眠れる姫を起こすのは
「エメラルダ、そこにいるのか?」
四阿のベンチに置かれたクッションに寄りかかるのは、エメラルダ・シュタインベルク。シュタインベルク伯爵家の長女であり、目下俺が護衛をしているお嬢様だ。
なかなか戻ってこないエメラルダを探して、俺は庭の外れにひっそりと佇む四阿に来ていた。
「……なんだ寝てるのか。おい、こんな場所で寝ていると風邪をひくぞ」
シュタインベルク家秘蔵の薔薇と称される姉妹の姉、エメラルダ。
緩く波打つプラチナゴールドの髪に深いエメラルドの瞳。人目を引く華やかな美貌は、人によっては怜悧な印象を与えるかもしれない。
だが、木漏れ日の下クッションに埋もれるようにして眠る姿は無防備であどけなく、幼い子供のようにすら見える。
「エメラルダ……?」
肩を揺すって起こそうとした俺は、白い頬に涙の跡が光るのを見つけて手を止めた。
数日後に出発を控えたエメラルダは、頻繁に庭の外れに佇むこの四阿を訪れるようになった。
なにかを懐かしむように庭を見つめる姿は、まるで思い出を辿っているかのように見える。
だがエメラルダがここにいるのは、屋敷に居場所がないからではないだろうか。新参者の俺でもわかるほど、彼女を取り巻く空気は冷たい。
そしてこいつが細心の注意を払い、用心深く奴等の視界に入らないように行動していることを俺は知っている。
不意に出会ってしまった時に、エメラルド色の瞳が大きく揺れることも。
「……まったく、泣くなら俺の胸で泣けばいいのによ」
ずいぶん長い間ここにいるのか、触れた頬はすっかり冷たくなっている。着ていた上着を脱ぎエメラルダをくるむと、俺はその隣に腰を下ろした。
……◊……
公務が終わり帰国する予定だった俺に舞い込んだのは、とある令嬢をシャザナまで護衛して欲しいというふざけた話だった。
聞けばアカデミーに留学することになったものの、急な話のため支度がままならず困っているのだという。
本来ならば即座に断った話だ。それができなかったのは、この話を持ち込んだのが恩師であり、今はここリヒテンハイム公国にある学園の長を務めるシュナイザー候だったからだ。
「なかなか見所のあるお嬢さんでしてな。常々公国の伯爵領に埋もれるにはもったいないと思っておったのです」
「はあ」
帰国の挨拶に訪れた学園の理事長室で、候は俺の挨拶が終わるのを待っておもむろに話を切り出した。
「色々事情はあるのでしょうが、留学する気になってくれたのはこちらとしては非常に僥倖。シャザナまでの護衛は、是非信頼の置ける人にお願いしたいと思いましてな」
「まったく、人使いが荒いのは昔から変わりませんね」
「フォッフォッフォッ。貴方は私と違いまだ若い。面倒がらずに色んな体験をなさるべきです」
重厚なマホガニーの机に向かって座りながら鷹揚に笑っていた候は、そこで言葉を区切りこちらを見据えた。
未だ衰えを知らない鋭い眼光は、かつて子供だった俺に難解な課題を与えた時と同じ。こちらの力量を計っているのか、それとも見極めようとでもしているのか……?
思わず居住まいを正した俺を見て、候はすっと目を細めた。
「希有な力を持つお嬢さんです。くれぐれも手を出したりなさりませんように。──殿下」
そう釘をさされたものの、当初俺はこの話に乗り気ではなかった。
急に留学が決まったなどど、周囲の迷惑を顧みない我儘なお嬢様に違いない。そんな女のおもりなど真っ平ごめんだ。だが、一度引き受けた以上こちらから断るわけにもいくまい。
──ならば向こうから断らせればいいのではないか?
