プロローグ
俺は見た。この世のものとは思えないほど美しい存在に。
幽霊的なものかもしれない。もしかしたらもっと高次元の、神々しささえ漂う何かに
俺は出会ってしまった。出会うはずの無い彼女に。俺が見たのは咲き乱れる花だった。
まるで魔法のように、奇跡のようにそこから彼女は花を咲かせた。
コンクリートジャングルの、自然とは無縁の日本のごくごく一般的な交差点で。
スーツを着た男性や、制服に身を包む女子学生がいる前で堂々と。さもそれは、当たり前のように彼女は咲かせて見せたのだ。
それは運命だったのかもしれない。今思えば、偶然にしてはよくできたシュチュエーションだった。
交差点のど真ん中に立っていた彼女の周りには、目を疑うほどのきれいな枝垂桜が咲いている。
コンクリートを突き破り、凛々とそこに現れた桜からは、無数の花びらが宙を舞っている。そこは俺の知っている世界とは百八十度違った美しい世界。
退屈で、残酷で、血も涙も無い世界に現れた一筋の希望の光にすら思える。彼女はただそこに立って、その枝垂桜をやさしい微笑で静かに見つめながら、ゆっくり撫でていた。
俺は静かに呼吸をする。息を飲む。
彼女の淡いピンクの唇を見てため息をつく。美しい藍色の瞳を見て見とれる。
緑色の長い髪が一筋の風に揺れた。次の瞬間止まっていた時が動き初めた。
「異能者だ」
誰かがそう呟いた。連鎖的にそれは広がっていく。世界はまた残酷になり始める。
「きゃあああああああああ!」
甲高い悲鳴とともに人々は逃げ出していった。ただ一人俺だけを残して。
むせ返る人ごみはいつの間にか無くなって、俺と彼女の二人だけになった。
もっと近づきたい。触れてみたい。もっと、彼女を見ていたい。灰色の世界から抜け出して、何もかも捨てて俺は、貴方を抱きしめたい。
思わずそう思った。息を呑むほど美しいものに俺は魅了されてしまったんだ。
気がつくと俺は彼女の目の前に立っていた。いや、自分の足でここまで来たんだ。それは覚えている。でも感覚が無い。不思議な気分だった。
「貴方は誰?」
俺とおそらく同年代であると思われる小柄な彼女は、透き通るような声で、俺の顔を不思議そうに見つめながらそう言った。はっと意識を取り戻し、頭を働かせる。
駄目だ。何も思いつかない。相変わらず頭の中は真っ白で、最初の言葉が見つからない。
数分が数時間に思えるような沈黙の中、やっと搾り出すように自分の名前を思い出した。
「あ……えっと、俺は、俺の名前はアキラっていいます。えっとえっと……、貴方はここで何をしているんですか? いや、深い意味は無いですよ? ただ気になって」
「小学生?」
「あ、そ、そうです。貴方も小学生、だよね? 実は今家に帰る途中で、偶然見かけて……。いきなり地面から桜が生えてきて、あははは……あ、貴方はいったい」
「私は異能者。でも何でだろ。ほかの人と何も変わらないはずなのに」
彼女はそう言って顔を背けた。静寂が俺をさらに焦らせる。
ここまで、まったくといって会話が噛み合ってない。焦りながら話題を探そうと頭を働かせるが、やっぱり何も思いつかなかった。
「い、異能者ね……。俺も始めて見た。だって、異能者って滅多に存在しないって聞くし、日本には三十年前に一人見つかっただけだって……でも、俺は大丈夫だと思いますよ? いやなんていうか、俺は他の人みたいに逃げないと思います」
「どうして?」
「どうしてかな? わかんないけど、異能者が危険だって先生や大人たちは言うけど、俺にはそう思えないし、実際こうしてあっても何とも無いし……」
「それは君の勝手な推測でしょ?」
「そうかもしれないけど、だって君はとっても……」
「とっても?」
美しい。そう言おうとして、言えなかった。静寂は銃声にかき消された。
彼女はゆっくりと仰向けに、俺に覆いかぶさるように倒れた。抱きしめると、とても柔らかくていい香りがして、このまま消えてなくなるんじゃないかってほどに儚く思えた。
真っ白な彼女の肌を、真っ赤な血が汚していく。俺は何か言おうとしてやめた。
「異能者射殺完了。無事目的を達成しました」
無線の声が頭に響いてうるさい。眩しい光が辺りを強烈に照らす。ヘリの爆音と風が何もかも吹き飛ばしてしまう。
枝垂桜は儚く綺麗に散った。散った花びらは俺の顔を大量に埋め尽くして消えていく。
重々しい銃と、完全武装した大人たちが俺と彼女を囲む。奥から真っ黒なスーツの、偉そうな雰囲気の男が暗い声で俺に尋ねてきた。
「君、大丈夫? 怪我は無いか?」
答えられない。わけがわからない。今どうしてこういう状況になったのかも、混乱して何もわからなかった。ただ、彼女の温もりだけが俺に今が現実だと教えてくれる。
「おい、なんだよ。返事しろよ」
真っ黒なスーツの男の問いかけを無視して、何度も彼女を揺さぶった。
けど、揺さぶっても声をかけても彼女に反応は無かった。ゆっくり彼女を起こして顔を見ると、彼女の額からは大量の血が出ていた。
もう手遅れ。そんな言葉が俺の頭を埋め尽くす。さっきまで普通に話していた彼女はもうここにはいない。あるのは彼女だった物だけだ。
