妹なのに
ロイドが降参したと同時に、アリナも地面に腰を下ろした。
負けた。
パートナーの敗北は、それ即ち自身の敗北だ。
自分の出来る事は全てやった。それでも、決して崩せない圧倒的な強さ。対魔物しか考えていないから、魔導士を介した戦いには不慣れのはずだった。それでも、練体術の重ね掛けという強力な技の前には問題にならない。力、技術、経験。全てにおいて少なくとも世界で三本の指には入るはずだ。ロイドが入れ込むのも分かる。
彼の強さを思い知ったが、胸に込み上げる悔しさは止まらなかった。両目から無数に雫を零す彼女の前に、ハンカチが差し出された。エレインだ。
「ごめん……」
「私の言葉じゃ気持ちが晴れないと思いますけど、言わせて下さい。アリナさん、凄くかっこよかったです。ヴィルハルトさんに負けないくらい」
「……ありがと」
何処で知ったのかエレインが不器用に、しかし優しく頭を撫でる。二十にもなって人に頭を撫でられるとは思っていなかったので、かえって新鮮な気持ちになった。
「答えろ、アリナ」
その時、不意に頭上から声が聞こえた。顔を上げると、模造剣を携えたヴィルハルトが見下ろしていた。こちらに目線を合わせるなど一切考えていない、相変わらずの唯我独尊さを見せながらも今は彼なりに他者を理解しようとしているように見える。
「何故ただ幼少期を知っているというだけで優しくされたわけでもない男をそこまで気にしている。それとも、俺が覚えていないだけか?」
その言葉に、しばらく迷ったような表情を見せたアリナ。しかし、やがて意を決したように彼を真っ直ぐ見据えて言った。
「アンタが何かしたんじゃないわ。ただ、アタシが勝手に憧れただけだから」
*
『ただいま、アリナ。ちょっと見ないうちに背ェ伸びたんじゃないか?』
『おかえり、兄さん! ねえ、またお話聞かせて!』
『ハハハ、好きだな、アリナは。いいぞ、今回はとびっきりのヤツを話してやる』
アリナにとって、兄・ジュリウスは誇りだった。いや、それはきっと彼女だけじゃなく、国にいた全ての人々の誇りだっただろう。
戦士としての初陣で、キマイラを討伐。魔将の討伐に加え、練体術の三重掛けという離れ業。功績を挙げればキリがない。
更に、その人格は絵にかいたような好青年。誰よりも笑い、誰よりも前向きで、誰よりも強かった。いつからか『英雄』『白閃の勇者』という二つ名を持つようになり、その名声は日に日に高まっていた。
『私、大きくなったら戦士になるの。戦士になって、兄さんと一緒に魔物をやっつける!』
『ハハハ、それは嬉しいな。……と言いたいところだけど、多分そうはならないかな』
『どうして!?』
『アリナが大きくなる前に、俺が魔物を全部やっつけちゃうからさ。でもまあ、万が一そうならなかったら……その時は、俺の背中は任せたぜ』
どれだけ命懸けの戦場から帰ってきても、笑顔を絶やさない兄が眩しかった。子供の戯言にも真剣に向き合い、受け止める兄の器は、今から思い返しても底の知れない大きさだった。
だからこそ、ヴィルハルトが気に入らなかったのだろう。
『よう、ヴィルハルト。やっぱりここにいたか』
『また来たのか、ジュリウス。いい加減しつこいぞ』
『そう言うなって。お前も、俺の愛する《世界》の一人なんだ』
常に最前線で戦う兄は、忙しい合間を縫って自分たちのところに帰ってきてくれる。そして一人一人と顔を合わせ、話をして、また戦場に戻る。それなのに、ヴィルハルトは兄の苦労を知らずにあのような態度を取り続ける。それが、腹立たしかった。まるで尊敬する兄を踏みにじられたような気がしたから。
だが、彼女は表立ってそれを言うことはしなかった。兄が魔王を討ち、世界を救えば、彼も兄を認めると信じていたから。だから、今のうちにせいぜい嫌っていればいいと、自分にそう言い聞かせた。
