翠嵐鏡と隼飛び
栄都セレスティアの灯は、はるか遠くに小さく滲んでいた。
人の営みの光など、ここまでは届かない。切り立った岩肌と、痩せた針葉樹ばかりが続く山岳の奥地。昼なお薄暗く、吹き抜ける風は冷たく、どこか獣臭い。
その人気のない斜面を、一人の司祭が歩いていた。年の頃は四十前後。ややふくよかな体つきに、柔和な顔立ち。どこにでもいそうな、温厚そうな司祭だった。
だが、その足取りには迷いがない。まるで、この先にいるものを最初から知っていたかのように。
不意に、低い唸り声が風に混じった。岩陰の闇に、赤い火がともる。一つ、二つ――いや、違う。幾つもの赤い光が、じっとこちらを見ていた。
目だ。
黒い体毛を逆立て、口の端から火の粉を零す魔獣――ヘルハウンド。その群れが、斜面のあちこちからゆっくりと姿を現す。
さらにその奥。山肌に落ちる影の中に、人の形をしたものが立っていた。
かつては人だったのだろう。顔も手足もある。だが、肌は灰色にくすみ、頬や指先の一部が黒い靄のように揺れている。その黄色く濁った眼差しは、もう完全に人のものではなかった。
「……なんだ、お前は」
しゃがれた声が響く。
「なぜ、こんな場所にいる」
司祭は立ち止まり、困ったように眉を下げた。
「いえ。少し、暗影の気配を追っていたものでしてね」
その声は穏やかだった。道に迷った旅人にでも返事をするような、柔らかい口調だった。それが逆に、魔族の男には気味悪く映ったらしい。
「何者だ」
「名乗るほどの者ではありませんよ」
司祭はそう言って、静かに息を吐いた。
次の瞬間。
司祭服の内から、剣と盾が滑るように現れた。ややふくよかに見えた体の輪郭は、巧妙に隠された装備込みのものだったのだろう。その動きは静かで、あまりにも無駄がない。同時に、刃と盾の縁に沿って、圧縮された翠嵐の魔力が迸る。
風が鳴る。
魔族の男の表情が変わった。隙のない立ち姿。そして何より、盾と剣に刻まれた紋章を見たからだ。
かつて魔人の企みを退け、灯火の聖女と共に命を賭して聖都を救い、滅びた英雄の一族――ソーカ家。
「……ソーカ家?」
声が掠れる。
司祭は、柔らかな微笑みを消さないまま、静かに構えた。
「……よくご存知で。グラン・ソーカと申します」
その名を聞いた瞬間、魔族の男の顔から余裕が消えた。
「す、翠嵐鏡グラン・ソーカ……!?」
明らかに一歩、後ずさる。
「まさか……こんな場所に、なぜ貴様が……!」
グランは答えない。ただ穏やかに、しかし一切の揺るぎなく言った。
「貴方はここで終わりですので、問答は意味をなしません」
その声音を聞いた瞬間、魔族は悟ったのだろう。
勝てない。
「行け! ヘルハウンド!!」
魔獣たちが一斉に地を蹴った。爪が岩を削り、牙の奥で火が膨れ上がる。次の瞬間、猛烈な火炎が吐き出され、山の斜面を赤く染めた。轟、と熱風が吹き抜ける。
だが、その火炎がグランを呑むより早く、魔族の男は身を翻していた。最初からそのつもりだったのだろう。ヘルハウンドに時間を稼がせ、自分だけ逃げる。実に魔族らしい判断だった。
「く、くそっ……! あれと正面からやり合えるか……!」
斜面を蹴り、岩場を飛び移る。背後では、燃え盛る炎がなお唸っている。
だが、その音の中に、別のものが混じった。
風だ。鋭く、速く、そして圧倒的な風。
「なっ――」
振り向いた瞬間、魔族の男は見た。
炎が裂けていた。
焼けつく火の息を、見えない何かが断ち割っていた。爆ぜる火を押し返すように、鋭く速い風が山肌を走り抜ける。剣を振ったようには見えなかった。ただ、風が鳴った。
次の瞬間、ヘルハウンドたちの胴が、喉が、脚が、まとめて裂けていた。背後の岩肌にまで、細い斬撃の跡が何本も刻まれている。まるで、烈風そのものが剣となって走り抜けたようだった。
断末魔すら長くは続かない。魔獣たちが崩れ落ちる。その向こうに、司祭服を揺らす男が立っていた。変わらず、穏やかな顔で。ただ、その目だけが静かに冷えている。
「ば、馬鹿な……」
魔族の男は無我夢中で駆け出した。岩場を蹴り、斜面を滑り、痩せた木々の間を縫うように走る。背後を振り返る余裕はない。ただ、グランの気配だけを探りながら、少しでも遠くへ逃げ続けた。
追撃はない。風の刃も来ない。グランの気配も、もう感じない。
逃げ切れる。
そう思った。いや、そう思いたかった。
だが次の瞬間、逃げる先の岩場から突風が吹きつけた。
「ぐっ――!」
視界が白く揺れ、足が止まる。
風が、止む。
――なんだこの突風は。
戸惑った瞬間には、もう遅い。
グランは目の前にいた。翠嵐の魔力を宿した剣を構え、静かに立っている。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
「お、お許しを……黄竜様……」
その名を聞いても、グランの表情は変わらなかった。ただ、剣をわずかに上げる。
「風よ、裂け――《烈風剣》」
短い詠唱。グランの剣が静かに振られた。
