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第1話 春と、いつもの筆談

この物語を手に取っていただき、ありがとうございます。


『君に届くまで、何度でも』は、耳の聞こえない白澤由紀と、幼い頃から筆談を続けてきた霧島政を中心に描く、学園日常ラブコメです。


言葉は、声だけで伝えるものではありません。文字や表情、視線、そして誰かのために立ち止まる時間にも、気持ちは込められると思います。


私立桐星学園で始まる四人の高校生活と、幼なじみだった由紀と政の関係が少しずつ変わっていく様子を、温かく見守っていただけたらうれしいです。


キャラ名

白澤由紀(しろさわゆき)

霧島政(きりしませい)

北上華怜(ほくじょうかれん)

長篠蓮(ながしのれん)




 私立桐星学園の正門前には、満開の桜が咲いていた。


 真新しい制服に身を包んだ生徒たちが、友人や家族と並んで写真を撮っている。久しぶりに会ったらしい同級生へ駆け寄る者もいれば、緊張した顔で校舎を見上げる者もいた。


 白澤由紀は、その人混みから少し離れた場所に立っていた。


 周囲の音は聞こえない。


 それでも、絶え間なく動く口元や表情を見れば、多くの言葉が飛び交っていることは分かる。


 笑っている人。遠くの誰かを呼んでいる人。新しい学校生活への期待を語っている人。


 その中に入っていくことを想像すると、由紀の胸は少しだけ重くなった。


 新しい環境では、いつも同じことが起きる。


 最初は耳が聞こえないことに興味を持たれる。何人かは筆談で話そうとしてくれる。しかし、時間がたつにつれて会話の回数は減っていく。


 文字を書くのには時間がかかる。


 複数人で話していると、由紀のために会話を止めなければならない。


 誰も由紀を嫌っているわけではない。ただ、どう接すればよいか分からず、少しずつ距離が開いていく。


 由紀も、それを引き止めようとはしなかった。


 期待しなければ、傷つかなくて済む。


 高校でも、きっと同じだ。


 そう考えていた由紀の目の前に、一冊のノートが差し出された。


『入学初日から帰りたそうな顔してる』


 見慣れた、少し右上がりの文字だった。


 由紀が顔を上げると、霧島政が立っていた。


 新しい制服を着ているのに、ネクタイは微妙に曲がっている。髪には桜の花びらが一枚乗っていた。


 本人はまったく気づかず、いつもの明るい笑顔を浮かべている。


 由紀は政からペンを受け取り、ノートへ書いた。


『帰りたいとは思ってない』


『じゃあ、楽しみ?』


『そこまでは言ってない』


『難しいな、由紀は』


『政が単純すぎるだけ』


 政は肩を大きく揺らした。


 笑っているのだろう。


 由紀には声は聞こえないが、政がどんなふうに笑うのかは昔から知っている。


 政は小学生の頃から変わらなかった。


 由紀が一人で本を読んでいれば、勝手に隣へ座った。最初は由紀が声に反応しないことを不思議がっていたが、耳が聞こえないと知ると、紙に文字を書いて見せるようになった。


 今日の給食。


 授業中に先生へ注意されたこと。


 帰り道で見つけた猫。


 由紀にとってはどうでもよいことまで、政はすべて文字にした。


 ほかの子が筆談を面倒に感じて離れていっても、政だけは次の日になると、また新しい言葉を書いてきた。


『高校でもよろしく』


 政がノートへ書き足す。


 由紀はその文字を見つめ、少し考えてから返事を書いた。


『静かにしてくれるなら』


『それは無理』


 迷いのない即答だった。


 由紀が呆れていると、背後から肩を二回軽く叩かれた。


 振り返ると、北上華怜が立っていた。


 華怜は由紀が自分を見たことを確認してから、スマートフォンの画面を向ける。


『朝から仲がよろしいことで』


