古文書
神山神社で、長野科学大学萩原教授による報告会がおこなわれていた。
周辺には樹々が生い茂って、直射日光は遮られている。居間は20畳もあり、障子や窓を開けると、時たま、心地よい風も吹いて、夏の盛りを忘れるほどすごしやすい。
阿久津宮司が不幸にも亡くなられたため、現在は近隣神社から兼務宮司として比嘉宮司が職についていた。ただ、これは一時的なものらしく後任については検討中と聞いた。比嘉宮司は前の阿久津とは違い、50歳と本人曰く宮司としては若いほうらしい。今や人手不足で宮司の担い手もいなくなっているとのこと。
居間の座卓の上には、資料が所狭しと置かれていた。
座卓を囲むように鎮座しているのは、萩原教授と関口助手、手伝いの学生が2名、さらに浅川と比嘉宮司、それと職業訓練校校長の平山だ。
平山は事件が続き、さらに結城宮司の悲惨な最期を見たせいで、しばらく休職していた。ここにきてようやく復職とあいなったが、そのやつれぶりは相当なものだ。元々、太ってはいなかったが、さらに痩せたようでまるで亡霊のように見える。
木曽福島署の戸川も来たいと言っていたが、上司の野崎の許可が下りなかったようで、ここにはいなかった。木曽福島署では表向きには悪霊の仕業ということを信じてはいない。ただ、現場サイドでは間違いないとは思っているそうだ。野崎は建前上、戸川に参加許可を出せなかったと聞いた。
萩原が参加者を見まわすと話を始める。
「じゃあ、始めましょうか」
全員が静かにうなずく。
「こちらの神社にあった古文書を中心に、後は県内にある資料を探して悪霊の正体を見つけました」
萩原教授がいつになく真剣な顔で言う。それだけ重要な内容と言うことだろう。
そういって萩原が話したのは次のようなものだった。
江戸時代、江戸幕府は中山道の経由地である木曽福島に関所を設けていた。ここを江戸幕府直轄としたのは、要所であることと、尾張徳川家の管理地であることから来ている。徳川家権威の象徴とも言うべき場所だったのだ。
そして1710年ごろの話である。
当時、幕府は『正徳の治』という改革を遂行していた。6代将軍徳川家宣から始まり、第7代将軍徳川家継が引き継いだ政治改革である。これを幕府の威信をかけて行っていた。この目的は財政立て直しと政治の安定を目指すものだったが、社会風紀を立て直すといった主旨もあった。
そのため、当地の関所での検閲も一層厳しさを増していた。そんな時代にこの地に奉行として派遣されたものがいた。名を京極刑部と言った。
京極は1711年に派遣されている。当時40歳で出世争いからは少し外れた存在だったようだ。今でいう干された状況だった。当然、あまりやる気もない。赴任した当初は通常の業務に勤しんでいたが、そのうちに彼の中のある本性があらわになってくる。
京極は現在で言うところのサイコパスだった。
この時代、関所で厳重に取り締まられたのは、入鉄砲に出女―いりでっぽうにでおんなと呼ばれる二つの行為だ。入鉄砲とは江戸への銃刀類の持ち込みを防ぐことを言い、出女とは大名の正妻や娘が、江戸の藩邸から故郷に帰ることを防ぐものだった。女たちは江戸幕府の人質だったのだ。それ以外には手形の偽造などによる密通などを処罰の対象としていた。
当初、京極は重犯罪についてのみ処刑を行っていたが、この殺害行為自体に味をしめる。そのうち、簡易な犯罪であっても難癖をつけ、処刑に持ち込むと言った行為を悪戯におこなうようになる。そして彼はそういったことを面白おかしく行うのである。処刑を自らの快楽行為と位置付けたのだ。
見せしめとして公開処刑などは当たり前で、火あぶり、釜茹で、鋸引きなどの処刑を、ありえないほどの時間をかけて行うのである。
火あぶりで言えば、罪人を磔にし、火の加え方を細工し、弱火でじっくり肉を焼くような陰惨な焼き方(殺し方)を楽しんでいた。京極奉行はそれを酒の肴にして楽しんでいたという。とにかく時間を掛けて人が苦しむのを狂喜乱舞していた。
当時の通常の処刑数は年間3~5件のところ、木曽福島関所では50件にも及んだという。早い話が無実の人間も処刑対象にされたのだ。一説によると顔が気に入らないといった理由で処刑されたものもいたという。
ただ、こんな行為がいつまでも続けられるものではない。義憤にかられた部下が幕府に陳情に及ぼうとする。しかしこれこそが京極の思うつぼであった。謀反のたくらみと、さらなる難癖をつけ、密告者を処刑に持ち込んでいく。それでも何とか幕府までたどり着くものがいたとしても、あらぬ存ぜぬとこれを切り抜け、結局は黙殺され、京極の慰み者にされたものが続く。京極はこうして自身のカタルシスをさらに満足させていった。
