塔に」
「だろ? 俺も気になってたんだ」
カイザとフィオールが話していると、シドがその重たい口を開いた。
「ホワイトジャックの人に、はめられたんだ」
幼く小さな声が響く。
「…みんなも、僕を殺すの?」
カイザが振り返ると、少年は俯いている。
「みんなも僕が……邪魔なの?」
少年が顔を上げると、部屋の温度が一気に下がった。無表情。しかし、その目には確かな殺意があった。殺意と、不思議な威圧感。まだ10歳かそこらの少年が放つそれは、確かに培ってきた殺し屋としての力量を物語る。カイザは後ろ手にブラックメリーを探していた。フィオールも、小脇の荷物に手を伸ばした。ニアは、恐怖で動けない。それぞれが少年の殺気に対し、無意識に動き始めていた。そんな中、
「次、あたしを殺そうとしたらその時こそぶち殺すけどな」
酒を飲みながらクリストフが言った。怖気づくことを知らない、不敵の聖母は少年の殺気にも動じない。その雰囲気に安心したのか、カイザとフィオールは臨戦態勢を解く。先程までの冷たい雰囲気はどこへやら、少年は拗ねたように俯いた。
「あれは仕事だったから……もうホワイトジャックにも戻れないし。しないよ、そんなこと」
「だったら邪魔どころか役に立つんじゃないのか? カイザ、こいつはお前に懐いてるんだろ?」
クリストフがカイザに聞くと、シドはチラッとカイザを見て再び俯いた。
「カイザ、僕……」
シドは顔をあげ、ニッコリと笑った。
「居場所がないんだ」
その笑顔は、悲しかった。
「行く場所もなくて仕方なくホワイトジャックにいたけど……僕、カイザに会って初めて思ったんだ。この人と一緒にいたいって。ここを居場所にしたいって」
カイザの脳裏を、バッテンライの言葉が過った。
ーー関わらないほうがいい……ーー
死神と言われる少年は、カイザの目には孤独に怯える哀れな少年にしか見えなかった。しかし、バッテンライの言葉の意味を知るのは、次の瞬間。
「誰と一緒にいてもみんな死んじゃうから、結果的には何の意味もない無駄な願いだとはわかってる」
少年は何の悪意もなく言う。
「カイザが明日死んじゃうとしても、誰に殺されるとしても……それでも僕、一緒にいたいと思ったんだ」
笑顔で俯く少年を、呆れたように見つめる3人。
「…おいクリストフ、シドは本当にカイザに懐いてるんだろうな」
「何で俺が明日死んだり誰かに殺されることが前提になってるんだ」
クリストフは溜息をついた。そんな3人を見て、シドは首を傾げる。シドがおかしいのは、死生観だ。少年には生きている者の死が真っ先に目に映る。動いているものや人は全て、”まだ死んでいない者”に他ならないのだ。
「…お願いだよカイザ。僕を連れて行って。きっと役に立ってみせるから」
カイザは塔でのシドを思い返した。
ーー…死んじゃうーー
そう言ったあと、蘭丸に刀を振り下ろされて笑っていた少年。
フィオールは部屋に飛び込んできたシドの顔を思い出していた。
ーー彼は僕のものだ……返せ!ーー
へらへらと笑っている今とは違う、鬼気迫る雰囲気。
クリストフは崩れる塔の中のシドの姿を振り返っていた。
ーー…触るなーー
手を刀で刺されても、その身が瓦礫と共に落ちてゆこうとも、悲鳴一つあげない少年。
3人にはやはり、少年は狂気に満ちた存在に思えた。生まれながらの殺し屋であり、幼いからこそ残酷で無慈悲な価値観を植え付けられている。そんな少年を、連れてゆけるのか。
「…お願い、だよ」
笑顔の少年の目が、潤んでゆく。
「…わかったよ」
カイザが小さくそう言うと、少年は驚いたように固まった笑顔を解いた。その瞬間、その目からは静かに涙が流れた。
「連れていく。旅が終わっても、とりあえず俺が面倒みてやるよ」
「カイザ!」
クリストフが立ちあがった。カイザが少女を見ると、その顔は極めて険しい。
「なんだよ、お前がシドは役に立つって言ったんだろ」
「鍵戦争でなら……まず、戦力として申し分ない。ただな、育てるっていうなら別だ。ペットじゃないんだぞ。そんな軽々しくそいつの人生を背負うなんてお前は馬鹿か」
「いいだろ。俺は独身だし、結婚する予定もないし」
「女の問題じゃねぇ。ガキは金もかかるしいろいろ大変なんだよ」
涙を拭って俯くシド。それを見て、カイザは憐れむようにシドの頭を撫でた。
「どうせ世間に出たところでシドには居場所はない。だったら、俺と一緒にいれば寂しくもないし敵から逃げるにも協力しあえる。一人にしてしまう方がよっぽどためにならねぇよ。こいつにも、世間にも」
「だから……こいつや世間のことを言ってんじゃねぇんだ。お前自身のことだよ!」
クリストフが声を張り上げた。隣のフィオールも驚いている。
「ガキ一人を育てあげたあたしが言うのもなんだけどな、子供ってのは結構な重荷にもなるんだよ! そいつがしたことはお前の責任にもなる! 自分の時間がなくなる! まだ若くて、ましてや死体に拘ったりするお前が、誰かのために自分を犠牲になんてできない!」
「……」
カイザはシドを見た。シドは、不安そうに俯いている。
「…だ、そうだ」
「……」
「…そう言われても、なあ」
カイザは困ったように笑った。
「クリストフ、それでもお前はガトーを育てた。マスターも、俺を育ててくれた。ミハエルだって……そうだ」
守ってもらうばかりだった少年は、もう、青年になっていた。
「そろそろ、俺が誰かを育てる番なんじゃないか。みんなが苦労したことを、俺が担う」
「お前な……」
「誰かが必ず、自分を犠牲にして何かを守っている。業輪だってそうだ。お前らなんか、顔も知らない世界中の人間を生かすためにその身を犠牲にしてきた」
「……」
「業輪に比べたら、俺がこの無邪気な殺人鬼をもう少し人らしく育てることくらい、どうってことないだろ」
カイザは知っていた。悪事に手を染めねば生きてゆけない幼子がどんな思いをその胸に秘めているのか。シドも、生きるために恐怖や罪悪感を押し殺して生きてきた。自分を押し殺して生きてきた。それによって歪んでゆく価値観や道徳観。しかし、そんな真っ黒に染まりかけた心の中枢では幼いながらの本能、愛情を求める本能が脈打っている。手を差し伸べられるだけで、抱き締められるだけで、それが黒を白に変えてくれることも。
「とは言っても、自信はない。俺が嫌になったら、いつでも離れていいからな」
「ううん、その時はカイザを殺して僕も死ぬ」
嬉しそうに笑う少年の頭を、カイザは苦笑いをしながら撫でた。それを不満げに見つめるクリストフ。
「いいじゃねぇか。好きなようにやらせてやれよ」
フィオールがそう言うと、クリストフは鼻を鳴らしてソファーに座りこんだ。
「殺されてもしらねぇからな」
「カイザなら大丈夫だろ。それに、あいつは変ったよ」
「…まあ、最初に比べれば」
クリストフは諦めたように溜息をついて、シドと話すカイザを見つめた。