 華怜の隣には、長篠蓮もいた。蓮は政の肩へ腕を回しながら、自分のスマートフォンを由紀へ見せた。


『入学式の日くらい夫婦げんかはやめろよ』


 由紀は華怜からスマートフォンを借り、素早く文字を打つ。


『どこに夫婦がいるの?』


 華怜は由紀と政を交互に指さした。


 蓮も隣で大きくうなずいている。


 政だけは状況を理解できていないらしく、三人の顔を順番に見た。


「何の話?」


 政の口が、そう動いた。


 蓮が政へ何かを耳打ちする。


 その直後、政は目を見開き、勢いよく首を横に振った。


 耳まで赤くなっている。


 その反応があまりにも分かりやすくて、由紀は思わず笑った。


 華怜と蓮は顔を見合わせると、何かを確信したように笑みを深くした。


 由紀は嫌な予感がして、華怜の画面へ書き込む。


『早くクラスを見に行こう』


 四人で昇降口へ向かうと、クラス分けの名簿の前には多くの生徒が集まっていた。


 政が人混みの中へ迷いなく進んでいく。その後ろを蓮が追い、華怜は由紀が置いていかれないよう隣を歩いた。


 やがて政が振り返り、両手を大きく上げる。


 蓮も笑顔で何かを叫んでいた。


 名簿には、四人の名前が並んでいた。


 一年二組。


 白澤由紀。


 霧島政。


 北上華怜。


 長篠蓮。


 由紀が名簿を確認すると、華怜が嬉しそうに手を握ってきた。


 政は持っていたノートへ大きな文字を書く。


『四人とも一緒!』


『見れば分かる』


『もっと喜べよ』


『喜んでる』


『顔に出てない』


 由紀が政をにらむと、蓮が横からノートへ書き足した。


『これが由紀なりの喜び方だから』


 華怜もペンを取り、続ける。


『政と同じクラスで嬉しいらしいよ』


『勝手なこと書かないで』


 由紀が文字を囲むように何度も線を引くと、華怜と蓮は楽しそうに笑った。


 政は少し照れたような表情で、由紀を見ている。


 その顔を見ていると、なぜか落ち着かなくなり、由紀は先に校舎へ入った。


 一年二組の教室では、すでに新しい人間関係が作られ始めていた。


 由紀の席は窓側の後ろから二番目だった。右隣が華怜で、前には政が座っている。蓮は政の斜め前だった。


 政は席に着いた直後、身体ごと後ろを向いた。


『最高の席だな』


『前を向いて』


『先生はまだ来てない』


『そういう問題じゃない』


『高校でも冷たい』


『中学でも同じこと言ってた』


 政が何かを書こうとしたところで、教室の前方に女性教師が入ってきた。


 由紀には声が聞こえないため、女性教師が何を言ったのかは分からなかった。だが、華怜がすぐに由紀の肩へ触れ、前を指さしてくれた。


 政も慌てて前を向く。


 女性教師は教壇に立つと、黒板へ大きく名前を書いた。


 桃瀬真帆。


 その下へ、ひらがなで読み方を書き加える。


 教師は自分を指さしたあと、「もも先生」と黒板へ書いた。


 教室の生徒たちが笑い、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 桃瀬は続けて、今日の予定を黒板へ書き始める。


 入学式。


 自己紹介。


 校内案内。


 提出物の確認。


 由紀は並んだ文字を見て、少し驚いた。


 教師によっては、連絡をすべて口頭で済ませることがある。そのたびに由紀は、あとから誰かに内容を聞かなければならなかった。


 しかし、もも先生は最初から、由紀にも分かる形で予定を示している。


 やがて自己紹介が始まり、順番が由紀まで回ってきた。


 教壇の前に立つと、教室中の視線が自分へ集まる。


 由紀は用意していた紙を黒板へ貼った。


『白澤由紀です。耳が聞こえません。会話は筆談か、正面からゆっくり口を動かしてください。うまく反応できないこともありますが、無視しているわけではありません。よろしくお願いします』