そう意気込んで臨んだ初顔合わせで、今思えば俺はずいぶんと無礼な振る舞いをしていた。
わざとだらしなく服を着崩し、横柄な態度にぞんざいな言葉遣い。本当なら貴族の前でそんな態度をしようものなら、不敬だとその場で解雇されるに違いない。現にシュタインベルク伯爵は、俺を見て目を白黒させていた。
だがエメラルダはにこやかに笑い、こう告げたのだ。
「エメラルダと申します。護衛を引き受けていただけると聞きました。急な話で申し訳ないのですが、どうぞシャザナまでよろしくお願いいたします」
こいつはただの我儘なお嬢様とは違う。それがエメラルダの第一印象だった。
それから屋敷に滞在することになった俺は、いくつかの興味深い情報を得ることになった。
後継となる男児がいないシュタインベルク家は、本当なら長女であるエメラルダが婿を取り、伯爵家を継ぐ予定だった。
そんな中、エメラルダは唐突に留学を決める。
困ったのは周囲の人間だ。婚約者だった男には、当然未来を見据えて教育がされていたはずだ。そのための婚約だったのだ。今更役者を変えるわけにはいかない。
そこで急遽後釜に据えられたのが、妹のアンリエッタだった。
捨てられた婚約者と、姉の婚約者だった男と結婚することになった妹。
それだけ聞けば、大抵の人間は二人を不運だと思うに違いない。身勝手な姉の後始末を押し付けられ、振り回される悲劇の二人だと。
だが、人目を憚らず行動をともにする元婚約者と妹は、俺からすればどう見ても一朝一夕の関係には見えない。
つまり、恋に破れたのはエメラルダではないのか?
妹に婚約者を奪われ居場所を失ったために、新天地を求めて留学するのではないのか……?
そんな俺の一方的な思い込みは、とんでもない勘違いだったとすぐにわかった。
戯れに触れたエメラルダは、まだ恋すら知らない固い蕾だったのだ。
……◊……
「ん……」
「エメラルダ、起きたのか?」
呼びかける声に反応して、長い睫が縁取る瞼がぴくりと動いた。何度か重たげな瞬きを繰り返したあと、ようやくエメラルドの瞳が俺を捉えた。
「……カーライル……? 私、眠って……?」
「ああ。まったく不用心だな。こんなところで寝ていたら風邪をひくだろう」
身体を起こしたエメラルダは身体にかかる俺の上着に気がつくと、不思議そうに目を瞬かせた。
「ごめんなさい。ここで庭を眺めていたのだけど……、つい眠ってしまったのね」
「……泣いていたのか?」
「え? 泣いてなど……」
「気がついてないのか? ほら、ここに跡が残ってる」
頬に残る涙の跡を指で拭うと、エメラルダは困ったように俺を睨んでから顔を逸らした。横を向いた頬が、瞬く間に鮮やかに染まっていくのがわかった。
「……このようにみだりに女性に触れるべきではないと思います」
「そうか? これくらいなら普通のことだろう。お前だって泣いている友達がいたら慰めるんじゃないか?」
「え? これは普通なのですか?」
「ああ。泣いている子供と女性には親切にしろと、まず真っ先に男が学校で教わることだからな」
「そう……ですか」
疑いつつも素直に頷くエメラルダの様子に、思わず苦笑する。
頭はいいんだろうが、あまりにも世間を知らない様子は、少々どころではなく危なっかいんじゃないだろうか。
学問の国シャザナのアカデミーは、それこそ王族から貴族、商人に平民まで、世界各国から広い階級の人間が集まる。このままではエメラルダが価値観の違いに戸惑うだろうことは、想像に難くない。
──そんなエメラルダにつけ込む野郎が現れたら……? 俺は思いっきり顔を顰めた。
「なあ、エメラルダ。もう少し世間に慣れておいたほうがいいんじゃないのか? このままではアカデミーで苦労しそうだ」
「世間慣れ、ですか?」
「ああ。例えば自分で買い物をしたことはあるか? 屋敷に商人を呼びつけてドレスや宝石を買うのとはわけが違う。学用品や本なんかの店に行って、自分で金を払うんだ。お嬢さんにできるか?」
「本屋……そうね、これからは本屋に行って自分の好きな本を買えるのね……! ねえカーライル、シャザナには詳しいのでしょう? 向こうに着いたら私を本屋に連れて行ってくださる?」
「あ、ああ。それは構わないが」
「本当に? 嬉しい……!」
満面の笑みで喜ぶエメラルダの顔からは、今までの貼り付けたような笑顔がすっかり抜け落ちている。その蕾が綻んでいくような笑顔に、俺はあの日のエメラルダを思い出していた。
──あの日、軽く触れた唇は、まるで咲く前の蕾のように固く閉じていた。
口付けを返すことも、息をすることも知らない様子に驚いて顔を離せば、エメラルダは静かに涙を流していた。
そして笑いながら初めて女として扱ってもらえたのが嬉しいと告げた姿に、俺は少なからず自分が動揺していることを自覚せざるを得なかった。
それは無垢な唇を奪ったことへの罪悪感か。
それとも無垢な蕾をこの手で開かせたいという欲望なのか。
「……任せておけ。俺が全部教えてやる」
無邪気に喜ぶエメラルダを前に、俺は自分の中で眠っていたなにかが動き出すのを感じていた。
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