四日目、三 ピンポーン。
俺が死を覚悟したその瞬間、化け物の横を白い影が通った。それは俺と化け物の間に立ちふさがり、化け物へ向かってスプレーのようなものを噴射した。
「ギャアアアアアッ!!」
悲鳴を上げて逃げだした化け物の背中に、白い影はドロップキックを炸裂させる。そのまま倒れた化け物に馬乗りになり、至近距離で両手のスプレーを噴射した。部屋の中に、薬品臭いにおいが充満する。
「ギヒイイイイイイッ!!.........あ……ガ……ゲヒ……」
しばらくびくびくと痙攣していた化け物は、段々と動きを弱めていき、ついに絶命した。
白い影は振り向くと、きびきびとした足取りでこちらに向かってきた。
「ば、ばーちゃん......?」
それは、真新しい白の着物と、モンペに地下足袋を履いた山形の祖母だった。白髪をうっすらと紫に染めている。両手には、キンチョールの缶を持っていた。
「向こうで買った、おろしたての服が汚れてしまった」
微かに眉をひそめてそう呟きながら、彼女は力強く俺の肩を掴み、無理矢理に立たせる。
「もっと強くなれ、馬鹿孫。助けるのはこれで最後だぞ」
鷹のように鋭い目で俺を見てそう言うと、彼女は風のように去っていった。
取り残された俺は、しばらく茫然と突っ立っていた。
.........そして我に返ると、あたりの光景は一変していた。俺は見知らぬ廃アパートの一室にいた。床板は傷んでところどころ腐り落ち、壁は日焼けした壁紙が剥げて下地がむき出しになっている。ベッドは壊れかけの木枠しかなく、天井には蜘蛛の巣が張っている。割れた窓の外には鬱蒼とした木々が茂っており、小さく虫の声が聞こえてきた。
「どこだ、ここ......?」
ふらふらと進んだ俺は、玄関のそばに倒れている化け物の死体を見てびくりとしてしまった。激しい怒りが湧き上がってきた俺は、彼女へ向けて罵声を浴びせる。
「こんのブンブンバエが!人間様に逆らうからこうなるんだ!地獄へ行けカス!!」
彼女の近くで弱弱しく這いずるハエを見つけたオレは、それを何度も踏みつけてうっぷんを晴らすと、腕の傷の痛みをこらえながら、出口を求めて進んでいった。
アパートの外には半分草に埋もれた駐車場があり、そこにはぽつんと一台白い軽が止まっていた。ポケットの中に入っていた車の鍵を差し込むと、扉が開く。これは俺のものらしい。運転席に座ってみると、なんだかしっくりくるような気がした。
燃料はまだ半分ほど残っていた。エンジンをかけ、エアコンを全開にして一息つくと、ようやく自分が危機を乗り越えた実感がわいてきた。すると徐々に、失われていた記憶が蘇ってくる。
ここは、県内でも有数の心霊スポットだ。夏休みで暇を持て余していた俺は軽い気持ちでこの場所を訪れ、そしておそらくあの部屋に入った瞬間、化け物の見せる幻に囚われてしまったのだろう。
.........ドリンクホルダーに目をやると、助手席側に、口紅のついたブラックの缶コーヒーが入っていた。
「俺は.........誰かとここに来たのか.........?」
頭が割れるように痛み出す。封じられていた彼女との思い出が、早送りの映画のように脳裏を駆け巡る。
『まだニンジン食べられないのー?光男は本当に子供だなー、もうっ』
『私、そろそろ声優やめようかとおもってるんだー。ほら、今年に入って全然仕事来なくなったし。予想通りだからへこんではないけどね。
.........で、さあ。話は変わるんだけど、黒川茜って名前、いい響きだと思わないかな?かなっ?』
『心霊スポット?いいよ、行こう!どうせ私も暇だしねー、えへへ』
『な、なにこのハエ.........?助けて、光男っ!!
.........光男?.........置いて行かないで!光男っ.........!!』
「九条、茜......…俺の、恋人......…!」
ウジとハエに食い荒らされた、彼女の死体の姿がフラッシュバックする。
「ううっ......…ごめん......…。茜.........ごめん.........っ!」
俺はハンドルに顔を突っ伏して泣いた。
・・・・・・
腹の痛みをこらえながら、薄暗い山道を下っていく。茜との記憶が次々と蘇ってきて、俺はそのたび、歯を食いしばって悲しみに耐えた。時々どこかからハエの羽音が聞こえてくるような気がして、あたりを見回すが見当たらない。
.........奥歯に何か挟まっている。妙に気になって指を突っ込んでみると、それは白い肉の筋だった。
おかしい.........俺が食べたのは干し芋だったはずだ。なのになぜ、口の中にこんなものが.........?
隣の部屋のあいつが干し芋を渡す前にたてていた、なにかを引きはがすような音。
頬の肉がごっそりと無くなっていた茜の死体。
「うっ......…!」
猛烈な吐き気と腹痛が襲い、俺は車を止めた。
「俺が食べてたのは.........」
五本のアイス。無くなっていた左手の指。
「俺が食べてたのは.........っ」
白いブドウ。空っぽの左目。
「茜だったのかよおおおおっ.........!!」
内側から針で刺されているかのように腹が痛む。俺は扉を開け、食べたものを吐いた。
『ピンポーン』
「......…っ!?」
もう聞こえるはずのないその音は.........いや、その声は、俺の喉の奥から聞こえた。
『正解です、黒川さん。半分こ、って、言いましたよね?私.........』
「あ、ああ……うあああああ......…」
俺が吐いた塊の中ではウジが蠢き、そこから一匹のハエが耳障りな羽音を立てて飛び立つ。
『あなたの身体も、私と半分こ......…』
「うわあああああああああ!!!」
叫ぶ俺の喉から次々とハエが飛び出し、俺の頭を覆っていく。
すぐ、何も見えなくなり、
それから、ハエの羽音以外、何も聞こえなくなった。
ブウウウウウウウウウウウ.........




