人形
目に見えている世界が、そのまま真実とは限らない。
まだ夜が闇に支配されていた時代の話。M氏は夜道で心理学者の友人と出くわした時、ほっとした心地になった。つい先ほど、背筋が寒くなるような体験をしたからだった。
「聞いてくれよ。さっき、そこの路地で変なものを見たんだ」
それは人形だった。
最初は毛玉かと思い、近付いてみてぎょっとした。ブロンドの少女の人形が、道の真ん中に捨てられていたのだ。しかも、裸の状態で、関節は異常な方向に曲げられていた。
「なに、嫉妬深い牝猫が持ち出して捨てたんだろう」
「そうだろうけどな。妙に不気味だった」
話をしているうちにM氏も元気が出てきた。家路につく頃には、不気味な思いもすっかり消えかけていた。
しかし別れ際、友人が唐突に心理学者らしいことを語り始めた。
「人間の脳というのは不思議なものでね。自分に都合の悪い記憶を改ざんすることがある」
「そうなのか?」
「そう。例えば、あまりにも恐ろしい体験をした時とかね」
M氏は言いようのない不安を覚えた。
「君の話を聞いて、不思議だったんだ。私たちが出会った場所と、例の路地の位置関係から察するに、君は途中で路地を引き返したことになるんだよ」
「それは、事実だが」
確かに、M氏は路地を引き返していた。
「人形は小さかったんだろう? いかにあの路地が狭いとはいえ、よけて通れたはずだ。またぐことも。でも君はそうしなかった」
「なにが言いたいんだ」
「いや、まさかとは思うんだけどね。君の脳はあえて事実から目を背けようとしたが、身体の方はちゃんと分かっていたんじゃないかと、そう思うんだ。
真実、道は塞がれていたのではないかね? だから君は引き返した」
「塞がれていたって、なにで」
「金髪の女の死体によって」
「……ばかな。そんなことがあるはずない」
「人間が一人横たわっていたなら、あの道幅も埋まる。またぐのをためらう気持ちも分かる。
そして事実を拒絶するほどの恐怖を君に感じさせたのなら、それはただの浮浪者などではあるまい」
M氏の頬を冷たい汗が流れた。俺が見たものは人形だった。そう、確かに「見た」。しかし、引き返したのも事実。俺の脳は、俺に、ちゃんと現実を見せていたのか――?
不意に、友人は大声で笑った。
「冗談だよ。あんまり思い詰めるのはよくない。温かい酒を飲んで、さっさと寝てしまうことだな」
「ああ。分かったよ」
そうしてM氏は友人と別れ、助言通り、酒をあおって床についた。
翌朝、軽い頭痛とともに朝刊を広げたM氏は、思わず天を仰いだ。おお、神よと。
そこには、件の路地でブロンド髪の娘の遺体が打ち捨てられていたという、ロンドン警視庁の報道発表が掲載されていた。




