第27話:静かなる包囲網
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朝礼が解散した後、WFC B棟の空気は奇妙な静寂に包まれていた。捏造を暴かれた商品管理課長・高橋は、朝礼台から降りる際、まるで重力に逆らえない老人のように足取りが覚束なかった。150名を超える作業員たちは、一転して「加害者」となった上司から逃れるように、蜘蛛の子を散らすような速さで各々の持ち場へと散っていく。あとに残されたのは、巨大な物流倉庫特有の、コンベアが空回りする乾いた駆動音だけだった。
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俺は2階の事務室へ戻り、自席のモニターに向かって淡々とログの整理を続けていた。
パーテーション一枚を隔てた隣のデスクでは、高橋が激しく指を震わせながら、本社の誰かに向けた報告書を打っている。捏造を指摘された屈辱と、保身への焦りが、獣のような荒い呼吸となって室内に満ちていた。室内に漂う、彼が飲み残して放置した缶コーヒーの饐えた匂いが、より一層その場の不快指数を押し上げていた。
時折、彼が苛立ちに任せて叩きつける打鍵音が、静かな部屋に不吉なビートを刻む。高橋はタブレットを持ってやって来た。
「佐伯……。お前、自分が何をしたかわかってるんだろうな」
高橋が、画面を見つめたまま低い声で言った。その声には、先ほどまでの怒声のような力はない。あるのは、崖っぷちに立たされた人間特有の、湿り気を帯びた執着だけだ。
「私は事実を指摘したまでです。これ以上の無理な作業負荷は、現場の安全を損ないます」
「綺麗事を言うな。上が求めているのは数字なんだよ。お前がやったことは、NEXUSITEの成長を阻害する背信行為だ。……加藤CEOがこれをどう判断するか、楽しみにしておくんだな」
高橋は吐き捨てるように言うと、事務所を飛び出していった。おそらく、俺の「独断」を本社の加藤へ直接糾弾しに向かったのだろう。
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俺は椅子に深く背を預け、目元を強く揉んだ。
結をこれ以上、この男の私怨に晒すわけにはいかない。俺は再びモニターに視線を戻し、1階の特定エリアを動く彼女のログを呼び出した。画面上のドットとして動く彼女の歩行周期には、設計者である俺にしか見えない微細な異常――左足を踏み出す瞬間の、コンマ数秒の不自然な沈み込みが現れていた。それは数値上の重心バランスの揺らぎとして、ORIONの深層ログに刻まれている。
(……もう、限界に近いのか)
あの子を一刻も早く精密検査に繋げる時間を稼がなければならない。今の俺にできるのは、この閉ざされた子会社という箱庭の中で、システムの裏側に潜み、彼女をハラスメントの爪牙から守り抜くことだけだ。俺は暗号化された仮想環境を立ち上げ、高橋のIDによる不自然な操作を自動検知するトラップの強度を一段引き上げた。
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同刻、東京都港区西麻布。
『THE HIDE 西麻布』の4階、摩耶のオフィスでは、窓から差し込む秋の柔らかな光とは対照的に、張り詰めた会話が続いていた。
「現場で火の手が上がったわね。高橋が本気で俊哉を潰しにかかるはずよ」
デスクの対面に座る莉那が、心配そうに眉を寄せた。彼女の手元にあるティーカップの表面が、微かに震えている。
「摩耶、俊哉君は大丈夫なの? 彼は結を助けたい一心で動いているけれど、高橋の背後にはあの加藤がいる。下手に刺激すれば、彼自身が危ないわ」
「莉那さん、心配しすぎよ。俊哉は、結を守るためなら自分の身なんて最初から勘定に入れてないわ。……それより、あの子の体調はどう?」
莉那は、手元のスマートフォンに映る結とのメッセージ履歴を見つめた。短く、素っ気ない返信の裏側に隠された娘の痛みを想い、胸を締め付けられる。
「昨夜も足が痛むって……。でも、仕事を休みたがらないの。俊哉君が現場で泥を被ってくれている間に、私は結がいつでも休めるような環境を整えておくわ。いざとなったら、私が強引にでも休ませるつもり」
地下のバー『L'éclat』では、恵がカウンターを磨きながら、姉の忘れ形見である結の平穏を静かに祈っていた。カクテルグラスが触れ合う澄んだ音が、誰もいない店内に寂しく響く。
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午後7時。NEXUSITE本社CEO執務室。
1階の喧騒や2階の澱んだ空気とは隔絶された、3階の聖域。厚いカーペットが足音を完璧に吸い込み、室内には微かな音量でクラシックが流れている。
加藤は、高橋から持ち込まれた「システム担当者による業務妨害」の訴えが記された書面を、一瞥しただけでシュレッダーにかけた。細断される紙の音さえ、この空間では優雅なBGMの一部に過ぎない。
「……高橋。君はわざわざ、自分の無能を証明するためにここまで来たのか?」
加藤の声は、感情を排した機械のように冷たかった。窓の外に広がる湾岸の夜景を背にした彼の影が、床に長く伸びる。高橋は直立不動のまま、言葉を失い、ただ脂汗を流していた。
「捏造だろうが調整だろうが、バレるような真似をした時点でゴミだ。佐伯ごとき万年係長に、そこまでいいようにあしらわれて……。君の処遇は、上場審査が終わるまで保留にしてやる。それまでは死ぬ気で穴を埋めろ」
高橋が敗残兵のように退出した後、加藤は暗い窓の外を見つめた。手元の端末には、全社員のログをリアルタイムで監視するダッシュボードが映っている。その中には、子会社で万年係長として飼い殺している男――佐伯俊哉の名もあった。
「……佐伯係長。大人しく死んでいた方が、お互いのためだったものを」
加藤にとって、かつての親友はすでに牙を抜いた過去の遺物だ。特許を奪い、子会社という名の檻に閉じ込められた男が、今さら現場で何をしようと大勢に影響はない。加藤が抱くのは、一抹の郷愁すら混じらない、自らの完璧な王国に紛れ込んだ不快な異物に対する冷笑だけだった。
加藤はワイングラスを傾け、夜景の向こうに沈む自らの野望を見つめる。上場まであとわずか。その輝かしい階段の陰で、結を巡る攻防は、まだ、水面下で蠢き始めたばかりだった。
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