この世界では当たり前のことなのか? 違う。この世界は狂ってる。
美しい世界はあっと言う間に俺の目の前から消えてしまった。本当に、本当にほんの僅かの間だけだった。悔しさも、悲しさも感じない。
異能者はこの世界では、慈悲も無く殺される。地面を這う虫よりも忌み嫌われ、その命は本当に粗末に扱われる。
繰り返される毎日の中、何度も見た光景なのに今日は何かがおかしかった。
初めてだ。頬が濡れているなんて。今まで感じたことの無い感情が、吐き気としてこみ上げてきた。どうしようもなく熱く、吐いても吐いても取れない。
「うぁ……うあぁぁぁ」
「被験体124879の様子がおかしい。感情に波がある。早急に」
そう言いかけて、真っ黒なスーツを着た大人は首を押さえ始めた。
「うあ……こっ……あっ!?」
次の瞬間、真っ黒なスーツを着た大人は大量に血を吐き、もがき苦しんで絶命した。
あたりが騒然となる。俺はただ、ずっと彼女を抱きしめていた。
まだぬくもりが消えないうちに、俺はさっき言おうとしてやめたことを言うために、彼女の耳に顔を近づけた。しかし、大人たちはそれを許さず俺と彼女を無理やり引き離した。
「やはり、異能者は異能者か。こんな危険分子利用するなんてやはり無理だったんだ。射殺命令はまだか!?」
「しかし、被験体124879がいなければ、今後異能者狩り支障をきたしかねません……奴をなだめる方法は無いのですか?」
「もう奴は用済みだ。その価値は無い」
「……了解。被験体124879の射殺命令が出ました」
大人たちは俺たちを囲み、冷たい銃口を向ける。けど、不思議と恐怖は無かった。まるで自ら死を選んだように、安らかな気持ちですらあった。
「奴の能力に注意しろ。ほかの異能者と違って、こいつの能力はきわめて危険だ」
一人の大人がライフルの銃口を俺の頭に押し当てる。金属の重みと冷たさと、鈍い痛みを感じた。
フー、フーと、息を荒くしている。まるで何かに怯えてるみたいだ。原因はわかってる。俺だ。
大人はゆっくりと引き金に指をかけ、そして意を決したように引き金を引いた。大きな銃声とともに、俺は地面に倒れた。不思議と痛みは感じなかったが、頭から何かが垂れてくるのを感じた。
そしてそれはすぐに視界を真っ赤に染めた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
大人は叫んだ。その声の大きさから周りの大人たちもただ事ではないことが起きたとすぐに察した。
「どうした!?」
「腕が、腕が」
そう言って自分の頭に銃をつきつけ、引き金を引き一人の大人は死んでしまった。
その大人の指は無残に吹き飛んでおり、ライフルの銃口は曲線的に歪んでいる。そのライフルはきっと暴発したのだと推測できるが、それにしてはおかしい所がありすぎた。
最後の自殺とも取れる行動も、パニックになってにしては異常すぎる。大人たちはこの現象についてよく知っていた。
「被験体をすぐに始末しろぉ!」
大人たちは叫び声を上げながら銃を乱射する。その光景は凶器さえ感じられるほどだった。
自分の血で真っ赤に染まった世界が、とても美しく見えた。きっともう二度と見られない光景になぜか俺は感動すら覚えていた。
「こんな世界滅んでしまえ」
俺はそう呟いた。
大人たちはみんな、俺のほうではなく仲間同士で殺し合いを始めた。血が雨のように降り注ぎ、絶望の悲鳴がこの世界が残酷だと物語っているようだった。
やがて、銃声が止むとまたさっきの静寂が戻ってきた。このままでいい。
もう何も考えたくない。考えたらきっと、押し殺してきた感情といっしょに自分自身を殺してしまいそうだった。
ゆっくりと俺は立ち上がり、すっかり冷たくなってしまった彼女を抱き寄せた。
「本当に死んでしまったんだね」
その声に彼女は答えなかった。溢れ出る涙も、こびり付いた血も。もうどうでもよくなっていた。
「彼女だけは殺さないって言ったのに……助けてくれるっていったのに……嘘つきだ。やっぱり大人は嘘つきだった。嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。嫌いだ。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ!」
誰もいない交差点のど真ん中で、俺はただひたすら叫び続けた。もしかしたら、悪い夢かもしれない。悪い夢なら早く醒めてほしい。そんな淡い期待も、時間とともに薄れていった。
空から轟音が聞こえる。きっと大人たちが何かしたんだろう。それ以上のことはわからない。
けど、大人たちは必死に俺を殺そうとしていることだけはわかる。
だって俺は、異能者だから。
もう一度、俺は彼女の顔に耳を近づけゆっくりと、かみ締めるようにさっき言えなかった事を、今度こそちゃんと彼女に伝えようとした。
声が震える。涙がとめどなく溢れる。それでもしっかりと、今度はちゃんと彼女に伝えた。
「すず。俺、約束……」
世界は真っ白な光に包まれた。目の前の全てが光に包まれて、そして消えていった。