8 探していたもの
それから数日が経った。土屋は、仕事に行くために満員電車を渋谷駅で降りた。金谷史華との結婚を楽しみにしていた。しかし、自分が殺した内村麻美の怨念のようなものを感じずにはいられなかった。
(大丈夫だ……。俺にはアリバイがあるということで、警察の追及からはもう完全に逃れたんだ。あとは、この罪悪感のような薄気味悪さがなくなれば……)
会社に向かおうとした瞬間、肩に手が置かれた。はっと振り返る。
「土屋直弥……。殺人の容疑で逮捕する」
そこに立っていたのは、日向刑事だった。
「あっ……」
土屋直弥は小さく叫ぶと、肩の手を右手で振りほどこうとしたが、その右手は震えてしまい、力が入らなかった……。
*
日向刑事は、羽黒祐介の推理をもとに、捜査を行い、土屋を逮捕した。正当防衛や過剰防衛ではなく、彼が事前に絞殺用のワイヤーを用意していたことが証明されれば、計画殺人の立証ができるということもあって、捜査は徹底的に行われた。
まず、町工場の軽トラックの荷台に死体が乗せられていた痕跡である髪の毛が見つかり、同時に荷台から土屋直弥の指紋が検出されたことで、彼のアリバイは見事に崩れ、犯行が立証されることになった。土屋の自宅からは、赤いジャンパーが発見された。このジャンパーからはさらに羽黒祐介の指紋が検出された。祐介がトイレに行こうとして、被害者とぶつかった時に付着したものである。これにより、被害者が一人二役を行っていたことも証明されることとなった。
土屋は、自供した。彼は被害者の内村麻美と交際中に、岩手県の女性との交際をはじめ、だんだんと内村麻美の存在が邪魔になってきたのだという。しかし、内村麻美の実家の財力を欲していた土屋はそのことを隠し偽りの関係を続けていた。このことが発覚しはじめたあたりから、ふたりの関係は一気にこじれていった。ねじれた関係の中で、彼は責任を追及されるのを恐れて内村麻美を激しく責めるようになっていった。それはDVと化していった。被害者は、そのために精神的なストレスを受けた。
被害者、内村麻美は数ヶ月前に、土屋と別れることになったが、この裏切りに対し、復讐を実行しようと考えた。いや、復讐というような特別な意識はなく、彼がのうのうと生き続け幸せな家庭を持つことが苦しみだったのかもしれない。さらに事件の数日前に路上で出会い、口論に発展したことも彼女の復讐心を増幅させた。
被害者内村麻美は「婚約者に過去の秘密を明かす」と脅し、あの喫茶店er02の付近に、土屋を誘い出したのである。その秘密とは、どうも過去に会社の金を横領していたことらしい。
土屋は被害者の行動を警戒していた。そこで絞殺用のワイヤーを用意して、この誘いに、出向いたのである。結果は、被害者の方が殺されることとなったが、土屋は過去の事実が婚約者にばれることを恐れて、正当防衛とは主張せず、この殺人事件を隠蔽することにした。
被害者、内村麻美の偽物を務めたのは、小木真弓という女性だった。彼女は、被害者と背格好が似ていて、おまけに金銭的に悩んでいた。被害者は、インターネット上で、この小木真弓に出会い、殺人のアリバイ工作とは告げずに、一人二役のトリックに協力させた。小木は、被害者と都内のファミリーレストランで落ち合い、生活難からこの謎の仕事を引き受けたが、怪しげな内容だとは思っていたという。しかし本人は、詐欺の協力が何かだと思っていて、まさか殺人事件の共犯とは夢にも思っていなかった。被害者が何者かに殺されたことをニュースで知り、自分が関わったことの本当の意味は分からないながらも、この事件に、大きな犯罪組織が関わっていたらと思うと恐ろしくなり、今日に至るまで、警察やマスコミからも隠れていたのだという。
あとは羽黒祐介が推理した通りだった。
祐介は、そのような犯罪計画が進行しているとは、内村麻美や小木真弓の近隣住民は、まったく気が付かなかったに違いない、と思った。
夜中ふと、歩く住宅街の中で……。
(僕も、またこの街に住む人々も、何気なく過ごしているようだけれど、マンションやアパートの隣人が、そんな恐ろしい殺人事件を計画しているものかもしれないな……)
前から吹く風の中に、はやくも春の香りがした。
羽黒祐介は、土屋が逮捕されてから数日が経って、ひとりでふらりと青島飯店に立ち寄った。すると孫店長がにこにこして、出迎えてくれた。前回、あんなに落ち込んでいたのに、一体何があったのか、と祐介は不思議に思った。
「どうしたんですか。孫さん。やけに嬉しそうじゃないですか」
「羽黒さん。実は良い知らせがあるんですよ。うちの奥さんね、不倫じゃなかったんですよ」
「えっ……」
「なんでも、生き別れたお兄さんと偶然、横浜のデパートで再会したんですって……それから一月ほどの間、兄弟水入らずを楽しんでいたそうなんです。でも、それをわたしに言ったら、気を遣わせてしまうから、と思って、ずっとこの話を切り出すタイミングを見計らっていたそうなんです。本当によかった」
「はあ……」
祐介は、それでは自分の浮気調査がそもそも間違っていたということじゃないか、依頼料貰っちゃったのにどうしよう、と思ったが、孫店長はそんなことはまったく気にしていない様子で、店内に響き渡る声で高笑いしている。
「今日は、とても幸せな気分です。羽黒さん。麻婆豆腐の大盛をおごりましょう」
「は、はあ、ありがとうございます」
祐介は、お礼を言うと、勧められたテーブル席に座った。
(でも、事件は解決し、孫さんも元気になってよかった)
祐介はそう思って、コップの水を少しずつ飲んでいると、まだなにかやり残したような、解決されていない問題がいくらか残っているような気持ちがあった。しかし、それが何かは分からなかった。しばらくして、大皿に盛られた麻婆豆腐が山椒の臭いを漂わせながら、目の前に置かれた。
さて、食べようか、こんなに食べられるかな、と思って、箸を手にした瞬間、祐介はふと店内の壁にどこか見慣れた手袋がピン留めされているのが見えた。
(あれは……)
胡麻博士が探していた手袋だ、と思った。その瞬間、祐介は心に残っていた心地悪さがすっと消えてゆくのを感じた。
(愛娘からのプレゼント……)
ああ、ずっと気になっていたのはこれだったのかと思うと、胡麻博士の喜ぶ顔が脳裏に浮かんできて、祐介はようやく心からほっとしたのだった。
「横浜中華街殺人事件」完