しかし如何せん処刑数が多すぎる。そうこうすると、いい加減幕府も気づく。ついに尾張から査察が入った。ここでようやく京極の悪行が表に出ることとなったのだ。ここまでに彼が惨殺した処刑者は5年間で300人は下らなかったそうだ。
結果、京極刑部は処刑されることとなった。
恨みを持った人間たちは多く。この公開処刑に様々な提案をする。自分たちが受けた迫害について復讐したかったのである。この進言を新しい奉行が請け負った。彼は武家人の中から京極に恨みを持つ人間を集める。実に300人もの人間を殺しまくったことから、恨みを持った武家人も相当数いたと思われる。公開処刑をそう言ったものたちに一突きずつさせるという趣向を考えた。京極がおこなった処刑と同様の延々と続く処刑を講じたのだ。
この公開処刑には大勢の人間が集まった。処刑場は黒山の人だかりだったという。
そして処刑が始まる。
最初は観客からやんやの喝さいが上がるが、それも徐々に静かになってくる。
京極が鬼気迫る。いや、実際鬼の様だったと言う。京極は処刑行為を行うものに、血走った目をむくと呪いの言葉を浴びせかけた。自身の悪行を棚に置いて、呪詛の言葉を言い続けた。京極に一太刀を浴びせたいと志願した武家人の中にも、尻込みするものもあらわれる始末で、無理やりやらせることもあったそうだ。ところが京極はいっこうに息絶えなかった。何度突かれようが、呪詛を履き続ける。そうして息絶えるまでに実に半日もかかったそうだ。
京極奉行、処刑人らが槍をもってこれを突く。十数人、次第に突くといえども、容易に息絶えず。実に半日の間、生きながらえたる由、奇怪なりとす。
ここで萩原教授は古文書の一説を読んで、一呼吸置く。彼の顔色も悪く、若干汗ばんでいる。
あまりの陰惨な話に一同言葉がない。
「この後、京極はさらし首にされ、処刑場脇の晒し首置き場に放置された。ところが、これで終わらなかった」
萩原教授の話が続く。
当初はこの晒し首にいたずらをするものが続出したという。石を投げたり、つばを吐きかけたりなどしたそうだ。ところが、そういったものは必ず報いを受けた。あるものは高熱が続き、病に倒れ、ついには息を引き取る。また、あるものは体の調子がおかしくなり、原因もわからず、そのまま半身不随になったりと厄災が続いていく。
間違いなく、これは京極刑部の祟りだというので、奉行はこれを鎮めるため、遺体を荼毘に付し、丁重に葬むるに至った。
ところがこれでも京極の祟りは終わらなかった。当地に派遣されてくる関所奉行が次々と不慮の死を遂げていくのだ。実に一年の間に5人もの奉行が憤死するという由々しき事態に遭遇する。それも自宅の火事や落馬による事故死、乱心した妻に殺されるなど、ありえない事件が続いていく。
事の重大さに気付いた幕府は、京極の祟りを封印することを模索する。
最初は現地の祓いしを使う。神主、僧侶などひとかどの人間を使うが、それでもうまく行かない。返り討ちに会うならまだしも、被害が広がる一方だった。
それを受けて幕府はいよいよ本腰を入れる。当時の最強の祓いしを集めたのだ。
山岳修験者として熊野でその人ありとうたわれた山伏、真琴僧正。京都からは安倍晴明公の末裔と言われる陰陽道の陰陽師琴晴を呼んだ。
そして二人が協力し、なんとか京極を封じ込めることに成功する。
それこそがあの石室だった。
萩原教授が告げる。
「あの石室にあったものは、その究極の封印されしものだったわけです」
浅川が青くなって言う。
「それを暴いてしまったんですか…」
「残念ながらそういうことです。あの当時の最強の祓いし二人を持ってなんとか封じ込めた悪霊を、再び世に放ってしまった。これは今の時代の我々がなんとかしないとならないわけです」
「そんなことが可能なんですか?」比嘉宮司が言う。
萩原は下を向く。髭面が下を向くとそれこそ毛むくじゃらに見える。
顔を上げる。「やるしかないでしょう」
すると唐突に廊下を走る音がする。一同が何事かと狼狽える。そうなのだ。今この時も最強の悪霊がどこかで蠢いているのだ。
居間の渡り廊下を音とともに悪霊がすり寄ってくる。だだだだだだと激しい音が連続で響き渡る。
この場にいた人間は皆、最悪の恐怖を連想する。あるものは妖怪、またあるものは怪物や獣、蟲、寄生虫、あらゆる恐怖する対象を思い浮かべてしまった。
音がどんどん迫ってくる。校長はじめ何人かが逃げ出そうとする。
そしてついに悪霊が顔を出した。
ひっと言って、その場で転げたのは浅川だった。他の連中は顔を臥せていた。
「遅くなりました。あれ、皆さん、どうかしましたか?」
「え、戸川さん…」
悪霊ではなく、木曽福島署の戸川巡査長だった。




