第5話:残されたノイズ
倉庫の奥で、高橋がハンディ端末の警告音に狼狽しながら走り去っていくのが、モニター越しに伝わってくる。ドタドタという無作法な足音が遠ざかるにつれ、2階システム保守課には再び、本来の無機質な静寂が戻った。
隣接するサーバー室からは、数十台の精密機器を冷却するための強力な空調が、絶え間なく低い唸りを上げている。窓のないこの一画は、微かな電子機器の排熱と、循環しない乾燥した空気が澱み、1階の現場のような剥き出しの熱気とは質の違う、生命力を欠いた停滞が支配していた。
熱を帯びたキーボードから指を離し、椅子の背にもたれかかる。高橋という名のノイズは排除した。今、向き合うべきなのは、画角の隅で小さく崩れ落ちていた、あの成瀬結の挙動だけだ。
モニターへ視線を戻し、結の歩行ログを管理者権限で深く展開した。
画面に刻まれた光のドットは、彼女がこの巨大な「檻」の中で費やした時間の軌跡だ。午後3時を過ぎたあたりから、足跡を示す白い線は、特定の座標で何度も「停止」と「微細な震え」を記録している。
それは、システムが「サボり」として弾き出す単なる停滞ではない。ジャイロセンサーが検知した、わずかな重心移動のログを解析する。数値が示す波形は、右腹部を庇うように僅かに前傾し、左側に重心を逃がして一歩を踏み出す瞬間の、隠しきれない痛みを物語っていた。数値の揺れは、彼女が痛みに耐えかねて奥歯を噛み締め、浅い呼吸を繰り返している光景を、エンジニアとしての脳裏に生々しく描き出した。
(……ただの疲労じゃない)
数値の向こう側に透けて見える苦悶は、かつてこのシステムに求めた「徹底した効率化」が、いかに血の通った人間を摩耗させるかを突きつけてくる。だが、今は優先すべき事実があった。
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成瀬結の従業員マスタを開いた。
住所、神奈川県川崎市多摩区。かつて薫たちと過ごした世田谷から、多摩川を越えた先のエリアだ。そして、緊急連絡先の欄。
成瀬莉那(46)。
その4文字を見た瞬間、指先が止まった。窓のない部屋の乾燥した空気が、一気に冷え切ったように感じられた。私用のスマホを取り出し、電話帳の奥底に眠っていた古い連絡先を呼び出す。薫の叔母であり、学生時代に温かい食事を振る舞ってくれた恩人の番号。
マスタに記載された数字と、スマホに残る数字が、一言一句違わずに重なった。
(……莉那さんの娘さんが、ここにいるのか)
2010年、大学で起業し事業を成功させた頃、莉那と再会し、難病に苦しむ「娘さん」の存在を知った。当時、摩耶が太客の税理士から仕入れてきた「匿名基金への寄付」という体裁で、莉那に気を遣わせないよう、顔も名前も知らないその子の治療費を、失脚するまで10年以上にわたって送り続けていた。
それは、身勝手な俺なりの、唯一の誇りだったはずだ。
画面の中で頼りなく揺れる白い線。それが、守ってきたはずの命そのものだった。
築き上げた地位を失ったことが、巡り巡って、彼女をこの「鉄の檻」へと引きずり戻してしまったのか。デスクの上の事務所電話を取り、震える指でその番号をプッシュした。
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数回の呼び出し音の後、応答があった。
「……はい、成瀬です」
受話器越しに聞こえたのは、かつて宮野家のダイニングで聞いた声よりも、どこか疲弊し、だが聞き覚えのある女性の声。
「夜分に失礼いたします。NEXUSITEロジスティクスの佐伯と申します。従業員マスターに記載された、成瀬結さんの緊急連絡先でお間違いないでしょうか」
「……え、ええ。結になにかあったんでしょうか?」
莉那の声に、隠しきれない緊張が走る。
「いえ、本日の勤務中に少し体調を崩されたように見受けられたもので、状況確認の連絡です」
一度言葉を切り、喉の奥の渇きを飲み込んでから続けた。
「……莉那さん。お久しぶりです。俺です。俊哉です」
沈黙。受話器の向こうで、彼女が息を呑む音が、静まり返った室内にはっきりと聞こえた。
「……俊哉君? 本当に、俊哉君なの?」
「……驚かせてすみません。実は、成瀬結さんが配属されたんです。今日、彼女の様子が明らかにおかしかった。……莉那さん、あの子の病気は、完治していなかったんですか。支援が停止してしまって本当にすみません」
莉那は、絞り出すような声で答えた。
「……支援は、続いていたの。匿名の方から、L'uniqueという会社を通じて。でも、あの子、薬代が月々にいくらかかっているか知ってしまって……。自分の力で稼ぐって、それだけで頑張っていて……」
L'unique。
葛城摩耶(37)が代表を務める会社。俺が失脚した後、知らないところで彼女を繋ぎ止めていたのは、やはりあの女だったのか。何の目的で支援を引き継ぎ、何を企んでいるのか。腹の底から這い上がるような不気味な予感が、背筋を凍らせた。
「結には、あなたのことは詳しく伏せているわ。大人になってから、『匿名の恩人があなたの命を繋いでくれたのよ』とだけ伝えてあるの。……俊哉君、あの子に、変なことは言わないでね」
「……わかっています。莉那さん、彼女にも、電話したことは伏せておいてください。彼女がなぜここに来たのか、この目で見極めたいんです」
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電話を切り、再びモニターに向き直る。
青白いブルーライトが、暗い事務所の中で顔を冷たく照らし出している。画面には、結の明日以降の過酷なシフトが、逃げ場のないグリッドの上に並んでいる。このままでは、彼女は高額な薬代のために、高橋のパワハラと自らの身体を蝕む病魔に殺される。
管理者権限を行使し、コンソールの奥深く、彼女のIDの属性を書き換えた。
「動線最適化シミュレーション:試験対象」
そのフラグを立てる指先に、迷いはなかった。
明日から、ORIONは彼女にだけ、最も歩行距離が短く、かつ重量物の少ない「偽の最適ルート」を割り当てる。サーバー上のログは、俺がリアルタイムで介入し、何ら不審な点のない「理想的な高パフォーマンス」へと書き換え続ける。
「……悪いな、加藤。このシステムは、お前の金儲けのためだけに作ったんじゃない」
かつて世界を熱狂させたゲームを開発した男が、今、人生で最も重要なバグに立ち向かおうとしている。
それは、真実を掴むための、デバッグの開始だった。