風が走る。鋭く圧縮された翠嵐の斬撃が、魔族の喉元を一閃した。遅れて、細い裂け目から血が噴き出す。
魔族の身体が力を失い、岩の上に崩れ落ちた。
グランは刃を軽く払い、何事もなかったように剣と盾を司祭服の内に戻した。その瞬間、また穏やかで、少しふくよかな司祭の姿に戻る。
この男は、どんな時でも剣と盾を手放さない。かつて聖女の護衛として生きていた頃から、それだけは変わらなかった。
遠くに霞むセレスティアの光を一瞥して、低く呟く。
「……魔族の影が、少しずつ力を増してきているな」
その声音に、安堵はない。この程度は、前触れにすぎないと知る者の声だった。
⸻
で、こっちはこっちで、わりと切実だった。
結論から言うと、シャーロットちゃんは極度の運動オンチだった。
いや、違うな。"運動オンチ"って言うと、なんかこう、ちょっとかわいい感じがある。でも本人は、たぶん本気で深刻だ。次の三大流派の実習の話が出た瞬間、魂が半分抜けたみたいな顔をしていたので、たぶん間違ってない。
で、その理由を聞こうとしたら、なぜかアルガスが語り始めた。
「昔からあいつ、そうなんだよ」
なんだその、"事情は全部知ってますけど?"みたいな雰囲気は。
「シャーロットちゃんと幼馴染なんだっけ」
「家が隣で、腐れ縁みてぇなもんだ」
言い方は雑だけど、否定はしないあたり、まあそういうことなんだろう。
「で?」
「で、ってお前……」
アルガスは頭をかきながら、いかにも面倒そうに続けた。
「昔、子ども会で木剣を使った時、あいつだけ刃の方を握ってた」
「刃の方!?」
「柄じゃなくて、打つところを両手でな」
「どう戦う気だったの!?」
「知らねぇよ! 本人は真面目だったんだよ!」
真面目に逆は、逆にすごいな。
「あと走るのもだめだ。昔、ちょっとした競争をした時、走り出して三歩で転んだ」
「三歩!?」
「しかも転んだあと、"私は地面です"みたいな感じで倒れ込んでたんだ」
「シャーロットちゃん、その頃から防御型すぎない?」
すると当の本人が、顔を真っ赤にした。
「ち、違うんです……! あの時は、石が……!」
「ねぇシャーロットちゃん、もしかして人生ずっと地面と相性悪い?」
「そ、そんなことは……たぶん……」
たぶん、で止まるんかい。
アルガスはまだ終わらない。
「川を飛び石でみんなで渡る時も、一人だけ最初の石で止まって泣きそうになってた」
「それもう実技以前の問題では?」
「最後は俺が手ぇ引っ張った」
「……あ」
シャーロットちゃんが、ますます小さくなる。
なるほど。アルガスの言い方は雑だけど、毎回ちゃんと助けているんだな。
笑い話みたいに聞こえるけど、シャーロットちゃんの肩はずっと小さく縮こまっていた。本人にとっては、たぶんずっと笑い話ではなかったのだ。
「この前なんか準備運動で右手上げろって言われて、左上げてたぞ」
「シャーロットちゃん!?」
「き、緊張していたんです……!」
「それ本番前からデバフかかってるやつじゃん……」
私は思わず額を押さえた。
もはや"運動が苦手"とかいうかわいいレベルではない。"私は運動できない"が、本人の中にしっかり根を張ってしまっている。実技の話が出ただけで青ざめるのも、そりゃそうだ。
でも。
運動なんて、結局はたくさん身体を動かしたもん勝ちなところもある。なにを隠そう、私も現代小学生時代、縄跳び界隈ではちょっとした有名人だった。地域限定で"隼飛びの昇華"とかいう、技名そのままの二つ名まであったくらいだ。
……今考えるとだいぶ恥ずかしいな、それ。
でも、できなかったことが、ある日ちょっとだけできるようになる感じは知っている。だから、シャーロットちゃんも大丈夫だ。
たぶん。いや、たぶんじゃ困るな。
私は腕を組んだ。
「とりあえず、シャーロットちゃんの実技克服計画を立てよう」
「計画?」
シャーロットちゃんが、おそるおそる顔を上げる。
「うん。いきなり流派とか無理なら、その前の段階からやればいいんだよ」
「その前の段階って?」
「まずは――」
私は少し考えてから、真顔で言った。
「転ばずに走るところからかな」
「そこからですの!?」
リリスのツッコミが飛ぶ。
「いやでも大事じゃない? 土台って」
「たしかにそうですけれど、想像以上に基礎でしたわ……」
ミーナは明るく手を挙げた。
「じゃあ、みんなで一緒に走ろうよ!」
「いいですね!」
エルヴィンまで乗ってきた。
「僕も最近、少し運動不足でしたし」
「なんで俺まで」
アルガスが露骨に嫌そうな顔をする。
「幼馴染なんでしょ?」
「ぐっ……」
効いてる効いてる。
シャーロットちゃんはまだ不安そうだったけど、さっきまでみたいな、今にも泣きそうな顔ではなくなっていた。
私たちは、シャーロットちゃんを先頭に走り出した。
⸻
この時の私は、まだ知らなかった。こんな平和なやり取りをしている、その裏で。
お父さんとお母さんが、異形の敵と戦い続けていることを。
そして、その影がいつか、私たちの学院生活にも伸びてくることを。




