10.涙の向こうで掴めたならば二度と手放してはならぬ
朝日が射し込む部屋に散乱する酒瓶。テーブルの上に食い散らかされたツマミ。そして、
「おはよう」
「…ぎゃあ!」
驚いたフィオールが隣で寝ているカイザの頭に肘を打ち付ける。
「いてっ!」
カイザは頭を抑えながらしょぼしょぼする目をゆっくりと開いた。目の前にはミハエルが穏やかな寝顔で横たわっている。振り返ると、フィオールが起き上がって何やら慌てている。
「なななな、な……」
フィオールの隣には、肘をついてベッドに寝そべるクリストフがいた。
「そんな驚くことないだろ」
「おまっ、何時の間に!」
寝起きでまだ意識がはっきりせず状況がよくわかっていないカイザ。とりあえず、一つのベッドに四人も寝ていたなんて……どおりで狭いはずだ、とぼんやり思った。
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三人で北へ向かう話をした後、後悔に苛まれたカイザは自室へ戻ってミハエルが横たわるベッドに腰掛けた。肩越しに彼女を見つめ、幼い頃を思い出す。墓地で優しく抱き締めてくれた彼女、土産を手に他国の話をしてくれたフィオール、ブラックメリーを譲ってくれたマスター……猜疑心という色眼鏡を外して見ると、どれも懐かしくて温かい。大切にされたからこそ大切にしなければならなかったものを、カイザは自ら終わらせた。彼は頭を抱えて、大きく息を吐き出す。
「…カイザ、」
部屋で一本だけ灯る蝋燭の火が照らす扉の向こう。フィオールの声がした。カイザは返事をするのを少し躊躇ったが、小さく返事をした。
「…なんだ?」
「起きてんのか、入るぞ」
フィオールは覗き込むようにして部屋に入ってきた。そして、手に持つ酒瓶とツマミを見せつけ、笑った。
「アイダではゆっくり飲めなかったからな。ダリの酒は上手いと聞くし。久々にどうだ。」
「…そうだな」
カイザは無理矢理な笑顔を作って、フィオールがツマミを広げるテーブルに歩み寄った。
二人は昔の思い出話を酒の肴に、穏やかな時間を過ごした。カイザが八歳の頃にヴィッツ土産のビックリ箱に驚き過ぎて泣いた事や、十一歳の頃に土産の魚を腐らせた料理を食べさせられて吐いた事。十八歳の頃に幸運を呼ぶお守りだと気持ち悪い人形を渡された事。
「あの人形高かったのに、その場で火に焼べやがって」
「よく考えたらろくな物貰ってないな、俺」
カイザがボソッと呟くと、フィオールは懐かしそうに笑った。その笑顔が少しずつ曇ってゆくのをカイザは見逃さなかった。
「…俺はあの頃楽しかったけど、お前はきっと違ったよな。ギールも言ってたよ。泣き言一つ言わずに毎日を必死で生きてるけど、本当は心底辛いだろうって」
カイザは酒が注がれたグラスに視線を落とした。
「…違う、と言えば嘘になる。でも今思えばそう悪くない日常だったよ。マスターも……よく、してくれたのに」
見つめていたグラスに、一滴の雫が落ちた。酔いで血流が良くなると共に涙腺も緩くなってしまったカイザ。額に手を当て、静かに泣いた。フィオールも涙目になって自分のグラスを見つめている。
「…クロムウェル家と身代金の交渉をしていたのは、俺なんだ」
弱々しく、語るフィオール。カイザは小さく首を横に振った。
「さっきクリストフがしていた話も、全部知ってた。知ってて黙ってた」
「…いい、何も言うな」
「そのせいでお前を苦しめていたなら、俺もギールと同罪だ」
「…頼むよ、謝らないでくれ」
カイザがそう言うと、フィオールは言葉を飲み込んだ。
「マスターの死顔が頭を離れない。燃え盛る火の海で死にかけているのに、俺を睨むどころか泣きながら謝ってきて……事もあろうかマスターからもらったナイフで刺したのに」
嗚咽混じりにたどたどしくカイザは言った。
「俺は取り返しのつかないことをした。お前が謝ることも……マスターが謝ることもない。俺が、全ての元凶なんだよ」
カイザは顔を上げて、涙を拭った。
「お前、バンディから俺を庇った時に言ったよな。全てを背負って生きていけって」
「…ああ」
「あの時、ちゃんと覚悟したんだ。でも……重過ぎて、潰れてしまいそうになる」