それが崩れたのは、十年前のあの日。世界各地で魔物の大群が出現した、『崩れの日』と呼ばれる日。『英雄』ジュリウス・ヴァーミリオンが魔王に敗れ、アリナの生まれ育った村は跡形もなく破壊された。かろうじて生き残ったヴィルハルト、ロイド、アリナの三人は被災者用の施設に預けられることになった。この時、ロイドが言った。
『生き残ったからには生き抜いてやろうぜ。オレ達三人、協力してやっていこうじゃねぇか』
『協力って……どうするのよ。もうお父さんもお母さんも、兄さんだっていないのに』
『だからこそだ。どうしようもないからこそ、生き抜く為に打てる手を打とう。な、ヴィルハルト』
『……知るかよ』
心底どうでもいい、といった表情でヴィルハルトは立ち上がった。
『おいおいヴィルハルト、お前が一人でいるのが好きなのは知ってるけどよ。流石に今回ばかりは手を取り合おうぜ。その方がお互いの為に――』
『下らないな。手を取り合うというのは、そこで死んだ魚の目をした奴のお守りでもしろということか? それとも、カウンセリングでもやればいいのか? ふざけるなよ、立つ気が無いなら勝手に引き籠っていろ。俺の邪魔をするな』
普段冷淡な彼の口調に、少しだけ熱が籠っていた。しかしそれは腹立たしいという自分本位の怒りであり、彼はこんな時でも他人の事などお構いなし。そういう人間だとは分かっていたが、こうまで見せつけられると同じ人とさえ思いたくなくなってくる。
『ちょっとアンタ、何処に――』
『やる事がある。お前はそのまま兄の事だけ思い出していろよ』
ヴィルハルトはそれだけ言って施設を出ていった。ただ、一枚の新聞だけを握りしめて。
昔からいけ好かない奴だったが、ロイドの厚意を無視したどころか兄さんたちの死さえ気に留めないような態度には心底腹が立った。腹が立ち過ぎたのと彼女自身相当弱っていた為に、却って何も言えなかったが。
それから数ヶ月、孤児院の子供たちに身体検査が行われた。それには魔力の有無や適性の診断も含まれていた。ジュリウスの妹であるアリナは、当然大きな注目を集めた。結果として、彼女は極めて強力な魔力を有しており、天才と呼んで差し支えなかった。ただ一つ、問題点を挙げるとすれば――彼女が適合したのは練体術ではなく魔術だったことだろう。
その診断結果は、彼女も心を砕くのに充分だった。何しろ、『兄のような戦士になる』という最後の希望さえ、打ち砕かれてしまったのだから。
『ロイド、アンタは練体術の適性があったのよね?』
『ああ。尤も、戦士の平均ぐらいの強さらしいけどな』
『何で……』
『え?』
自分でも、いけないと思った。それ以上言ってはダメだと。だが、溢れ出す気持ちを幼い彼女は抑えられなかった。
『何でアタシが魔術で、アンタが練体術なのよ! 何で逆じゃないのよ!! アンタみたいな何も背負ってないヤツが何で、何で……』
言ってから後悔の念が押し寄せてくる。生まれつきの適性はどうしようもないから、ロイドは何も悪くないというのに。それに何より、崩れの日で家族を亡くしたのは、ロイドだって同じだ。生まれつき父親がいなかった彼の、たった一人の肉親だった母親が魔物に喰われているのを、二人は目撃している。
怒られるだけならまだいい。絶交されてもおかしくない程の暴言を聞いたロイドは、しかし。
『そうだな。逆だったら、どんなに良かったかな』
ただ、悲しげに笑いながら頷いていた。
*
それから暫くして、国の新体制設立を祝う祭りが開かれた。未だ兄の死と自身の適性を受け入れられず、無気力に生きていたアリナもその祭りに連れられていたが、ただロイドに引きずられるだけだった。やがて彼から逃げ出した彼女は、知らない場所まで走り出していた。目の前に一際大きな家があるが、それ以外には特徴的なものは見当たらない。完全に迷子になってしまった。
どうしよう。そう思っていた時、大きな家の庭から、音が聞こえた。
何の音か気になってみると、そこには厳格な顔つきの男性の傍らで、一心不乱に木剣を振るうヴィルハルトの姿があった。