 説明を読み終えたクラスメイトたちは、少し戸惑った顔をしていた。


 どう接すればよいのだろう。


 その気持ちが表情から伝わってくる。


 由紀は小さく頭を下げ、席へ戻ろうとした。


 すると、政が勢いよく手を挙げた。


 もも先生に指名され、立ち上がって何かを話し始める。


 由紀には内容が聞こえない。


 蓮がノートへ素早く書き、由紀の方へ向けた。


『政が、「由紀は普通に冗談も言うし、怒るとすごく怖いから、緊張しなくていい」って説明してる』


 由紀はゆっくりと政をにらんだ。


 政は得意げな顔で親指を立てている。


 教室の何人かが笑っていた。


 先ほどまでの固い雰囲気が、ほんの少しだけ変わっている。


 由紀は席へ戻ると、政の背中をペンの先で軽く突いた。


 振り返った政へ、ノートを見せる。


『余計なことを言わないで』


『でも、みんな笑ってた』


『私を怖い人にしたからでしょ』


『事実だろ』


 由紀はノートで政の頭を軽く叩いた。


 その様子を見て、近くの席の生徒がまた笑う。


 嫌な笑いではなかった。


 由紀は少しだけ、肩の力を抜いた。


 昼休みになると、政が真っ先に机を動かした。


 蓮と華怜も当然のように机を寄せ、四人で弁当を囲む。


 政は由紀の弁当箱をのぞき込んだ。


『唐揚げ入ってる』


『見れば分かる』


『一個ほしい』


『嫌』


『卵焼きと交換』


『それならいい』


 由紀が唐揚げを渡すと、政は代わりに卵焼きを置いた。


 向かい側では、華怜と蓮が無言で二人を見ている。


 華怜がスマートフォンへ文字を打った。


『自然すぎて怖い』


 蓮も続ける。


『熟年夫婦のおかず交換』


『またそれ?』


 由紀が返すと、二人は同時にうなずいた。


 政は話の内容を知りたそうにしていたが、由紀は画面を伏せた。


 その隙に、蓮が政の弁当から唐揚げを一つ取った。


 政がすぐに気づき、蓮の肩をつかむ。


 二人は笑いながら何かを言い合い始めた。


 由紀には会話の内容が分からなかった。


 口の動きが速く、どちらが何を話しているのかも追えない。


 四人でいても、こうして置いていかれる瞬間はある。


 由紀は箸を持ったまま、静かに弁当へ視線を落とした。


 次の瞬間、目の前にノートが置かれた。


『蓮が俺の唐揚げ取った』


 書いたのは政だった。


 蓮が横からペンを奪う。


『政も由紀からもらってたから、同じだと思った』


 さらに華怜が書き足す。


『私も卵焼きほしい』


 由紀は三人の文字を読み、小さく笑った。


『華怜は何も関係ないでしょ』


 会話が、再び四人のものになる。


 政は昔からそうだった。


 由紀が話についていけなくなったことに気づくと、途中からでも文字にしてくれる。


 何年続けても、それを面倒そうにしたことはない。


 由紀が政の横顔を見つめていると、本人が気づいて首をかしげた。


『どうした?』


『何でもない』


『俺の顔に何かついてる?』


『桜の花びら』


 政は慌てて髪を触り始めた。


 しかし、花びらは朝のうちに落ちている。


 由紀が笑うと、政はだまされたことに気づき、悔しそうに眉を寄せた。


 向かい側では、華怜と蓮がまた顔を見合わせている。


 二人の口が、同じ言葉を作った。


「早く付き合え」


 由紀は口の動きだけで意味を理解し、二人をにらんだ。


 華怜と蓮は何も知らないふりをして、弁当に視線を戻した。


 放課後、華怜は提出物を届けるため職員室へ向かい、蓮は部活動の見学へ行った。


 教室には由紀と政だけが残る。


 政は鞄を持つと、由紀の机へノートを置いた。


『一緒に帰ろう』


『二人を待たなくていいの?』


『今日は由紀と帰る』


 由紀の手が止まった。


 政は昔から、こういうことを平気で書く。


 本人に深い意味はないのだろう。


 それなのに最近は、政の何気ない言葉を見るたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


『仕方ないから一緒に帰ってあげる』


『素直じゃないな』


『帰るのやめる?』


『ごめんなさい』


 政はすぐに頭を下げた。


 二人で校舎を出ると、朝は生徒であふれていた道も静かになっていた。


 政は歩きながら何度も由紀を見る。


 話したいことがあるときの癖だった。


 由紀がノートを差し出すと、政は歩道の端で立ち止まる。


『高校、どうだった?』


 由紀は少し考えた。


 知らない人ばかりの教室には、やはり不安がある。これから会話に入れず、一人になることもあるかもしれない。


 それでも、華怜と蓮がいる。


 もも先生は由紀の意思を尊重してくれた。


 そして政は、今日も変わらず隣にいる。


『思っていたより悪くなかった』


『由紀にしては高評価だな』


『政が静かだったら、もっとよかった』


『俺がいなかったら寂しいくせに』


 由紀はすぐに否定しようとした。


 けれど、もし政が同じクラスでなかったら。


 いつものように、ノートを差し出してくれなかったら。


 今日の自分は、もっと不安だったに違いない。


 由紀は迷った末、小さな文字で返事を書いた。


『少しだけね』


 政はノートを見たまま、しばらく動かなかった。


 やがて目を見開き、由紀を見る。


『今の、本当?』


『嘘』


『絶対本当だ』


『忘れて』


『一生覚えてる』


 政は嬉しそうに笑っていた。


 由紀は熱くなった頬を隠すように顔をそらす。


 春の夕日のせいだ。


 そういうことにしておいた。


 二人は再び、肩を並べて歩き始める。


 小学生の頃から何冊も使い切ってきた筆談ノートには、くだらない冗談も、けんかも、謝罪も残されている。


 高校生活が始まっても、二人の関係は変わらない。


 由紀は、ずっとそう思っていた。


 けれど、隣を歩く政の横顔を見ると、胸の奥に今までとは違う何かが生まれている気がする。


 それが何なのか、由紀にはまだ分からない。


 開いたノートの上に、桜の花びらが一枚落ちた。


 政はその隣へ、新しい言葉を書き加える。


『明日も一緒に学校行こう』


 由紀は少しだけ笑い、その下へ返事を書いた。


『寝坊しなかったらね』


 変わらないはずだった二人の日常が、ほんの少しだけ動き始めた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第一巻では、由紀、政、華怜、蓮の四人が私立桐星学園へ入学し、新しい高校生活を始める一日を描きました。


由紀と政は、幼い頃から筆談を続けてきた大切な幼なじみです。二人にとっては当たり前だった関係も、高校生活の中で少しずつ変化していきます。


まだ自分たちの気持ちに気づいていない二人ですが、華怜と蓮にはすでに何かが見えているようです。これから増えていく四人の日常と、筆談ノートに書かれる新しい言葉を、引き続き楽しんでいただけたらうれしいです。


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