涙を堪え、唇を震わせるカイザ。フィオールはグラスから手を離した。
「その重みと寄り添い生きていくことが、背負うってことだ」
「……」
「許されようと思っちゃいけない。許されるはずなんて、ないんだからな。ずっとその苦しみを胸に刻みつけて忘れないことが唯一できる償いなんだ」
許されたと思った時、それは罪を忘れた時であって償いを終えた時ではない。
「お前は盗賊、俺は情報屋。罪を重ねて生き延びるしかない俺達にとって苦行に他ならない。だが、それができないと死ぬしかない」
「……」
「…俺はお前になんて言った」
「生きろと」
「ギールはお前になんて言った」
「……」
ーー生きろ……カイ……ーー
カイザは、声を上げて泣いた。昨晩から泣き続けても枯れない涙。目からボロボロと溢れ出してはグラスに落ちて、酒に波紋を生んでゆく。フィオールはカイザの頭を優しく撫でた。
「ギールはお前に苦しんで欲しいなんて思っちゃいないだろうが、忘れるな。重みに耐えきれなくなっても、俺がいる」
「ミハエル、マスター……」
「生きろ、カイザ」
「…フィオール」
気付いた時には、もう遅いこともある。しかし、やり直しのきかないことなんてない。どんなに躍起になっても失ったものは取り戻せないが、そんな狭い世界でも見えるものはある。生きていく道はある。
涙を拭い、何やら一人で笑い出すカイザをフィオールは不思議そうに見つめた。
「…頭おかしくなったか?」
「いや……だてに年取ってないなと思って」
「なんだよ! 五つしか違わないのに年寄り扱いか?!」
カイザは、そんなに離れてたっけ、なんて戯けながら涙が沈むグラスを手に取った。すっかりご立腹なフィオールをからかい、再び笑顔で酒を交わす。
夜は更けた。甘美な思い出……とは言えないが、どこか微笑ましい懐かしさを胸に、少ししょっぱい酒を飲む。これからもこうしていけたなら。
ーー私も、平和な世の中であなたが笑って……幸せそうにしていれば、それで……ーー
ミハエルの望みだって、叶えてあげられる。カイザはその片鱗を視野に入れながら、久々に安心して酔いしれた。
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「…で、これはどういう状況?」
昨晩のことを振り返りながらカイザが聞くと、フィオールが振り返った。
「このまま川の字に寝るかーって言って、本当は壁側で寝たかったけどミハエルさんの隣は遠慮するとかフィオールが言って……仕方なく俺が真ん中に」
「それは覚えてる! 記憶にねぇのはこいつだよこいつ!」
フィオールは隣でヘラヘラ笑うクリストフを指差した。
「覚えてないのか? フィオール」
妖艶な目つきでフィオールを見つめるクリストフ。カイザはミハエルを抱き起こしてベッドから離れた。
「お前ら、俺とミハエルの隣でそんな……」
顔を引き攣らせて軽蔑の眼差しを向けるカイザにフィオールは慌てて首を横に振る。
「無理! 無理だから! こいつに手出したら絶対天罰下る!」
「そんな寂しいこと言うなよ、一緒に寝た仲だろー。五分くらい」
カイザとフィオールの首が同時にクリストフの方へ向くと、クリストフは楽しそうに笑って立ち上がった。フィオールは口をパクパクさせている。
「ほら、さっさと支度しろ。もうダリを出て北に向うんだから」
クリストフに急かされ、二人はのそのそと立ち上がる。
「俺、低血圧なんだよ」
フラフラと着替えるカイザ。
「俺もだけど、誰かのせいでバッチリ目が覚めた」
げっそりして部屋を出て行くフィオール。爽やかな朝に調子が悪そうな二人。
「なんか、顔が違うな」
空の酒瓶を眺めてクリストフが言った。
「あー、結構飲んだからな。浮腫んでるかも」
「違うって。憑き物が落ちたような顔してる」
シャツに袖を通してクリストフを見ると、少女は酒瓶を朝日に透かして笑っていた。
「鍵持って辛い思いで決断を述べたあの時より、いい顔だ」
「…バレてたか」
カイザは鼻で笑って、ボタンを締める。自分でも気付いていた。追い詰められた今になって一人でないことを教えられ、恐れを抱えた覚悟すら、揺るぎない決意へと変貌していたことに。何でも一人で抱え込んできたカイザをフィオールが変えたのだ。
