第26話:綻び
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2025年10月24日。
WFC B棟を包む空気は、早朝から沸騰していた。主幹事証券による引受審査の最終局面。ここで「現場の数値」に1ミリの停滞も許されないという狂乱が、巨大な物流倉庫を支配している。
午前8時30分。1Fフロアの巨大なシャッターが巻き上がる重低音を合図に、150名を超える作業員が整列した。その最前列、昨日よりもさらに顔色の悪い結が、震える膝を隠すように直立不動で立っていた。その額には脂汗が浮き、防塵マスク越しでも呼吸が浅いのがわかる。
「えー、昨日も言ったが、最終審査まであと1週間だ。上場すればお前らのストックオプションも紙屑じゃなくなる。だがな!」
朝礼台に登った商品管理課長・高橋が、拡声器を通さずとも響き渡る怒号を上げた。その手に握られているのは、1枚のタブレット端末。そこには、ORIONが算出した「不適合者」のリストが、非情な警告色を放って表示されている。朝礼台の横に設置された大型サイネージには、普段は進捗率を誇らしげに映し出すグラフの代わりに、冷酷な個人別評価データが晒し者のように映し出されていた。
「昨日、午後便の出荷が12分遅延した。原因は特定できている。特定のピッキングエリアにおける、著しい歩行速度の低下だ。ORIONの標準設定から30パーセント以上乖離している『欠陥品』が紛れ込んでいる」
高橋の視線が、獲物を定めるように結を射抜いた。彼女は俯き、唇を強く噛み締める。その左膝は、防塵ズボンの下ですでに限界に近い悲鳴を上げていた。周囲の作業員の視線が一斉に彼女に集まる。同情、蔑み、そして「自分じゃなくて良かった」という安堵。現場を支配するのは、加藤CEOが植え付けた「数値こそが正義」という歪んだ教義だった。
「成瀬。お前の昨日のログだ。午後2時からのピッキング効率、平均値の64パーセント。ORIONの判定は『D』――すなわち即時解雇相当の不適合だ。言い訳があるなら聞こうか?」
「……すみません。昨日は、少し足が……」
彼女の声は、遠くで鳴り響くコンベアの駆動音にかき消されそうなほど細かった。
「足? そんなもんは理由にならん。動けないなら機械以下だ。佐伯!」
高橋が、朝礼台の脇で管理用コンソールを操作していたシステム保守課係長である俺を呼ぶ。その表情には、加藤CEOへの報告期限が迫っている焦燥と、無能を切り捨てることで己の評価を守ろうとする醜悪な生存本能が透けて見えた。
「不適合確定の承認を回せ。今すぐだ。こいつのIDをシステムから削除しろ。加藤CEOには俺から報告しておく」
高橋が朝礼台の上から俺を睨みつける。その刹那、現場から一切の音が消えたように俺には感じられた。
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俺はゆっくりと顔を上げた。かつてASTERISMを率いた時代の、冷徹なエンジニアとしてのスイッチが入る。指先がキーボードに触れた。俺にとって、このORIONは自分の子供のようなものだ。加藤によって歪められたとはいえ、その「癖」は熟知している。
「高橋課長。承認の前に、1点だけ確認させていただきたいログがあります」
「あぁ? 確認だと? ORIONの数字が絶対だってのは、お前自身がマニュアルに書いたことだろうが」
俺は無言で、手元のコンソールを操作し、大型サイネージにタブレットの画面をミラーリングした。150人の作業員の目前で、複雑なグラフと数値の羅列が躍り出る。
「確かに成瀬さんの速度は低下しています。ですが、同じ時間帯、彼女の担当エリアである『B-12』棚の通信ログに異常なスパイク……不自然な通信の渋滞が発生しています。見てください、この跳ね上がった赤い波形を」
俺は画面の一部を鮮やかに拡大した。流れるような青い線の中で、そこだけが断崖絶壁のように鋭く突き立っている。
「ORIONのアルゴリズムは、ハンディ端末からの確定信号を受信して初めて『作業完了』と見なします。しかし昨日の14時台、B-12付近のアクセスポイントでパケットロスが多発している。成瀬さんがピッキングを終えてボタンを押しても、システムに届くまでに平均で8.4秒のタイムラグが発生していた。つまり――」
俺はコンソールを叩き、さらに深層のログを引き出す。昨夜、2Fのサーバー室で何度もシミュレーションした通り、特定のパケットだけを遮断するスクリプトの痕跡を追い詰める。
「彼女が遅いのではなく、システムが彼女の成果を正しく受け取れていなかった。ORIONの不具合による『冤罪』です」
「な、何を言ってやがる! そんな不具合、今まで報告されてねえぞ!」
「報告されないよう、誰かがパラメータを書き換えていたからです。これは不具合ではなく、人為的な操作です」
会場の空気が凍りついた。高橋の顔から血の気が引いていく。
「高橋課長。あなたが管理している『現場調整係数』。これに、成瀬さんのエリアだけ特定のマイナス補正……意図的な遅延バッファが上書きされていました。昨日の午前11時15分。2F商品管理課の第3端末。ログインIDは……あなたですね」
「……っ! それは、全体のバランスを……!」
「調整ではありません。これは捏造だ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かで、冷たかった。モニターには、高橋が行った操作ログの裏付けが、鮮やかな赤字で表示されていた。
結が、信じられないものを見るような目で俺を見上げている。22年前、薫と出会い、そして彼女を失ってから、俺の時間は止まったままだった。だが今、システムという名の武器を手に、あの日の忘れ形見である娘を守るため、俺は加藤の飼い犬を切り裂いている。
「このログ、今このまま経営企画の監査用サーバーに転送してもよろしいでしょうか。上場審査の直前に、現場責任者による数値捏造が発覚するのは……加藤CEOにとって、不都合以外の何物でもないと思いますが」
高橋の喉が、引き攣った音を立てた。加藤は「無能」を嫌うが、「嘘をつく無能」はもっと嫌う。失敗の責任をすべて現場に押し付けようとした高橋の目論見は、今、俺の手元のコンソールによって、彼自身の首を絞める縄へと変わった。
俺は結を見た。彼女は驚愕に目を見開き、呆然とモニターを見つめている。
(もう少しだ、結。必ず、お前をここから連れ出す)
「承認は、保留にします。……いいですね、課長?」
高橋は力なく、ただ頷くことしかできなかった。朝礼が解散し、作業員たちがざわめきながら持ち場へ戻っていく。その喧騒の中、俺は結の横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止め、心の内で誓った。
2021年にすべてを奪われて4年。あの日から止まっていた時計の針が、今、怒涛の反撃として動き出した。奪還の火蓋は、今この瞬間、切られた。
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次回も18:20に更新予定です。
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