「ところで……」
クリストフがベッドのミハエルをじっと見つめる。
「お前、エドガーのこと抱いて寝てるんだろ?」
ルークタイをポロリと落として赤面するカイザ。
「な、なんでそれを」
クリストフは小さく唸りながらミハエルを見つめるばかり。
「や、でもいつもはちゃんと椅子に座らせてるんだ! この前は、ちょっと!」
「お前、ちゃんと洗ってるか?」
慌てふためくカイザに拍子抜けな質問。
「…さすがに、俺は男だし。身体洗うとかは……してない。」
カイザが自信なさ気に答えると、クリストフはきつく目を釣り上げて振り返った。
「肝のちっちぇ男だな! 死体っていってもお前が毎度ベタベタ触ってんだから洗ってやらないと可哀想だろ!」
「そんなこと言われても」
カイザは肩を窄めてルークタイを拾い上げた。
「仕方ねぇ、あたしが洗ってやるよ。」
「……」
「フィオールにでもやらせるか?」
「クリストフ、綺麗にしてやってくれ」
クリストフは得意げに笑ってカイザに歩み寄る。じっと見つめてくる少女。カイザは目を泳がせる。
「あとな、まだ言いたいことはある」
聞きたくない。カイザは反射的に思った。
「お前の格好も気に食わない」
笑顔で堂々と傷つくことを言い放つクリストフに、カイザは唖然と立ち尽くす。
「まず上からな」
「上から下までいくのかよ」
「なんでシャツにベスト着てルークタイなんかしてるんだ。お前は貴族か」
カイザのルークタイを掴んでクリストフは啖呵をきる。
「これはマスターが、」
「それなのに下にはベストと揃いのスーツで……なんだ、それ、シャップスか?」
カイザの言葉を遮って更に突っ込んでくるクリストフ。
「…まあ、そんな感じだな」
「カウボーイ気取りか。肝はちっちぇえくせして下は暴れん坊気取りか」
「これもマスターが……」
さすがのカイザも、しだいに胸がチクチクと痛み始める。
「その上、右腕には盗賊のアーマーして、貴族、暴れん坊、盗賊の三人が同居してるぞお前一人に」
さすがのカイザも我慢の限界だった。
「全部マスターが選んだんだよ! 生まれた時から自分で服を選んだことなんてない俺に、格好がどうの言われても困る!」
「…盗賊のアーマーも、外す気はないのか?」
クリストフの真面目な表情に、カイザは固まった。
「もう盗賊でもなんでもないんだ。それに、これからあたし達は追われる立場になる。目立つ物は身につけない方がいい」
カイザはアーマーの紋章に触れた。
「…無理だ。外せない」
「ギールのことを忘れろと言ってるわけじゃない」
カイザは静かに首を横に振った。
「わかっている。でも、ブラックメリーを受け継いだ以上、俺は盗賊の後継者だから」
「…まさかとは思うが、盗賊団を継ぐつもりか?」
「無理だろ。頭殺しは大罪だ。でも、それでも俺がマスターから譲り受けたことには変わりない。いつか本当に継ぐ資格のある奴が現れたら俺を殺してこれを奪い、そいつが新しいマスターとなるだろう。だから……それまでは、俺が」
「一生、そのナイフ一本のために追われる身でいようというのか」
クリストフは眉を顰める。そんな少女に、カイザはふっと、笑いかけた。
「俺は、盗賊だからな」
「……」
不意打ちの笑みに驚く少女。少し不満げな顔をして、ぷいっとそっぽを向いてしまった。そんな少女の様子に、カイザは首を傾げる。
「だったらルークタイとシャップスやめろ」
「いや、だからこれはマスターが……」
カイザが身につける全てがマスターからの貰い物。クリストフに毒づかれてそのことを思い出したカイザは、身体を包むそれらに悲しさや懐かしさを感じた。これもフィオールの言っていた重みなのだろうかと考えながら、ブラックメリーを腰に携える。盗賊である自分は決して誇れる存在ではない。それでもカイザは迷いなく言った。いや、言っていた。自分が何者であるのかを。
「盗賊なら追い剥ぎも朝飯前だろうに、なんでエドガーは……」
「もう勘弁してくれ」
ズバズバとものを言うクリストフに困り果てるカイザ。
誇りも何もない。ただ生きるために、目的のために、彼は盗賊であり続ける。誰かの思いと、自分の心をぎこちなく重ね合わせながら。